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その炎上、たぶん正義だけじゃないです(3)

全3回の最終回です。画面の外へ出て、展示会場でできることを決めます。

北千住(きたせんじゅ)の通りは、いつも通りに人が多かった。


駅へ向かう人、商店街へ曲がる人、信号待ちでスマホを見ている人。誰も水上澪(みずかみみお)を見ていないのに、澪は何度も肩をすくめた。


「みんな知っている気がします」


「そう感じるくらい、通知が多かったんですよね」


三枝灯里(さえぐさあかり)が言うと、澪は小さくうなずいた。


有瀬玲(ありせれい)は、通りの看板を珍しそうに眺めていた。ソニーの試作品ロボットということになっている燼導妖精(じんどうようせい)アステルは、有瀬の袖口に潜り、時々「排気のにおいは火事じゃないですす」と余計な報告をした。



舟窓(ふなまど)は、古いビルの二階にある小さなギャラリーだった。白い壁と木の床で、窓から入る光が細い。壁にはまだ、展示前の仮止めテープが残っていた。


担当者の女性は、澪を見るなり困ったような顔になったが、責める声ではなかった。


「水上さん。メール、増えていて。こちらも、どう扱うべきか迷っていました」


澪は一度、灯里を見た。


灯里は小さくうなずくだけにした。言葉は澪のものだ。


「届いた匿名メールを、消さずに保存してもらえますか。あと、当日もし同じような連絡が来たとき、どこにまとめるか相談したいです」


担当者は少し驚いたあと、うなずいた。


「それならできます。展示をどうするかは、こちらでも安全面を考えます。でも、メールは残しておきます」


有瀬が袖口を軽く払うと、アステルが床に落ちず、空中で止まった。


担当者には見えていないらしい。灯里と澪だけが、ぎょっとして同じ方向を見た。


「青いですす」


アステルは担当者のパソコンには触れず、受信箱の上に薄い火の色だけを重ねた。画面そのものは変わっていない。灯里には、いくつかのメールの周りに青い線が見えた。


「青い火は、燃え移った先ですす。囲うですす。消すのは人間の仕事ですす」


灯里は担当者に向き直った。


「同じ文面のものは、無理に全部読まなくても、受信時刻と件名が分かる形で残せますか」


「できます。フォルダを分けます」


「それと、水上さんの展示について問い合わせがあったとき、誰が返すかだけ決めておけると、当日少し混乱が減ると思います」


「私が受けます。会場スタッフには、その場で判断しないよう共有します」


澪は、胸の前で手を握った。


「制作過程のパネルを、置かせてもらえないでしょうか。反論というより、作品をどう作ったかを見てもらうために」


担当者は壁を見た。まだ何も掛かっていない、澪の作品の予定位置。


「それは、むしろ助かります。来場者に説明しやすくなりますし、展示としても自然です。個人情報は伏せましょう」


有瀬が低く言った。


「作品に水をかけるな。燃え移ったのは受信箱だ」


灯里は、今度は訳さなくても伝わる気がした。


澪は深く頭を下げた。



相談所へ戻るころには、空が少し薄暗くなっていた。


机に戻した澪のスマホは、まだ震えていた。灰色の火は消えていない。通知欄の奥で、手を伸ばせば届く距離にある。


澪は、書きかけの反論文を開いた。


「これ、出さないほうがいいですか」


画面には、何度も書き直した言葉が並んでいた。怒っている文ではなかった。けれど、読み手によっては別の火種にされそうな言い回しもあった。


有瀬は、画面の上で細く揺れる灰を見た。


「これは手で叩かぬ火だ。見張りを置き、近づかぬ」


「見張り?」


「下書きに戻す、という意味だと思います」


灯里は言った。


「今扱うのは赤と青です。赤い火は、比較画像となりすまし。青い火は、会場に届いたメールや当日の連絡。灰色の火は、今ここで読まないし、返事もしない」


「全部、見なくていいんですね」


澪の声が、さっきより幼く聞こえた。


「今夜は、です。必要になったら、専門窓口や会場に見せる資料として、必要な範囲だけ扱います」


澪は反論文を閉じた。削除はしなかった。ただ、下書きに戻した。


アステルは机の上で、小さな咳をした。


「灰を食べると、おなか真っ黒ですす。アステルでもいやですす」


「食べないでください」


「食べないですす。見ない火ですす」


灯里は澪のメモを見返し、比較画像を保存したこと、なりすましアカウントを通報すること、制作過程のフォルダを整理すること、会場へ共有すること、専門窓口に見せるための時系列メモを作ること、灰色の通知を閉じることを順番に確かめた。



