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冷戦夫婦の名付け騒動  作者: 惟織
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かき鳴らす不協和音




 振り向けば、彼女を見つめる蒼い瞳とかち合った。眼差しに潜む、凍えんばかりの冷たさにアマーリエは息を詰める。


「アマーリエの夫は1人だけだよ。俺だ。この子の父親も」


 開いた扉の影に夫が張りついていたことに、彼女は気づかなかった。


 秘書時代の癖で、アマーリエは執務室の扉を少し開けていた。師団長と2人きりの時、仲を怪しまれないようにするためだ。

 その隙間から滑り込み、彼女に悟られず入室したのだろう。ルーカスが平然としているところ、彼は分かっていた模様だ。

 さして咎める様子もなく、ルーカスは軽蔑気味にせせら笑う。


「自分の馬鹿さ加減を自覚したのか?」

「うるさいよ」


 リシルドは鼻を鳴らす。


「…………リシルド様」

「何? 夫が奥さんの容態を心配しちゃ悪いの?」


 いらいらした調子を隠さず問い詰める夫に怯え、アマーリエは反射的に腹部を抱く。

 さすがにルーカスも大人しくしていられなかった。


「お前な、もうちょっと言い方があるだろう」


 ルーカスが一触即発の2人の間に滑り込み、アマーリエをかばう。リシルドが舌打ちした。


「夫がいて、子供もお腹にいるのに、堂々と密通?」

「リシルド!! 口が過ぎるぞ!」

「!」


 言い過ぎた。リシルドは口を塞ぐ。

 妻は凍りついていた。


「…………密通?」


 驚愕を露わに、アマーリエの唇がわななく。彼女の目尻に溜まっていく、雫。

 アマーリエは口元を押さえ、震える声をごまかした。


「そんな風に、思ってらしたのですか? ……私は、リシルド様しか…………――――っ」


 不意にアマーリエが立ち上がる。衝撃で椅子が倒れた。


「アマーリエッ」


 身体を返し、アマーリエの足が床を蹴る。


「アマーリエ! そんなに走ったら……!」


 ルーカスが呼び止めるも、すでにアマーリエは飛び出していた。執務室の扉が、中途半端に浮いて揺れている。ゆっくりな動作が虚しい。


「…………なんで……」


 呆然とした友人の呟きでルーカスは我に返る。

 紺碧の眼光が冷たく冴え(ひらめ)き、リシルドを捉えた。


「リシルド」


 ルーカスの手が突如リシルドの肩を鷲掴みする。


「ツラ貸せや」


 瞬間、激しい打音が室内に響いた。


「っ!」


 床へ強く腰を打ったリシルドは、痛む頬を驚いた様子でなぞる。

 見上げれば、ルーカスが頭上高くこちらを睨み下ろしていた。


「お前な。出産がどれだけ命懸けか分かってないだろ」


 殺気立った近衛師団長はリシルドの襟首を引っ掴み、無理やり立たせる。


「子供と引き替えに命を落とす人もいるし、子供と一緒に死ぬこともある。それでもお腹の中でずっと守ってるんだ。重たい目をして。それがどれだけ大変なことか、男だから無責任でいられるんだ」


 私もだけど、と付け足す。

 胎児を守るのは母親の役目だ。周りの助けがあったとしても、すべての重荷は母親1人の身体にかかっている。

 その役目をアマーリエは果たしている。だがこいつは、この男は何をしたというのだろう。


「お前、父親になる気があんのか?」


 リシルドの瞳孔が丸く強張った。


「アマーリエの気持ちにもなれ。あの子、お前が本当に子供ができて嬉しいのか不安になってたぞ」

「! そんな、」


 そんなはずがない。リシルドの否定はルーカスが許さなかった。


「…………さっき名前を考えて、」


 襟首を締める手を離す。


「あの子がこだわる理由が分かった気がしたんだ。父親になるってこういうことなのかな、って」


 子供を愛し、慈しむこと。多分その準備なのだと思う。

 夫が名前をつけるのは、妻の子であり自分の子でもあると認める意味合いがあるのではないだろうか。


「しつこいけど、お前との子供なんだ。お前に名前を考えてもらって、その証がほしいと思うのは当然だと思うぞ」

「…………」


 ()み取ってくれたろうか。


 リシルドの顔つきが張り詰める。ルーカスは顎で執務室の扉を示した。


「こっちはただでさえ忙しいんだ。これ以上手をわずらわせたら、こき使ってやるからな」


 多難の末に意中の相手を骨抜きにできたリシルドの愛情は濃かった。重かった。見ていられなくて、ルーカスが身を切る覚悟でアマーリエの退任を認めたのだ。優れた人材を探し当てたそばから奪われ、近衛師団長の秘書選びは振り出しに戻っている。


