黄昏色の屋上で
「…………はぁ」
それから、数日経て。
黄昏に染まる空の下、力なく溜め息を零す僕。……まあ、力のある溜め息なんてそうそうないと思うけど……ともあれ、今いるのは屋上――もうかれこれ二ヶ月お世辞になっている、あの屋上のベンチで。
……そろそろ、帰ろうかな。明日の授業の準備もしておかなきゃだし、それに……あれ、なんだっけ? なにか、他にも大事なことを――
「――ご機嫌よう、由良先生。こちら、お邪魔しても宜しいですか?」
「…………へっ?」
すると、すぐ近くから微かに届く柔らかな声。そっと顔を上げると、そこにはお馴染みの――なのに、どうしてか久しく会った気がする美少女の姿。……いや、どうしても何もないか。それくらい、ここ数日は生徒の顔すらちゃんと見ていなかっただけで……ほんと、教師として失格だ。……まあ、それはともあれ――
「……どうしたの? 蒔野さん。こんな時間に、こんなところに」
そう、少し驚きつつ尋ねる。ここに彼女が来ること自体は、全く以て驚くことじゃない。だけど、この時間に来るというのは、恐らくあの日を除けば他にはなく……いや、そうとも限らないか。ひょっとすると、僕が知らないだけで――
「……そうですね。僭越ながら、先生を慰めに来た、といったところです」
「……慰めに来た、とはどういう……」
「――ええ。恐らくは藤宮先生の件でご傷心であろう由良先生を、慰めに来たといったところです」
「…………なんの、ことかな?」
ふっと微笑み告げる蒔野さんに、些か目を逸らしつつ尋ねる僕。だけど、この態度がもう事実だと認めているようなもので。
ところで……今しがたの彼女の発言が驚きかと問われれば、正直そこまででもない。蒔野さんが今ここに現れたことは少し驚いたものの……だけど、今の発言がその理由の説明になっている気がして、むしろ納得を覚えたくらいで。……まあ、それはともあれ――
「……その、ごめんね蒔野さん」
「……どうして、先生が謝罪を?」
そう伝えると、きょとんと首を傾げ尋ねる蒔野さん。まあ、それはそうだよね。何の脈絡もなく、突然謝られたりしたら。……だけど、僕の方には一応の理由があって――
「……ここ数日、僕は薺先輩のことで頭がいっぱいだった。君が、ここ最近……情けないことに、理由は分からないけど……それでも、あのお昼休み以来、君の様子が違っていたことは気付いていた。なのに……ここ数日、僕は君のことがすっかり頭から抜け落ちていた……つまりは、忘れていたんだ」
そう、懺悔の言葉を口にする。言わずもがな、彼女は僕の大切な教え子……なのに、僕のこの態度は教師としてあるまじき――
「……ふふっ」
「……蒔野さん?」
すると、ふと微かに届く声。再び顔を上げると、少し可笑しそうに微笑む蒔野さんの姿が。……まあ、その様子は声からも十分に察せられたけど……だけど、急にどうし――
「――いえ、少し可笑しくなってしまって。おおかた分かってはいましたが――とことん恋愛には向いていない人ですね、由良先生は」
「……そう、だね」
「ええ、失礼ながら申し上げると――藤宮先生が、由良先生を捨てて他の男性のもとに行ってしまうのも無理からぬことかと」
「……そう、だね」
そんな蒔野さんの言葉に、ストンと腑に落ちる感覚を覚える。彼女が、何をどういう経緯で知ったのかは分からない。
だけど、何だって良い。そして、彼女の言葉に対し疑問も反論もない――ただ、きっと僕自身でさえ以前から分かっていたことを言葉にしてもらったに過ぎなくて。
そう、僕は恋愛に向いていないし、彼女が――薺先輩が、いつか僕でなく他の男性を選ぶことも至極自然なこと。むしろ、今まで僕と……いや、そもそも僕に告白してくれたこと自体が、今でもまだ信じ難いほどの奇跡に他ならなくて。……だから、これで良い。これで、薺先輩はその男性と幸せに――
「――まあ、私としては何とも都合の良い展開ではありますが」
「…………へっ?」
そう、クスッと微笑み告げる蒔野さん。……都合の良い展開? いったい、彼女は何を――
「――大切な恋人を蔑ろにしてまで、いち教え子のために身も心も砕く由良先生。確かに、教師としては理想とも言えるお姿かもしれませんが……恋人たる藤宮先生としては、やはり複雑な感情があるかと。由良先生にとって、私は異性ですから尚のこと」
「……そう、だね」
そんな僕の困惑を余所に、滔々と言葉を続ける蒔野さん。……うん、さっきから『そうだね』しか言ってないね、僕。
……でもまあ、彼女を――薺先輩を蔑ろにしてしまっていたのは紛れもなく事実だし。蒔野さんの――大切な教え子のことで頭がいっぱいだったなんて、何の言い訳にもならない。教職と恋愛を両立出来ないなら、初めから付き合うなという話で。とどのつまり、僕は恋人として落第で……あれ、でも結局あの言葉はどういう――
「――――っ!?」
刹那、思考が止まる。何故なら――いつの間にかぐっと距離を詰めていた少女が、じっと僕の瞳を覗き込んでいたから。
「……あの、蒔野さん」
そう、ポツリと呟く。だけど……果たして、この名前で正しいのか分からない。……いや、自分でも何を言っているのか分からないけれど、それでも――
――僕は、知らない。《《こんな蠱惑的な笑みで僕を見つめる少女を》》、《《僕は知らない》》。本当に、彼女は僕の知ってるあの教え子で――
「――――っ!?」
刹那、思考が――呼吸が止まる。何故なら――ただただ茫然とする僕の唇を、そっと彼女の柔らかな唇が塞いだから。




