第一章:現実世界の苦しみ
心晴が死んだ――
「式神くんさぁ……聞いてる?」
ハッとして顔を上げる。
オフィスに鳴り響く内線電話の音。
デスクの前に座っている課長が、呆れ顔でこちらを見ていた。
「大変な時期なのは分かるけどさ、失敗多くない?」
「も、申し訳ありません……」
父親と近い年齢であろう上司に、頭を下げる。
「もういいから、作り直して。会議までには間に合わせてよね」
投げるように返される資料を受け取って、席に戻る。
「式神さんって大卒の割に覚え悪いですよね」
「やめなよ。恋人亡くして落ち込んでるんでしょ。かわいそうに」
向かいの席から聞こえる、ひそひそ声。
聞こえないふりをして席に座り、深く息を吐く。
「えーと、どこが間違ってるんだ……」
大学を卒業して入社したIT企業。
専門知識を持った人との差は大きく、ついていくのがやっとだ。
分厚いマニュアルとAIを頼りに、業務を進めていく。
終業時間がくると、同僚たちはすぐに席を立つ。
「お疲れ様です」
挨拶をするが、返事はない。
仕様を理解するために、議事録や仕様メモをまとめるのが俺の仕事。
しかし、ミスが多く開発チームの足を引っ張っている。
「すんません……」
目をつぶり、同僚の背中に向けて深く頭を下げる。
認めてもらうには、結果を出すしかない。
『頑張って、優くん』
頭の中を掠める、心晴の声――
残業は認められていないので、急いで作業をしなければ。
満員電車から押し出されるようにして駅に降り、急いで改札を通る。
都市部から電車で四十分の郊外。
駅前には小さな商店街があるが、少し進めばすぐに住宅街だ。
学生の帰宅時間を過ぎ、人が少なくなった細い路地を進んでいく。
夏の夜の蒸し暑さが、肌に纏わりついてくる。
不快さを覚える中で思い浮かぶのは、病院で泣き叫ぶ心晴の両親の姿。
「くっ……」
心臓を掴まれたような苦しみが、胸の奥に渦巻く。
心晴は、幼なじみだった。
顔を思い出すと、目を細めて笑う姿が思い浮かぶ。
ずっと恋心を抱いていて、告白できたのは高校生になってからだ。
その時の、笑いながら涙を流していた顔は、今でも忘れられない。
『仕事が落ち着いたら、一緒に住もうよ!!』
その約束は、果たされることはなかった。
交差点で信号が変わるのを待っていた心晴に、車が突っ込んだ。
原因は、過度な業務によるドライバーの居眠り運転。
ドライバーも亡くなり、調査は今も行われているらしい。
『俺たちは、誰を恨めばいい……』
病院で嗚咽するおじさんの背中をさすった時、漏らした声が脳に焼き付いている。
マスコミに追われ、疲弊していくおばさんも心配だ。
誕生日に渡そうと思っていた、心晴が好きだったキャラクターのぬいぐるみ。
それはまだ、お墓に供えられていない。
「俺は……」
黒い気持ちを吐き出しそうになり、首を振る。
それをごまかすように、足を動かした。
交差点を右に曲がり、家に続く道に入る。
「あ……」
ふと、赤い鳥居が目に入り、足を止める。
家の近くにある神社の入口。小さい頃から、よくお参りに行っていた。
鳥居を抜けてしばらく進むと、石の柵に囲まれた神社が見える。
入口には石の鳥居と、首に赤い布をつけた狐の像。
吸い込まれるように、門をくぐる。
照明は少なく、境内は薄暗いが、拝殿までの参道はまっすぐ伸びている。
参道の横に立つ灯籠が、ぼんやりと夜の神社を照らしていた。
薄気味悪くもあるが、慣れたものだ。
賽銭箱に小銭を入れ、鈴尾を引っ張る。
夜の神社に鈴の音が静かに鳴り響き、二礼二拍手――
「……」
一体何を、願えばいいのだろう。
思いつかず、ただ無心で祈る。
顔を上げて、最後に一礼。
夜の神社を、静寂が満たした。
そうしたところで、何も変わらないのは分かっている。
俺がこの場所に来たのは、人知れず……泣くためだ。
「う……ぁ……」
目から涙が零れ落ち、石畳にシミを作る。
「ひ……ぐ……」
喉を鳴らし、外だということも忘れ、嗚咽する。
周りの人の前では、見せることのできない嘆き。
ここでだけ、気にせず泣くことができた。
「どうして、こんなことになっちまったんだよ……」
鞄を持った右手を、爪が食い込むほど強く握りしめる。
「心晴は、何も悪くないのに……」
口と喉が震え、声が裏返る。
「ただ真面目に、生きてきただけだろ……」
やり場のない不満が、心の奥底から湧き上がってくる。
あの日も、道に迷った老人を案内し、家から遠い場所で事故にあったのだ。
「なのに、なんで……」
手から鞄が滑り落ち、足元から崩れ落ちる。
参道に足をついて、子供のように泣きじゃくった。
家で悲しい姿を見せれば、両親が心配する。
悲しみは、全て吐き出さなければならない。
「頼むよ、神様……」
参道に両腕をついて、首を垂れる。
全身の震えを、湧き上がる悲しみを、抑えることが出来なかった。
俺はもう、限界なのかもしれない。
「心晴にもう一度……」
右手の拳で地面を叩き……
「会わせてくれよ……」
心からの願い。
その声に応えるものはなく、虚しく暗闇に吸い込まれていく。
「う……あぁ……」
心晴に会いたい。もう一度、抱きしめたい。
叶わないと、分かっているはずなのに……
あふれた悲しみが、闇の中に溶けていく。
その刹那――
「その願い、叶えよう」
ふと、聞こえた声に顔を上げる。
涙で霞む視界。
賽銭箱が見え、その先に階段があり、閉められた拝殿の前に立つ人影。
それに気付いた瞬間、視界は闇に包まれた。
意識を失うように、深い闇の中に落ちていく。
全身の感覚が鈍くなり……
「はっ……!!」
朝の目覚めのように、突然視界が開ける。
いつの間にか下げていた頭を上げると、目に映るのは先ほどと同じ神社。
いや、少し違う気がする。
似てはいるが、拝殿の横には真新しい母屋のようなものが見える。
なにより……
「さっきまで、夜だったよな……?」
体を起こすと、強い日差しが視界に刺さった。
立ち上がり、辺りを見回す。
周りは木々に囲まれているが、振り返ると視界は開ける。
「え……?」
視線の先に見えるのは、青い空と海。
街の中にいたはずだが、明らかに高所に立っている。
微かに感じる、潮の香り。恐る恐る、前に歩いていく。
その時だ。
「方士様?」
声が聞こえ、びくりと身を震わせる。
その場に立ち止まり、辺りを見回すが人の姿は見えない。
困惑していると、前方にある階段から、人が上ってくるのが見えた。
その人は階段を上がりきり、こちらに微笑む。
「やっぱり、方士様だ!!」
セミの声を掻き消すほどの、明るい声。
「な……」
言葉を失う。
流れるような艶のある黒い髪に、細めた目の横に見える泣きぼくろ。
胸にリボンがついた、丈の短い白いワンピースを着た女の子。
それは、死んだはずの心晴だった。




