第64話:祈りの時
メグーちゃんが、静かに串を置いた。
無言のまま、ケビンさんへと視線を向ける。
その横顔に、普段は見せない緊張が宿っていた。
ケビンさんが、小さく頷く。
喉仏が静かに上下する。
その仕草に──なぜだか、胸の奥がじわりと重くなった。
(何か……感じているんだろうか)
「……間違いない。龍の力が、アニーに宿った」
ミリアリアさんの声が、静かに空気を震わせた。
それだけで、周りの音が止まった気がした。
私はじっとミリアリアさんを見ていた。
その蒼い瞳は、私をではなく、もっと遠い何かを見ていた。
いつもの落ち着きとは──何かが、違う気がした。
「姉御ォ……?」
オーグさんが眉をひそめ、怪訝な顔でミリアリアさんを見やる。
いつもなら真っ先に声を上げる彼が、珍しく様子をうかがっていた。
「アニーよ」
「は、はい……」
名前を呼ばれた瞬間、自分でも上手く言えない感覚が胸の奥に湧いた。
ミリアリアさんの声が、どこか遠い。
「感謝する」
ミリアリアさんが、静かに、しかし深々と頭を下げた。
思わず一歩、後ずさった。
ミリアリアさんが、頭を下げている。
あの、いつも毅然としている彼女が。
(どうして──)
胸の奥に、得体の知れない違和感が芽生える。
この人は、私に冒険を始める勇気をくれた人だ。
何度も手を差し伸べてくれた、ずっと憧れてきた人だ。
「……何がです……か?」
声が震えていた。
聞きたかったことは、もっと別の何かかもしれない。
でも言葉はそれしか出てこなかった。
──その時だった。
「お母さん!?離れて!」
メグーちゃんの叫びが、空を裂いた。
「え?」
肩が跳ねた。
反射的に振り返った瞬間──
『距離を盗む』
聞き覚えのある声が、耳に届いた。
(この声……)
砂海。
一面の砂の中で、死の縁に立たされていたあの時。
巨大なワームが目前に迫り、もう終わりだと思ったあの瞬間。
どこからか届いた、あの声。
あの人がいなければ、私はあの砂海で終わっていた。
巨大なワームに捕食され、命を落としていたに違いない。
ミリアリアさんと並ぶほどの恩人だ。
その人がいたから、今の自分がある。
そう思うのに──なぜか、今、胸が騒いだ。
「……久しぶりだね。アニー」
空気が裂けた。
黒い風が吹き抜け、空間が歪む。
温度が一気に下がり、肌が粟立つような冷気が広がった。
仲間たちが一斉に身構えた。
そして──現れたのは。
漆黒の髪。
深い闇を湛えた瞳。
黒のコートに身を包んだその人が、空中に浮かんでいた。
「フェイさん……!」
息を呑んだ。
視線が自然と上がっていた。
「兄貴ィ!?」
オーグさんの声が弾けた。
普段の荒々しさとは違う、どこか幼い喜びが滲んでいた。
でも──
フェイさんはオーグさんには目もくれなかった。
ただ、私だけを見ていた。
その目に、微笑みがあった。
穏やかで、よく通る。
でも──奥が見えない。
見えないのに、心のどこかが、ざわついていた。
フェイさんはゆっくりと、静かに降下してくる。
その足先が地に触れる寸前、声が鋭く響いた。
「アニーさん!!離れてください!!ダメです!!」
ケビンさんだった。
肩が揺れた。
「大丈夫……です!ケビンさん!!この人はフェイさん!私たちの仲間です!」
必死に声を出した。
「ダメ!!お母さん!!」
「メグーちゃん?」
「お母さん!!離れて!!早く!!」
メグーちゃんの声が、これまでにないくらい強くて──切実だった。
あの子がこんな声を出すのを、私は聞いたことがない。
銀の瞳の奥に、確かな警戒の光が宿っている。
それは──かつての仲間に向けるものではなかった。
(でも……)
私の目は、フェイさんから離れなかった。
砂海で助けてくれた人。命を救ってくれた人。
信じたいという気持ちが、胸の中でどうしても消えなかった。
フェイさんは一歩、また一歩と、近づいてくる──
その微笑みの奥に、何があるのか、まだ分からないまま。