完全な解決ではない。



けれど、燃えているものの形は分かれていた。


有瀬は最後に、澪の前へ一枚の白いカードを置いた。そこには、相談先に話すときの順番として、「何が起きたか」「いつ気づいたか」「今、何が残っているか」「何を見せられるか」だけが書かれていた。


「火元を止めよ。延焼を囲え。灰は踏まずに離れよ」


有瀬の声は、いつもより少し低かった。


灯里は、その言葉を手帳に写しながら言った。


「全部を消すんじゃなくて、対応する火と、見ない火を分けるんですね」


澪は白いカードを両手で持った。


「明日、会場に制作過程の画像を送ります。通報も、自分でします。灰色の火は……今夜は見ません」


「それでよい」


有瀬がうなずいた。



展示の日、舟窓の白い壁には、澪の絵と、その横に小さな制作過程のパネルが並んだ。


ラフは二枚だけ。依頼文は名前や連絡先を伏せて、必要な部分だけ。色を選んだ理由、構図を変えた理由、途中で描き直した線。端には、短いタイムラプスへつながるコードもあった。



炎上は、消えていなかった。



澪のスマホにはまだ通知が来ていたし、どこかでは、同じ言葉が繰り返されているのだろう。



それでも、会場で足を止める人はいた。


「この窓の光、最初はこっち向きだったんですね」


知らない来場者が、絵とラフを見比べて言った。


澪は一瞬だけ言葉に詰まり、それから答えた。


「はい。最初は外の光を強くするつもりだったんですけど、人物の影が消えすぎたので、途中で変えました」


担当者が、少し離れた場所で灯里に言った。


「制作過程があると、説明しやすいです。メールのことも、窓口を一つにしたので、現場が慌てずに済んでいます」



勝ったわけではない。


誰かが謝ったわけでも、世の中が急に反転したわけでもない。



ただ、澪は自分の作品の横に立っていた。通知ではなく、目の前の絵を見ている人に向かって、制作の話をしていた。


灯里は、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。



会場の隅で、有瀬は窓の外を見ていた。夕方の光が横顔に落ちて、どこか遠い場所の人のように見える。


「消えませんでしたね」


灯里が小声で言うと、有瀬は視線を戻した。


「火は、消えるときだけが始末ではない。燃やさぬ場所を残すことも、消火のうちだ」


その袖口から、アステルが半分だけ顔を出した。


「灰は踏まないですす。赤は止めるですす。青は囲うですす。展示の光は、食べないですす」


「最後のは当たり前です」


灯里が返すと、アステルは得意そうに羽根を揺らした。



展示が終わるころ、澪は白いカードを鞄にしまい、何度も頭を下げて駅のほうへ歩いていった。


まだ通知は来ているはずだった。それでも、スマホは鞄の中にある。


灯里はその背中を見送りながら、ずっと気になっていたことを口にした。


「有瀬さん。澪さん、最初に言ってましたよね。反論を出そうとしたらスマホが固まって、地図アプリにここが出たって」


「言っていたな」


「あれ、偶然ですか」


有瀬はすぐには答えなかった。袖口から、アステルが煤の頭だけを出す。


「アステル、人間を呼んでないですす」


「そこは聞いてません」


「呼んでないですす。ただ、火のにおいが濃いと、水場が見つかるですす」


「水場?」


灯里が聞き返すと、有瀬は舟窓の白い壁を見た。


「火を叩かず、火元を見る場所だ」


「……それ、相談所のことですか」


有瀬は答えず、夕方の光の中で少しだけ口の端を上げた。


灯里はスマホを取り出しかけて、やめた。


今検索しても、たぶん何も出ない。


それだけは、少し分かるようになっていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。この先も追いやすくなりますので、よければブックマークしていただけるとうれしいです。

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