第12話(最終話) ただいま、おかえり
「1人で帰れるから、お迎えはいらない」
ラブホテルのベッドの上から、私はお兄ちゃんにメッセージを返した。 すぐに『了解』という素っ気ないスタンプだけが返ってくる。
(はあ……私、結局気持ちを伝えることもできないのかな)
バスタオル一枚のまま、私は深くため息をついた。 ものすごく残念な気持ちと、なんとなくだけど、ホッとしてしまっている自分がいる。あのままお兄ちゃんが戻ってきていたら、私の心臓は間違いなく破裂していたから。
翌朝、私は一人で家に帰り、それからお兄ちゃんのアパートへ行くのをぱったりとやめた。 特にお兄ちゃんから連絡が来るわけでもない。私にとっての、ぽっかりと穴が空いたような空っぽの時間。
それから1ヶ月ほど経ったある日のこと。 不意に、お兄ちゃんからメッセージが届いた。
『合鍵を返して欲しいから、アパートに持ってきてくれ』
「……っ!」
スマホの画面を見た瞬間、心臓がギュッと締め付けられた。 もう、あのアパートに行くこともできないんだ。 お兄ちゃんが、暗に『もう来なくていい』と言っているように思えてならない。
(もしかして、彼女でもできたとか……?)
グルグルと嫌な想像ばかりが頭を巡る。 やっぱり、当たって砕けろでも気持ちを伝えておくべきだったんだ。でももう、遅い。今更気持ちを伝えても、きっとお兄ちゃんには迷惑なだけだ。
週末。私は重い足取りで、お兄ちゃんのアパートへ向かった。 ドアの前に立ち、深呼吸をしてから呼び鈴を鳴らす。 ……返事はない。
「おお、その部屋に住んでたお兄さんの妹さんかい?」
不意に背後から声をかけられ、振り返ると人の良さそうなおじいさんが立っていた。
「え? ええ、そうです。お兄ちゃんに鍵を返しに来たんですが、いないみたいで……」 「そうかそうか、わしはここの大家だよ。そこのお兄さんなら、もう引っ越したよ。鍵はわしが受け取っておくよ」 「…………え? 引っ越し?」 「なんじゃ? 聞いてなかったのか?」
頭が真っ白になった。 合鍵を返すだけじゃなくて、お兄ちゃんがどこに行ったかもわからない。スマホで連絡は取れるとはいえ、引っ越すことすら教えてもらえなかったなんて。
「大丈夫かい?」 「あ、えっと……すみません。それじゃ、私は帰りますね」
私は大家さんに合鍵を渡し、逃げるようにその場を後にした。
(お兄ちゃんのバカ……っ、言ってくれればいいのに……!)
とぼとぼと一人、涙を堪えながら帰路につく。 やがて自分の家の前まで辿り着いた。隣は、お兄ちゃんの実家だ。でも、そこにはもうお兄ちゃんはいない。今どこに住んでいるかもわからないんだから。
「よ。今帰ったのか」
「……お兄ちゃん、うぅ……っ」 「どうした、なんかあったのか?」 「お兄ちゃん、お兄ちゃんが、お兄ちゃんがぁー……っ!」 「俺がどうかしたのか?」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、私は目の前の人物を凝視した。
「え? ……お兄ちゃん?」 「うん?」 「なんで?」 「何がだ?」 「なんで、ここにお兄ちゃんがいるの!?」 「俺の家だからな」
当たり前のように、見慣れた無表情で立っているお兄ちゃん。
「ひ、引っ越したって……!」 「うん」 「アパートからも引っ越したって大家さんが!」 「まあ、引っ越したっていうか、帰ってきたっていうか」 「はあ!? どういうこと!?」 「ん? 最初から言ってただろ?」 「えっと、進学を機に引っ越すってことじゃ……」 「そうだけど、そうじゃない」
お兄ちゃんは少しだけ呆れたようにため息をついた。
「俺が高校を卒業するタイミングで、家を全体的にリフォームすることになったんだよ。でも親は長期出張で家を空けるから、工事の間の仮住まいとして俺だけアパート暮らしをしてたんだ。リフォームが終わったら戻ってくるって、春に言っただろ」 「えっ……そ、そんな話だったっけ……?」
記憶を全力で遡る。 春先、「俺、一人暮らしするから」という言葉を聞いた瞬間、私は目の前が真っ暗になって放心状態になってしまった。だから、その後の『リフォームが』とか『数ヶ月の仮住まい』といった重要な情報が、頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。
「……えっと、おかえりなさい?」 「うん、ただいま。……それで、さっきはなんで泣いてたんだ?」 「そ、それは……っ」 「俺に会えなくなるとでも思ったか?」
図星を突かれて、顔が一気に熱くなる。 いくら合理的でデリカシーのないお兄ちゃんだって、私が泣きながら帰ってきた理由くらいは察してくれているみたいだった。
「もーっ! お兄ちゃんのバカァ!!」 「痛っ。……心配しなくても、俺はずっとお前と一緒にいてやるよ」
ポツリと、お兄ちゃんが言った。 相変わらずの無表情だけど、その不器用な言葉が私の胸の奥にじんわりと広がっていく。
(ずっと一緒にいてやる、か……)
それが、恋人としてなのか、手のかかる妹としてなのかは、まだわからない。 彼のことだから、「幼馴染という社会的ネットワークの維持は精神衛生上合理的だ」とか言い出すかもしれないし。
でも、またこうしてお隣同士に戻れたんだから。 今はそれでもいっか、と、少しだけ涙の混じった笑顔でお兄ちゃんを見上げる私なのでした。
(おわり)