 暇など限られているのに、こいつめ。


「……そうだな。いっそアマーリエを再任するのもいい」

「はあ?」

「お前はあの子にくっつきすぎだ。だからこうやって仲違いするんだろ。しばらくは距離をとって、頭を冷やすべきじゃないか?」


 アマーリエが戻ってくるのであれば、文句はない。


「私がこの師団全体を任されてるってこと、忘れないように」


 釘を刺せば、奴は血相を変えた。ルーカスに口答えのひとつでもするところを忘れ、ずっと前に去った妻を追う。

 いい気味だ。


「まったく……」


 静かになった執務室で1人。本棚から書類の作成に必要な資料を抜き取る。けれど頭は友人の問題でいっぱいで。

 たかが名前。されど名前。それがこうも悪化するとは。


「…………幸せだなあ」


 ルーカスは羨んだ。棒読みで。




*******




 背中が再びの訪問者の気配を嗅ぎ取った。

 今日は執務室の出入りが多い日だ。おそらく仕事は明日に持ち越しだろう。


「相っ変わらずの憎まれ役だな。ルーカス」


 リシルド、かなり青かったぞ。


 思い出し笑いする青年と、ルーカスは向き合う。


「あいつには丁度良いだろ」

「ごもっとも」


 先ほどまでアマーリエが座っていた椅子にどっかりと腰かけ、エルザールは頷く。


「でも驚いたな。いくら旦那が放り投げたからって、私に代わりにつけさせるなんて」

「あ。それ俺の入れ知恵」


 アマーリエのため、ルーカスが()れたものの飲まれずじまいだった紅茶を、エルザールは一気に飲み干す。


「………………え?」

「あんだけぶつかってちゃ、話が進まねぇだろ。だからアマーリエがここに来る前に言ってやったんだ。こうすりゃ馬鹿の意識も変わるからって」

「こうすればっていうのは……つまり……」


 ようやく合点がいったルーカスは、口の端を柔らかく上げた。


「お前も結構な憎まれ役だと思うよ、エルザール」

「お互い様だろ?」


 肩を震わせ、ルーカスは元の場所に資料を戻す。


「初めは分不相応だと思ってたが、結構お似合いだな、あの2人」

「なんだかんだでアマーリエも(したた)かだし」


 前はよくもまあ結ばれたことだと信じられない思いだったが、今は納得できる。

 夫婦の絆に亀裂が走りつつも愛し合う彼ら。彼らのせいで、外部は振り回された感がある。

 2人とも、似たり寄ったりなのだ。結局。


「私も所帯持とうかなあ」

「そりゃあいい。25の近衛師団長なんざ優良物件だ。引く手数多だろうよ」


 新しくルーカスが淹れ直した紅茶に再び口つけ、エルザールは述懐する。


「意外だったよなぁ。ルーカスがあの子を抜擢したんだし、てっきりお前とくっつくのかと」

「私は一個師団を任されてるんだよ? 性格が良かろうが見た目が綺麗かろうが関係ない。一番に仕事ができる人材がほしかっただけ」


 名門出身だということを鼻にもかけず、与えられた仕事をこなす彼女に好感を持った。ソツない動きに見惚れたのは事実である。


「そうだな……――――もしリシルドがあんなにぞっこんじゃなかったら、好きになる余地はあったかもね」


 真剣に考えるルーカスがおかしく、エルザールは腹を抱えた。


「はははっ! 違いねぇ。それもそれで面白かっただろうな。必死でアマーリエの視界に入ろうとするルーカス」

「私は奥手だよ。あそこまで恥ずかしい真似はしないな。ほんっと、あれは見物(みもの)だったよ」


 どこで手に入れたかトゲつきの薔薇の花束を渡し、彼女の肌を傷つけたり、焼き菓子をどっさり贈ってルーカスも消費させられるハメになったり、あからさまな言動で周りの男を遠ざけたり。…………色々とやらかしてくれた。

 不断の努力を通しても肝心の想い人が察しないことに気づいた今度は、彼女の外堀を埋めにかかった。初めは恐ろしがられていたけれど、ルーカスとエルザールの陰ながらの支えで2人を繋ぎ止めた。

 もう二度とあんな苦労はごめんだ。これからは夫婦の中で解決してくれ。


「リシルドもガキだな。アマーリエともすれ違ったんだが、目が真っ赤だった。隠してたつもりだったらしいがよ」

「…………もう一発殴っときゃ良かった」

「おお。怖い怖い」


 わざとらしく身を震わせておどけるエルザール。


 普段は理想の騎士然としていても、下町育ちのルーカスだ。感情の(かせ)が外れると豹変する。リシルドの赤く腫れたツラだって、彼を怒らせた結果に違いない。


「子供も苦労するだろうなぁ」

「アマーリエが子供に構いきりになったら、またリシルドが問題を起こしそうだ」

「…………あー……うん。アマーリエはいきなり二児の母になるわけか……」


 そう遠くない未来が鮮明に描け、ルーカスたちは乾いた笑い声を上げた。




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