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東の城が落ちた  作者: 中山ヨウスケ
 第一部  アストラン陥落
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03  泥まみれの叫び

 カルメン・スタッカートン。貧民街生まれのよく泣く少女が、なぜ孤高の剣士になったのかって? 知りたきゃ貧民街の人間に訊けばいい。大抵の人は知っている。彼女の悲しい生い立ちは、一種の伝説なのだから。


 豪雨が都を呑み、雷鳴がしきりに轟いた、ある夏の日のことである。都はどこも膝の高さまで水に浸かり、馬車は水しぶきを上げて街道を抜けた。この日は貧民街も激しい風に吹かれ、人々はおんぼろな小屋で寒い一日を過ごした。もちろんそれは、まだ十四歳だったカルメン・スタッカートンも同様である。

 

 彼女は十歳の弟と二人、寝転がるのがやっとという広さの小屋で、身を寄せ合いどうにか眠ろうとしていた。二人には父親も母親もいない。物心ついた頃にはどちらも姿をくらまし、残されたのは母親の形見である花形のペンダントだけだ。スタッカートンはその形見を、いつも肌身離さず身に着けていた。


 日が沈んで夜がくると、雨足はさらに強くなった。屋根に当たる雨水がしきりに音を立て、時折雷鳴がそれに続く。しまいには天井から雨水が漏れだして、寝転がる彼女の額に当たった。木の葉で作ったのれんなんて、風が吹く度に舞っている。そのせいで風雨が小屋に入り込み、とてもじゃないが眠れなかった。


「怖いよお姉ちゃん……」震えた声の弟は、姉の胸に顔を押しつけ、声変わり前の高い声で言った。


「大丈夫だから。朝になったらきっとやむはず」姉であるカルメンは、弟の頭を撫でながら諭すように言った。


「本当に? 本当にやむの?」


「変なこと言わないでよ。やむって言ってるじゃない。お姉ちゃんを信じて」


「……分かった」


 そう呟いた弟は、姉の体にぎゅっと抱き着いた。彼からすればカルメンは、唯一の頼れる存在なのだ。両親がいなくなって以降、弟にとってカルメンとは、守護神であり女神だった。腹が減れば食べ物を分けてくれるし、涙ぐんだ時は頭を撫でてくれる。常に自分より優しく、常に自分より強い。まさに偉大な姉なのだ。


 日付が変わって午前二時。雷雨はさらに激しさを増し、風はホルンのように唸った。雨に叩かれ鳴る天井は、まるで太鼓のようである。小屋で抱き合う二人の子供は、眠れぬ夜を黙ってしのいだ。


 しばらく経って、ようやく眠気がやって来たころ、珍しく小屋に来客があった。それは一人の男で、彼は背中を丸めて小屋ののれんをくぐると、そのまま二人にこう言った。


「停めていただけませんか?」


 会ったこともない男の申し出に、カルメンと弟は起き上がって目を合わせた。


「そんな場所ないですよ」カルメンは戸惑いながら答えた。


「なあに、お二人はその布団に寝たままで結構ですよ。私は地べたで寝ますから」男はそう言って二人に微笑みかける。


 青年はウディアンと名乗り、そのあと何度も「泊めてくれ」と懇願してきた。もちろん無理なお願いである。この小屋はもう満杯なのだ。しかし青年は一歩も譲らなかった。眠いカルメンに何度も頭を下げてきて、続けざまにこう言うのだ。


「お願いします。色んな小屋をあたってきて、全部断られたんです」


 青年は全身びしょ濡れのまま、地面に膝をつき深く頭を下げた。あまりにみじめな土下座である。その律儀な態度を見れば、誰だって手を差し伸べたくなるだろう。当然それはカルメンも同じで、彼女はしばし考えたあと、仕方なく彼に許可を与えた。


「狭い小屋だけど、地べたでよければ」そう言ってカルメンは小屋の床を指さした。


「えっ、いいんですか? ありがとうございます!」


 青年はすぐさまお礼を言って、そのまま倒れるように地べたへと寝っ転がった。なんだか不思議な光景である。カルメンからすれば来客なんて、記憶にある限り初めてなのだ。そう思うとこの訪問者が、なんだかとても愛おしく感じられる。カルメンはどこか慈愛を覚えて、眠った彼をしばし眺めた。雑音のない透き通った寝息を立て、青年は死んだように眠っている。


