第39話 父との会食 ~ピンクのガーベラ色
「離婚するのなら、その結婚指輪と婚約指輪も返していただけますか、真理子さん?」
「わかりました。
2つそろえて渡さんに返しましょう」
「あの子の方が女性から離婚されたいって思われるのは、こちらとしては困るんです。大体、貴女が彼をちゃんと支えないから。内助の功っていうのかしら、それを怠ったんじゃないの?
それでね、いいのよ。離婚してあげますし金もいくらか差し上げますよ。こちらが貴女に申し出る形にしておきたいのでね」
弁護士の竹田さんからの連絡で、夫は離婚を拒否していたが、親は「すればいいじゃない」と言ってると聞いた。夫としては「一度、両親に会ってくれ。親の考えに任せる」と。
「冷たい人たちですね。結婚指輪など返す義務はないんですけど。
旦那さんが女性とも遊んでいたことも伝えていいんですよ。
とにかくあの物言い。大丈夫ですか?」
「はい。結婚する時も父がいないことを指摘されてましたし。
これで話が進むなら、良かったです」
「お父様の名前を仰ればいいのに・・・貴女が屈辱を味わう必要なんてないんですよ」
竹田さんがなぐさめてくれるのはありがたいけれど、今さら父の名を出したところで別れがどうにかなるものじゃない。
結局は裁判所を使う必要もなく進められるから、それで少しは気が休まった。
夏美さんのことを先生に聞くと、この離婚には、夫の不貞行為の慰謝料について夫婦は話し合えるが彼女の養育費などについては別の問題になるからって言われた。
夫から得た自分へのお金は彼女に渡そうかと思うと伝えると、話が混乱するといけないので何もしない方がいい。その女性に請求をしろということは可能だが、自分の問題ではないからと。
あの親のことも含めて口約束では信じられないから公証証書を作ることになった。内容の確認のために会いたくはないだろうが彼と会わなくては、と。
三日後の夕方遅くに、彼の家に竹田さんと行き顔を見ることになった。まだ鍵は持ってるけれどインターホンを使うのって違和感があるような、もう遠い昔に住んでた部屋だったような気がした。
親が言うように、慰謝料ではなくて財産分与として彼が支払う離婚。指輪にこだわってるようだから返してくれと言われた。
竹田さんは「あげる」と言って受け取られたものは返してほしいとは言えないんだと説明するが面倒だ。自分でとっておいても仕方がないから。その場で指輪を外し、婚約指輪を引き出しから出してテーブルに置いた。竹田さんが「受取書に署名と印鑑をお願いします」と事務的に言う。先日の話を覚えていて、一応、書いてきてたらしい。事務的で冷たいように思えたが、これも後から「言った、言わない」「返した、もらってない」ともめないためのようだ。
財産分与の対象は、結婚してから得た物品、お金、不動産。竹田さんは、このマンションの評価額も用意周到に計算されていた。伝えた金額は夫は高すぎると否定したが、私はこれもどうでも良かった。私が低めの金額を言うと、
「慰謝料でなく、財産分与。その金額ならやるよ」
竹田さんが何か言いたそうだったが私がストップした。私には預金もあるし、住むことが出来る部屋がある。その金額があれば何年も生活できるし働くつもりだから。離婚は私にとって、金額のことよりも気持ちの問題なのだ。年金分割も、後をひくのが嫌だからなしだ。
「500万円は一括で可能ですか? 証書には期限も書かなくてななりませんので」
「いいよ、一括払いの期限は今年中に可能だ」
不愛想に彼が言った。たぶん、親が現金を出すのだろう。
この部屋にある私の物は近日中にでも今年中でもいいから、運ぶことになった。鍵はその時に渡せばいいからと。
母の物や大切なものはほとんど私の部屋にあるし、ここにはタンス一棹とクローゼットの中にある若いころの衣類くらいだ。
彼の部屋を出て、竹田さんが心配してくれ、
「本当によろしいのですね? 財産分与ならもっと高いんですよ」
「結構です。預金もありますし、あれ以上のことを言うと彼も親もしぶると思うんです。早く終わらせてしまいたい。公証人役場の方、よろしくお願いします」
***
疲れた。部屋に入った時にそこで何年暮らしていたかっていう私の匂いが残っていない気がした。すでに私の家ではなく、というか、前から私の居場所ではなかったけれど。左手の薬指のプラチナのシンプルな指輪が消えた。
「貴女が屈辱を味わう必要はない」か。それって、この離婚のことだけじゃなくて今まで味わってきたことだわ。そういうこと無視することって簡単よ。
父に報告しなくてはと、携帯に電話をするとすぐに彼は出た。
「竹田先生と夫の家に行ってきました。話がまとまって、公証証書作ります。早ければ2週間くらいのようです」
「あちらは納得したんだね。疲れてるだろう。
突然だけど、今週昼でも夜でも食事しないか?」
「明後日の夜でも大丈夫ですか?」
六時半に迎えが来ることになった。父のことだから、和食だろう。何が食べたいか聞かれなかったが年齢的にも今までの仕事のつきあいにしても。
着物にするか洋服を着ていこうか考えた。母のことを思い出させてあげることなんてない気もするけれど。私ったら、病院で会った時には突然で「こんなものか」と思っていたけれど、緊張してるわ。
季節外れだけど母の好きな桜の柄の着物もあるけれど、私に合うカジュアルな着物ないかしら。沖縄のお召し。ベージュがかったピンク色の落ち着いた奇麗な無地。これにしよう。
店で父の名前を言うと仲居さんが女将を呼び、挨拶された。もう父は着てるからと部屋に案内される。
「素敵な色無地・・・あら、紬かしら?」
