第1話 お引越し
「はぁっ……ついに、この日が来ちゃった……」
引っ越し業者のトラックが去った後の、少しガランとしたワンルームアパート。 私は段ボールの山を前に、一人で密かにため息をついた。
物心ついた時からずっと隣の家に住んでいた、一つ年上のお兄ちゃんが進学を機に、今日からここで一人暮らしを始めることになったのだ。 このままじゃ、ただの『昔の隣人』になって、疎遠になっちゃうかもしれない。 だからこそ、私――ノドカは、普段の引っ込み思案な自分を捨てて、決死の覚悟でこの部屋に乗り込んできたのだ。
「ふぅ……ちょっと暑いね、お兄ちゃん」
私は荷解きの手を止め、額の汗を拭うふりをして彼を見上げた。 今日のために新調した、少し胸元がゆるいキャミソール。その上にエプロンを着るという、ネットで調べた『男を落とすあざとい部屋着コーデ』だ。 普段絶対に着ないような格好に心臓はバクバクだけれど、ここで女性として意識させなきゃ!
「あぁ。エアコンの設置は来週だからな。ほら、水分補給しろ」 「えっ」
お兄ちゃんは私の無防備な胸元には一切目もくれず、コンビニ袋から取り出した冷たいゼロカロリーコーラを私の頬にピトッと押し当ててきた。
「ひゃっ!?」 「顔が赤いぞ。熱中症には気をつけろ」 「あ、ありがとう……って、そうじゃないのに……」 「後、そのエプロン」 「え?」
そう言うと、お兄ちゃんは私の前でしゃがみ込み、エプロンの裾をぺろっとめくった。
「きゃーっ!?」
なになに、もしかして急にスイッチ入っちゃった!? そりゃ、部屋で2人きりだし、そういうのを期待してなかったわけじゃ……って、そうじゃなくて! どうしよどうしよ!?
「引っ越し作業の時にエプロンは汚れるからやめた方がいいぞ。足元も見えづらくて動きにくいしな」 「……は?」
相変わらずの、見事なまでの無表情。 私の決死の色仕掛けは、彼の超・合理的な体調管理と、衣装の効率化の前に一瞬で粉砕されてしまった。
気を取り直さないと。次の作戦は『胃袋を掴む』だ。
「ね、ねえ! 荷解きも一段落したし、私、何かご飯作るよ! 冷蔵庫の余り物とか……あ、まだ何もないか。じゃあスーパーに買い出しに――」 「いや、その必要はない。コンビニで買ってきたから」
お兄ちゃんは備え付けの小さなコンロに火をつけ、小鍋でお湯を沸かし始めた。 取り出したのは、ごく普通の袋入りの『醤油ラーメン』。
「ええっ、引っ越し初日のご飯がインスタントラーメン!? せめて私に何か作らせてよぅ……」 「ん? 湯を沸かすだけでカロリーが摂取できる。これで十分だ」 「お、お兄ちゃん、こんな栄養偏ったご飯ばっかり食べてちゃダメだよ! 今度、私がちゃんとご飯作りに来るからね!」
勢いで宣言してしまった。 ウザいって思われたかな。どうしよう、と焦っていると、お兄ちゃんはポケットから銀色の小さな鍵を取り出し、私に向かってポーンと投げた。
「え?」 「合鍵。俺が鍵をなくした時のための、緊急用だ。……頼むぞ」
私の顔が、一瞬で沸騰したように熱くなった。 誘惑作戦は全部空回りしたのに。ご飯もインスタントラーメンだったのに。 引っ越し初日に、合鍵をもらってしまった。
「~~っ! わ、わかった! ちゃんと管理しとくから!」
心臓の音が部屋中に響きそうなくらいドキドキしている私。 それなのに、目の前でズルズルと醤油ラーメンをすするお兄ちゃんは、いつものように涼しい無表情のままだった。




