後編
仕事が遅い日や会食の予定などが入っていない限り、二人で一緒に夕食を食べる。
エヴァがブライアンに作ったのは林檎のパイだった。
八歳の頃にブライアンが好きだと言ったものだ。
今も好きかと問われたら答えに困るが、ブライアンはそれを美味しく食べた。
いつものように食事を終えようとした時だった。
「――ブライアン、話があるの」
エヴァの言葉にブライアンはワインを飲んでいた手を止めて、グラスをテーブルに戻した。
「何でしょうか……?」
声に緊張がはらんでいたのは、これまでエヴァから話があると言い出したことなどなかったためだろう。
無意識に声が重くなり、肩に力を入れて座り直す。
そんなブラアインを、エヴァはいつものように穏やかな瞳で見つめた。
「ブライアン。あなたにはとても感謝しているわ」
エヴァの口から出てきたのは感謝の言葉だった。
ブライアンはただ首を横に振り、珍しく言葉を濁らせていいえと呟く。
「けど、やっぱりこういうのは良くないと思うの」
「俺と一緒にいるのが嫌ですか……?」
「そうじゃないわ」
エヴァはゆるく首を横に振る。
視線はまっすぐに、ブライアンを穏やかに見つめたままだ。
ブラアインの脳裏に、伯爵との話が蘇る。
成人した男女がいつまでも一緒にいることはできない。
このままではいられないと分かっていたことだ。
「分かりました。ですが、あなたは何も心配しなくて良いです。俺が、きちんと信頼できるところを探します。ですから……」
「ブライアン」
途中でエヴァの声に遮られ、思わず口を結ぶ。
エヴァはいつもと変わらない柔らかな笑みを浮かべて、ブライアンを見つめていた。
「ブライアン。私のことは、気にしなくて良いの」
優しい声音がブライアンの心を締め付ける。
初めて会った時から、エヴァはブライアンより年上の優しいお嬢様だった。
ブライアンは決して大人しい子供ではなかった。
八歳の年齢に相応しく、いたずらをすることも元気が良すぎて祖父を困らせることもあった。
けれど、エヴァにだけは逆らえなかった。
彼女の穏やかな瞳で見つめられるたびに、優しい声音で話しかけられるたびに、ブライアンのいたずら心は鳴りを潜めて素直な返事しかできなかった。
「あなたは自分のことだけを考えて」
穏やかな瞳がこちらを見つめる。
それはあの頃と変わらない、八歳の少年に向けるような温かいものだった。
翌日、ブライアンは昨夜のエヴァの言葉が頭から離れず、仕事が手につかなかった。
今朝のエヴァはいつもと変わらなかった。
いつもと同じように、優しい声でおはようと声をかけてくれた。
ブライアンがほとんど眠れなかったなんてきっと思ってもいないだろう。
エヴァにとって自分があの頃と同じ八歳の少年のままだということは、共に生活をしている中で感じていた。
姉のような目で見つめられるたび、自覚する思いと苦しい理性。
机の上に目をやる。
仕事の書類が重なる側に、一つだけ違う用紙にはいくつかの名前が連ねられている。
それに手を伸ばすと、ぐしゃりと乱暴に握りつぶして部屋の隅のごみ箱に放り投げた。
ごみ箱から外れて床に落ちる音を聞いて、深く溜息をつく。
「はぁ……。往生際が悪いな……」
昨夜から何度目のため息だろうか。
同じことばかり繰り返し頭の中を巡っているのに、それでも振り切れない自分が嫌になる。
先ほど投げ捨てた用紙に目を向ける。
部屋の扉をノックする音がして、秘書が入ってきた。
手には書類らしきものが抱えられており、それに目を通しながらブライアンへと声をかける。
「この後の予定ですが……」
「悪い。出かけてくる」
秘書の言葉を遮って、椅子から立ち上がる。
速足で部屋を出て行く後ろで秘書が何度も呼んでいる声が聞こえた。
けれどそれを無視して会社を出ると、急いで馬車に乗り込む。
途中で一件の店の前で停まるよう声をかけて降りた。
