第96話:黒焔の余熱
──ケビンは、意識が半分になった状態で、それを見ていた。
目が霞み、音が遠く、頭が重い。
立てない。
膝をついたまま、壁に背を預けている。
アニーさんの後ろ姿だけが、視界に入っていた。
彼女が刀に触れた。
そのときから──何かが、変わった。
気のせいではなかった。
背筋の張り方が変わり、肩の落ち方が変わり、空気の纏い方まで変わった。
アニーさんが振り返る。
眼が、違った。
いつもの、おどおどした前髪の奥の瞳ではない。
深く、静かで、まるで何もかもを見通しているような眼差しだった。
黒煙が動き、音の奔流が放たれる。
だが──
「…………」
アニーさんは動じなかった。
微かに眉が動いただけで、音の波を受けながら一歩、前へ踏み出した。
あの音は精神を揺さぶる。
恐れや後悔を引きずり出す。
自分も膝をついた。
オーグさんでさえ動けなかった。
なのに、彼女は歩いていた。
一歩、また一歩。
迷いがない。足音に恐れがない。
ただ、まっすぐに、黒煙へ向かって進んでいく。
その背中を見ながら、呼吸を忘れていた。
刀の焔が、赤黒く灯る。
そのとき、黒煙が──変わった。
空洞の目に、初めて別の何かが混じった気がした。
恐れだった。
音が放たれる。
もう一度、さらにもう一度。
だが──音は届かなかった。
空気に溶ける前に、何かに打ち消されていた。
刀が、音を食べている。
それ以外に説明がつかなかった。
腰元へと、静かに手が伸びた。刀を抜いた。
その刹那──視界が白く飛んだ。
光ではない。音でもない。
ただ、世界の何かが一瞬だけ静止したような感覚があった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
気がつくと、刀を納めていた。
目の前には黒い粉が舞っている。
黒煙がいた場所には、もう何もない。
結晶が砕け散り、静かに崩れ落ちていく。
周りを見渡すと、仲間たちが倒れていた。
オーグさんは壁に寄りかかって動けない。
ケビンさんは崩れるようにしゃがみ込み、メグーちゃんは地面に手をついている。
私だけが立っていた。
指先に熱い余韻が残っている。
体は動く。自分のものだ。
だが、さっきの出来事は霧の向こうにある。
(私は……何をしたんだろう)
空間が音を取り戻す。
仲間たちの浅い息づかい。
足元の石の感触。
ケビンさんの声がして、ゆっくり振り返ると彼が壁から体を離して立ち上がろうとしていた。
顔は青白く、足が震えている。
それでも真っ先に私の方へ来ようとしている。
「ケビンさん!立てますか?大丈夫ですか?」
「ぼ、僕は……」
彼の目が私を見ていた。
その顔に、いつもの表情はない。
戸惑いでも恐れでもない、言葉にできない何かを抱えたまま黙って私を見ている。
「ケビンさん……?」
「……アニーさんが、倒したんですね」
「え?あ……わ、私が?」
振り返ると、黒煙がいた場所には黒い粉と砕けた結晶の欠片だけが残っていた。
「よく……わからないんですが……なんか、気づいたらいなくて」
「……そう、ですか」
ケビンさんはそれだけ言った。
何かを知っているような顔だったが、続けない。
メグーちゃんが起き上がり、銀の瞳で私を捉えて素早く近寄ってくる。
「怪我は?体に異変は?」
「え、多分、大丈夫……」
「多分じゃなくて」
「あ、はい、大丈夫、です……」
メグーちゃんに頭のてっぺんから足先まで確認されて、私は思わず縮こまる。
「……っ、ぐォ……痛ェな」
オーグさんが頭を押さえながら立ち上がる。
「なんだ、終わったのかよォ。チンチクリンがやったのか?」
「え、あの、たぶん……?」
「たぶん、ねェ」
オーグさんが鼻を鳴らす。
仲間たちがそれぞれ体を起こし、歩き始める。
だが掌に残った余韻が、まだそこにある。
(私は、本当に何をしたんだろう)
答えは出ないまま、私は一歩を踏み出した。