「変な人」スタッカートンぼそっと呟いた。


「お金とれるんじゃない? 宿泊代って言えば」


「バカね。そんなことしたら罰が当たるでしょ」


「でも、そしたら明日は朝ご飯が食べれるよ?」弟がそう言って姉を見上げる。


「なによ、この前は朝ご飯抜きでも平気って言ってたじゃない」


「それは姉さんに気を遣っただけだもん。僕だってお腹は空くんだ。いつもは我慢してるだけだよ」


「あっそう。そんなに朝ごはんが食べたいの?」


「うん」弟はコクリと頷いた。


「……分かったわよ、じゃあ明日の朝訊いてみるから」


「ほんと? なら上手にやってね」弟がそう言って姉に笑みを見せる。


「人にやらせといて、期待だけはするのね」そう言ってカルメンは唇を尖らせた。


 翌朝、彼女の言う通り雨はすっかりやんでいた。太陽は眩しいまでに光り、空には雲一つない透いた青が広がっている。朝起きてすぐ、彼女は青年と交渉をしようと思い、重い体をゆっくりと起き上がらせた。確か彼は地べたで寝ていたはず……そう思ってカルメンは、寝起きのぼやけた視線を地べたへと向けた。


 驚くべきことに、そこには誰もいなかった。不思議に思ったカルメンは、一度交渉のことを諦め、横で寝ている弟を起こそうとした。しかしいくら声をかけても、弟は一切返事をしない。未だ夢の中なのか、彼は布団に全身を隠している。カルメンは気になって布団をめくった。出てきたのは綿のかたまりであった。


 まさに青天の霹靂である。比喩などなしに、この青天のさなか、彼女の心は稲妻に打たれたのだ。カルメンはすぐに家を飛び出した。すると地面に滴った血の跡がいくつも並んでいた。それはまるで、誰かが水をこぼしたかのように、遠くまで延々と続いている。呆然自失となった彼女は、訳もわからずその跡を追い、いつの間にか貧民街のはずれにたどり着いた。


 そこは有名な盗賊のアジトである。弟の死体はその建物の前で、何の配慮もなく無造作に投げ捨ててあった。雨に濡れ、皮膚はただれ、うじ虫が体中を這いつくばっている。あんぐりと開いた口は乾き切っていて、青ざめたその鼻先には、美しい黄色の蝶が止まっていた。


 カルメンは自問した。なぜ弟が? 誰がどうして? 何のために? そのまましばらく考えたが、彼女には何の答えも思い浮かばなかった。絶望のあまり涙腺が破れ、視界がじゅわっと涙に濡れた。たがそれでも、悲鳴だけは上げるわけにいかない。すぐそこは盗賊のアジト、声を聞かれれば彼女にとっても危険だ。しかしうめき声は、こらえようとすればするほど、苦しくなるものである。彼女は、うぐ、うぐ、と何度もしゃっくりのような嗚咽を漏らした。雨でふやけた地面の泥に、彼女の膝ががくんと落ちる。あふれる涙は底知れず、汚れた手で涙を拭うたび、愛らしい顔は泥にまみれていった。


 しばらく経って、涙を全て流し切ったころ、彼女の心臓には強い復讐の炎が宿っていた。弟を殺したのはこのアジトにいる盗賊に違いない。カルメンはそう確信し、復讐の炎を勢いよく爆発させた。それは最初、ちょっとした火の粉であったが、瞬く間に彼女の全身を支配する。手に付いた泥はとっくに乾き、叩けばぽろぽろと落ちていった。そうして彼女は立ち上がり、満身創痍のままアジトへ乗り込むのである。もちろん正気の沙汰ではない。彼女に勝ち目なんて無いのだ。


 アジトの扉をバンと開け、彼女は堂々足を踏み入れた。中には大男が数名、朝っぱら酒杯を交わしている。


「どうしたお嬢ちゃん? そんな怖い顔して」


 ある男がそう言ってカルメンを見下ろした。怖い顔――確かに彼女の顔だけを見れば、そんな言葉が適切だろう。しかしその表情の裏では、底知れぬ劫火が今まさに燃え盛っているのだ。


「うあああああああああああああっ!」


 彼女は素手のまま、一番近くにいた男に殴りかかった。しかし男の腹が少し太っているせいか、むしろ殴った彼女の方が、いとも簡単に跳ね返されてしまう。彼女は床に倒れ、そのまま赤子のようにうめいた。だが諦めない。間髪入れずに立ち上がり、怒号を上げながら再び男に殴りかかる。