しばらくして戻ってきたブライアンが抱えていたものに目を丸くしている御者を急かして、再び馬車を走らせた。
車輪の音が響く中、馬車の中でブライアンは目を閉じた。
目を閉じて浮かんでくるのは、いつだって一人の顔だった。
穏やかな瞳で見つめる、柔らかい微笑み。
「お嬢様……」
ブライアンにとってエヴァは永遠に敬愛するお嬢様だ。
初めて会ったとき、七歳年上の彼女はとても大人っぽく見えた。
貴族令嬢であった彼女は、しゃがんでブライアンに目線を合わせて、優しく声をかけてくれたのだ。
上品で洗練された、年上の優しいお嬢様。
幼いブライアンの心に一気に埋め尽くされた。
幸せになって欲しい。
それは真実の願いだ。
彼女のためならば、道がぬかるんでいれば抱いて歩いて足元を汚させたくないし、ベンチが汚れていれば上着を敷くことも厭わない。
どんな苦労も悲しみも、その前で薙ぎ払って護りたかった。
彼女が頼りがいのある相手と結婚をして、世界で一番幸せな未来を歩んでいくのを、いつまでも見守りたかった。
子供の頃は、騎士のように本当にそう思っていたのだ。
そんなブライアンを見て、祖父が笑って言っていた言葉が脳裏に蘇る。
それは騎士などという言葉ではなかった。
そうして、身分が違うんだよ、とたしなめるように言っていた。
幼いころのブライアンにはそれは気にすることではなかった。
ただただ心から、護りたいと思っていた純粋な思いだった。
それが、十五年ぶりに再会して、そんな決意は幼心の理想に過ぎないと思い知らされた。
再会したエヴァはあの頃よりも美しくなり、穏やかな瞳で見上げてくる。
昔はどうやってあの視線を真っ直ぐ見れていたのか分からない。
今はあの瞳に見つめられるたびに、目も合わすことができない。
そんな自分の動揺が、彼女に邪まな思いを抱いて汚してしまっているようで怖かった。
「他の誰かなんて、耐えられないくせに……」
想像して奥歯を噛みしめた。
馬車が大きく揺れて止まり外へ降りる。
着いた先は自宅だ。
ブライアンは急いで玄関を開けて中へ入った。
扉の開く音に気づいたのか、こちらへ向かってくる軽い足音が聞こえる。
「ブライアン? 今日は早いのね……」
耳の中で反響する、心地いい声。
この声が遠くへ行くなんて、考えきれないと思う。
いつまでも、自分の側でその声を聞かせて欲しいのだ。
その気持ちから目を背けることなどもうできなかった。
廊下を曲がって現れた姿を見て、その思いが心の中から飛び出す。
「俺と結婚してください、お嬢様」
ブライアンは腕に抱えていた白いバラの花束を差し出して跪いた。
抱えるほど大きな真っ白いバラの花束。
「ブライアン……?」
花束を見たエヴァが目を見開いて驚く。
甘い香りに包まれる。
「ずっと、あなたの幸せを願っていました。あなたに相応しい結婚相手を。けれど、見つかりませんでした。どんな良い人物でも、あなたを任せることなんてできなかったんです」
この一ヶ月、実際にはエヴァの結婚相手候補は何名か名前が挙がっていた。
適齢期からは外れている年齢だったが、エヴァの穏やかな人柄は望む者も少なくなかった。
けれど、ブライアンは候補者を見るたびに、優しすぎて優柔不断じゃないだろうかとか、男らしいが乱暴ものではないだろうかとか、何かにつけて不満をつけていた。
「あなたの側に他の男がいるなんて、俺は耐えられません」
自分ではない誰かが彼女を愛し、彼女の微笑みを向けられるのかと思うと。
言葉とは裏腹に、どんな好条件の相手でも決めかねて、その名前が連ねられた用紙を握りつぶしてしまった。
「正直、迷いはありました。俺のような成り上がりが、あなたに求婚できる資格があるのか。けれど、誰よりもあなたを大切にします。決して苦労はさせません。どうか俺と一緒になってください」
ブライアンは真っ直ぐにエヴァに向かって思いを口にした。
しかし、その言葉にエヴァは首を横に振った。
