……どうか、どうか……
暫し、沈黙が場を支配する。閑散とした屋上を、少し肌寒い夜風が包む。そして――
「……そう、残念。だったら、仕方ないね」
そう、薄く微笑み告げる薺先輩。そして、パチンと指を鳴らし――
「――っ!!」
刹那、ハッと息を呑む。と言うのも――少し遠くの後方から、間断のない足音が猛スピードでこちらに近づいてきたから。――例の、悍ましい気配と共に。振り返ると、そこには刃物を手にした強面の男性。……うん、彼はきっと――
――――グサッ。
直後、鈍い音が響く。ほどなく、僕は膝から崩れ落ち……ふぅ、良かった。ちゃんと急所は避けられた。流石に、死ぬわけにはいかないからね。
ともあれ、顔を上げるとそこには青褪めな表情の若い男性。……まあ、そうなるよね。相手からしたら不意打ち――それも、確実に急所を刺したつもりだろうし。そんな彼に、僕はゆっくりと立ち上がり――
「…………ありがとう」
「…………は?」
そう、深く頭を下げる。それから、ゆっくりと顔を上げ唖然とした表情の彼へと告げる。
「……知ってると思うけど、僕は薺先輩を……最も大切なはずだった人を裏切った。きっと、酷く悲しく辛かったと思う。そんな彼女を、君が支えてくれたんだよね? それこそ、罪に手を染めてまで先輩のために……それほどまでに、彼女を強く想ってくれている。そんな君の存在に……愛情に、先輩は本当に救われていたと思う。だから……本当にありがとう」
そう、どうにか声を絞り告げる。すると、彼は茫然としたまま大きく口を開き……伝わったかな? だったら嬉しいんだけど。
その後、ややあって徐に向き直る。すると、果たして彼と似たような表情の薺先輩。それがなんだか微笑ましく、思わず笑みが洩れる。そして――
「……どうして、気付いたと思います? 例の件が、薺先輩のメッセージだと」
「…………へっ? いや、だから恭ちゃんと蒔野さんの両方が付け狙われてるとなれば、犯人は元恋人である私くらいしか――」
「……本当に、そうでしょうか? 確かに、全く繋がりのない人に比べれば僅かながらその可能性があるかもしれません。ですが、それだけで貴女を疑うのは流石に飛躍し過ぎではないでしょうか? ただ、元恋人という理由だけで」
「……それは、そうかも……」
そう話すと、納得したようにポツリと呟く薺先輩。続けて、じゃあなんでと尋ねる彼女にそっと頷き口を開いた。
「……なんだか、似てたからですよ……足音が」
「…………へっ?」
僕の言葉に、今日一番の唖然とした表情を浮かべる薺先輩。……まあ、そりゃそうだよね。僕自身、随分とおかしな……と言うか、普通に気持ち悪いこと言ってる自覚あるし。だけど――
「……きっと、いつも合わせてくれていたのでしょう。先輩の歩調に。彼の刻む足音は、貴女の足音によく似ていた。……まあ、そもそもなんで足音を判別出来るのかという話ではありますし、我ながら気持ち悪いと自覚していますが……ですが、それほどまでに僕は貴女のことが好きだったんです。そんな何でもないことすら、とても愛おしくなるほどに」
「……っ!!」
「……なのに、その愛しい人を傷付けた。本来、最も大切にすべき恋人を蔑ろにして、酷く不安にさせて……貴女が、彼に心を寄せたのも当然のことです。なのに、僕は身勝手に傷付いて……そして、蒔野さんの愛情に身を委ねた。……ほんと、我ながらどうしようもなく軽蔑すべき人間です」
「…………恭ちゃん」
そう、更に声を絞り出し告げる。……まずい、流石に声が……それに、視界も霞んで……だけど、少し……もう、少しだけ――
「……本当に、すみません。そして、こんな僕を支えてくれて……愛してくれて、本当に……本当に、ありがとうございます……どうか、どうか……」
「――恭ちゃん!!」
視界が、更に霞んでいく。どうしてか、彼女の声が随分と遠くに……ああ、もう駄目かな。すみません、薺さん。そして、ありがとう……どうか、どうか――