「おいおいどうした? 要件を先に言ってくれ、よっ!」


 大男がそう言って拳を振りかぶり、殴りかかって来た彼女を軽々と振り払った。少女のいたいけな体が、あっけなく床石に叩きつけられる。


「死にたくなけりゃ話を聞きな」


 大男がそう言って少女の手を引っ張り、彼女を無理やり立ち上がらせた。そして少女の胸ぐらを掴み、その幼い体をぐいっと持ち上げる。


「死ぬか、俺の言う事を聞くか、どっちかだ。どっちがいい?」男は不気味なほど優しい声で訊いた。


「死んでやる!」


「そうかそうか! 話の早い嬢ちゃんだなっ!」


 そう言って男が、容赦なく少女を壁に投げつける。建物全体が揺れた。壁にかかっていた安物の絵画が、揺れに耐えかねて床へ落ちていく。


 それはあまりに痛ましい光景だった。だが少女は諦めない。それでもなお踏ん張りを効かせ、力一杯立ち上がった。汚い音で鼻をすすりながら、ゆっくりゆっくり、意地を奮わせて起き上がるのだ。顔には擦り傷ができ、血が涙のように滴っていた。可愛らしい少女の顔は、もう原形を留めていない。


 間もなく、大男が突然屈んだ。二人の背丈が揃う。男はそのままそ少女の耳元に口を近づけ、彼女を誘惑するかの如く、小さい声でこう囁いた。


「もう一度聞く。冗談はよしな。死ぬか、それとも……」男は一旦口をつぐみ、その後にやりと口角を上げた。「そうだな、嬢ちゃんのその顔なら、立派な下っ端になりそうだ。特別に選ばせてやろう。死ぬか、俺ら盗賊の仲間になるか、どっちかだ」


 これが最後の機会だと言わんばかりに、男の左手は少女の首根っこをがっしりと掴んでいた。もし少女が死ぬことを選べば、彼女を殺すのはきっとこの左手だろう。それは少女の首を一周するのに充分な大きさで、ひどく冷たい血管の浮いた手だった。


「分かった……入る……」少女は絞り出したかのような声で呟いた。


「ほう、さすがにもう馬鹿はしないってか。分かってるガキだ。きっといい下っ端になる」大男はそう言って静かに笑った。


 こうしてカルメン・スタッカートンの盗賊生活が始まったのである。彼女は立派な賊員として、何度も男たちの尻ぬぐいをした。日々死体を集め、まとめて焼き、証拠を消すのだ。悪に染まった彼女の手により、一体どれだけの人間が灰に変わっただろうか。しかし彼女も人の子だ。罪悪感からは逃れられない。罪の意識に苦しんだ彼女は、新しい日課として毎晩礼拝をするようになった。寝る前にアジトを抜け出して、礼拝堂にひざまずくと、そのまま泣いて罪を詫びるのだ。しかし神は残酷である。こんなに健気な彼女にさえ、弟の死の真相は教えられないのだから。


 盗賊に入って数年が経った頃、カルメン・スタッカートンにはそれまでの幼さなど微塵も残っていなかった。背丈こそ男には敵わないが、腕には立派な筋肉がつき、人称は「僕」に変わり、座るときは恥じらいなく股を開く。女の気配を感じさせるのは、わずかに膨らんだ丸い胸と、鼓膜をつつくような甲高い声だけである。


 だが彼女だって一応女だ。賊の男が放ってはおかない。その子供っぽい顔立ちもあり、彼女はひっきりなしに夜の誘いを受けた。話によれば、何人かの男が彼女のベッドに夜這いを試みたそうだ。しかしさすがは〝貧民街最強の女剣士〟である。賊員だからと言って容赦はしない。彼女のベッドに忍び込んだ男は、全員子供を作れない体にされて帰って来たと言う。その逸話はすぐに広まり、ついたあだ名は「男根潰し」だ。


 さて、ここで話は現在に戻る。茶会での先遣隊募集についてだ。今現在、王都はどこもこの話で持ち切りである。だが実はこの一週間前に、貧民街では別の騒ぎがあった。闇市を裏で支配する盗賊が、一人残らず消え去ったと言うのだ。これには人々も大喜びだったが、一体誰がこんなことをしてくれたのか、知る者はいなかった。その「誰か」こそ、カルメン・スタッカートンである。彼女は自らが所属する盗賊を一掃し、ようやくその復讐の炎に終わりをもたらしたのだ。


「話を聞けば殺しはしなかったのに」


 すっかり冷酷になった彼女は、すまし顔でそう呟く。当然もう奴らの死体は一つも残ってない。その日は貧民街のはずれで、一日中黒煙が昇っていたという。


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