「さすがですね、中間のお召しです。こんな店だと小紋か訪問着にすればよかったです」
「紬でいらっしゃるお客様は多いですよ。慣れたものや好きなものをお召しになるのが一番です」
父の顔はなんとなく、真っすぐ見ることが出来ない。どう挨拶していいのか、目が彼のネクタイピンあたりをさまよう。
「竹田先生からも報告あったよ。内容はあれで大丈夫なんだね」
「お金や条件より、もう縛られてるのは嫌です。何もいらないくらいです」
「だが、婚約指輪うんぬんとは、子供みたいだな。
君の元夫や親のこと悪く言うのもなんだが」
「私が持ってても使わないし、これで良かったんです。
先生が『あんなこと、貴女が屈辱を味わうことない』って言ってくださいました。
でも、私、今までに屈辱と感じないようにしてましたけど、陰で何か言われることありましたから」
「申し訳ない」
「嫌味に聞こえたらごめんなさい」
***
父は忘れてしまうといけないからと箱を出した。開けてもいいかと聞くと頭に手をやり照れながら「どうぞ」と言う。薄いピンクのストールだった。少し薄紫がかったグラデーションになっている。退院祝いらしい。
「ありがとうございます。欲しかったんです」
「売り場では困ってしまってね」
誰かに頼まず、彼が選んだそうだ。
食事が運ばれてきてストールをたたんで横に置くと、女将が、
「お母様によく似ていらっしゃいますね」
「今日は二人でゆっくりしたい。女将さんは気を遣わなくていいからね」
「ええ、ええ。どうぞごゆっくり。だんだん食事を運んで参ります」
どうやら母はここで仕事もし客としても来ていたようだった。私の知らないところで、父と母のことを知ってる人たちがいる。
「昔の母のことは知らなくて。蔵田さんのことを聞いても教えてもらえなくて。不思議な感覚だわ。今までは平気だったのに悔しいです」
「・・・申し訳ない」
「母とは仲良かったし尊敬もしてますけど。どうして心の内を話してくれないのか、真実を教えてくれないのか。急に腹が立ってきて、悲しくて」
私はどうしたというのだろう。こんな風に父や母を責めたり怒ったりするつもりなんてなかったのに。だけど、とまらない。
「吉野さんには話してたようですけど。ほとんど言わなかったようだから母は秘密主義なんでしょう。でも、私だけが知らないのって母娘なのに変だわ」
「君は、ずっと我慢してたんだな。親の、私の身勝手のために」
「母と私は違います。私は、お腹の子の父親のことは好きでしたが深い絆で結ばれてはいませんでした。母は愛されて、それでも応援を拒否して私を育てて。
私は夫からも愛されなくなって。本当の愛って・・・」
お酒は苦手だけれど、一口飲んだ。
私は母と自分を比べてしまって、ひがんでるだけじゃないの。
「私のこと、陰で見てたことは知ってます。マンションにしても学費にしても。だけど、全部、お金や物だわ。強引に私の前に現れてくれれば良かったのに」
「そうだな。君の言う通り、私に勇気がなかったんだな。
君のお母さんは弱音をはかない人だと思っていたが、甘えるのが下手だったのかもしれない。そして、私はあの頃、そんな彼女の気持ちを見抜けなかった。彼女のことは責めないでやってほしい。
君の今までの不快な気持ちは今後も全部受けとめたいと思っている。もっと早くそうすればよかったとも」
「お金で、ですか?」
「そうじゃないよ。もしも必要なら生活もみるが。
今日みたいに話してほしいってことだよ」
***
椀物が運ばれて、ふたを開けると美味しそうな香りがたつ。湯気がゆらゆらして熱そうだ。私の今の心を表してるように見えて急いで箸をつけた。
「私は、母に嫉妬してるみたいです。相手の男性には妊娠してないと嘘ついてました。男性には愛されなかったから子供を代わりにしてたんでしょうか。母が私をいつくしんでくれたようにしたいって」
「女性が産みたいと思う気持ちは母性も関係があるのかもしれないね。だけど、命もかかっている。簡単に産もうと決められるものじゃない。相手の男性のことは別としても。
実際、君は危険な状態だったんだからね」
母が教えてくれなかったことは腹が立ったけれど、本当に好きだった。強くて優しくて、人の悪口言わなくて。彼女が逝ってしまった喪失感を父と共有できなくて、昇華することが出来てないみたい。それに子供もなくして夫とも別れて、傷ついてるの・・・。
「そうだな、逝った時に君としっかり会うべきだった。
君の言わんとすることは、ほんの少しかもしれないが伝わってきたよ」
「ごめんなさい。せっかくの食事の時に。
どうして急にこんな風に溢れてしまったのか」
「構わないよ。突然に現れた知らない父親と最初から楽しく笑って話す方がおかしい。
もっとぶつけてくれていいんだよ。実はね、それを覚悟して来たんだから」
父は私の負の感情を知ってて受けとめるというのか。仲良くしなくていいから、時々、食事をどうかと誘う。怒りも屈辱も理不尽な体験も何を話してもいいと、そのうち、昔のエピソードも自然に出てくるだろうだなんて。
私は父と呼ぶことが出来なくても、この人のことが知りたいと思う。
お酒は飲む人のようだと思っていたけれど彼は全然飲んでいない。お酒の力を借りないで私と向き合ってくれようとしてたんだ。
水菓子のゼリーとお饅頭。もう食べられないからと私にすすめる。私もお饅頭二個はとても無理だ。
「ひんやりしたゼリー頂いて、お饅頭は懐紙に包んで持って帰ります」
夜風は寒い。道行コートはなしで来たし、せっかくのストールだ。肩にかけると着物の色とよくなじんだ。ここにもピンクのガーベラの花が咲いたみたいに。
「着物にも洋服にも合いそうです」
何も言わず、父は嬉しそうに顔をゆるめた。