彼女の顔には、いつもの微笑みが浮かんでいない。
「違うわ……」
エヴァの口から否定の言葉が出たことに、ブライアンの心が潰されたように苦しくなる。
けれどなぜかエヴァの方が苦し気な表情をしていた。
苦しそうな、泣きだしそうな顔で首を横に振り続ける。
「あなたは勘違いをしているの……。優しいあなたのことだから、今の私を不憫に思ってそう考えているだけよ……」
「違います。あなたにそんな同情のような気持ちを持ったことはありません」
エヴァの言葉にブライアンが焦る。
貴族令嬢として生活していた彼女がメイドとして働いていて、可愛そうだとか、不憫だと思ったことは一度もない。
まさか、今まで同情を抱いていたと思い違いされていたなんて思ってもいなかった。
「苦労させたくないんです。あなたは、昔から俺の大事なお嬢様でした。何も心配することなく、大切にしたいんです」
ブライアンにとってエヴァは、上品で穏やかなお嬢様で、再会した今でもそれは変わらず、宝石のように気高く大切にしていきたい存在なのだ。
「私はそんな護られるだけの身ではないわ」
「そうですね。昔から、あなたの方が色んなことを知っていて輝いていて、俺はそんなあなたが眩しくていつも後ろをついて回っていました。そんな俺でも、あなたを護りたいんです」
ブライアンは真っ直ぐにエヴァを見つめた。
その瞳は熱っぽく、今まで向けられたことのないもので、エヴァは視線を交えることができなかった。
「だめ……だめよ……。私は、あなたより年上だし……。もうお嬢様じゃないわ……」
「知っています」
「あなたは評判の実業家で……きっと同じ年頃で良い家柄のお嬢さんと一緒になった方が良いわ……」
「俺は自分の実力で会社を大きくします。相手の身分なんて必要ありません。ただ、思う相手に側にいて欲しいんです」
エヴァの目に涙が浮かんでくる。
赤く滲むその目を伏せて、エヴァは自分の顔を両手で覆った。
「ずるいわ……。そんなことを言うなんて……」
いつだって穏やかな微笑みを浮かべて、ブライアンを見守るような表情をしていた彼女が初めて視線を反らした。
両手の合間から見える、赤い頬。
ブライアンは立ち上がるとエヴァへと近づいた。
花束を抱えているので少し距離があるが、こんなにも側に寄ったことは初めてだった。
「知っていましたか? あなたは、俺の初恋だったんです」
エヴァの耳元で告げる。
頬の熱が、耳まで帯びて赤く燃えた。
「……知っていたわ」
八歳だった少年がきらきらと真っ直ぐに見つめていた視線に、エヴァは気づいていた。
幼い一過性の恋心だと思っていた。
あれから十五年も過ぎている。
「あの頃の俺は、お嬢様をエスコートするのが夢でした。その夢を叶えさせてください」
祖父は幼いブライアンに、まるでお嬢様の王子のようだな、と言っていた。
平民のブライアンは自分が王子様だなんて思ったことはなかった。
けれど、お嬢様を護りたいと思っていた。
全てのものから護って、いつまでも大切にその手を握っていたいと。
「……本当に、ずるいわ。気づいていないふりをずっとしていたのに……」
エヴァは潤んだ瞳でバラの花束を見つめた。
そっと両手を伸ばして手に取る。
それを見て、ブライアンは潰さないように優しく花束とエヴァを抱きしめた。
やっと彼女に触れることができた。
焦がれて止まなかった温もりが今この手の中にある。
伝わる温かさに、ブライアンはそれを実感できた。
ブライアンの指先が丁寧に涙を拭い、エヴァは顔を上げた。
少し背伸びをして近づき、小さな声で囁く。
「知っていた? あなたに再会した時、あまりにも大人の男性になっていて、息もできなかったのよ」
そう言った瞬間に、これ以上ないほど真っ赤になったブライアンを見て、幸せそうに笑った。
ブライアンの粘り勝ち。
年下男性が年上女性を一途に思っているのって好きです。