第4話:冒険をあきらめる?
窓の外を流れていく雲の影を、私はぼんやりと見つめていた。
陽の光を受けて刻々と形を変える雲は、まるで空の上を漂う夢のようだった。
飛空艇の微かな振動が足元から伝わり、その心地よい揺れが思考をゆっくりと溶かしていく。
──この時間が、私は好きだった。
何も考えず、ただ景色に身を委ねるひととき。
空の青さに包まれ、雲の海を渡る旅路は、現実から切り離された短い夢のようだった。
胸元のポケットにそっと触れる。
そこには、冒険者登録証が入っている。
何度も読み返し、角が少し丸くなってしまった紙切れ。
でも、私にとっては宝物だった。
飛空艇を買うために、何年も働いた。
薬草畑で朝から晩まで土をいじり、時には夜通しで調合をし、貯めた金貨を握りしめて──ようやく手に入れた。
初めて空を飛んだ日のことを思い出す。
地上が遠ざかり、雲を突き抜けた瞬間、胸が震えるほど嬉しかった。
あの日、私は確かに夢の入口に立っていた。
でも──。
「……もう、これが最後かな」
ぽつりと漏れた言葉は、誰に向けたものでもない。
けれど、その響きは自分の心に深く突き刺さる。
クーベの街に着いたら、きっと終わる。
私の冒険は、そこで幕を下ろすのだ。
もう一度飛空艇を買う余裕なんてない。
地上に戻れば、また薬草を育てるだけの、静かで平凡な日々が待っている。
穏やかで、平和で、でもどこか物足りない日常。
私は、そこで人生を終えるのだろう。
「……」
ゆっくりと流れる時間が、夢の終わりを告げる鐘の音のように胸を締めつけた。
──そのときだった。
「……グルルル……」
低く、喉の奥から絞り出すような唸り声が、隣の部屋から微かに聞こえた。
「は……!?襲撃……?」
心臓が跳ね上がる。思わず声が裏返った。
魔物──。
空にも、奴らはいる。あの低く響く唸りに、私は覚えがあった。
霧狼──雲の中を群れで遊弋し、飛空艇を獲物と見なす空の捕食者。
喉の奥から絞り出すような共鳴音で仲間を呼び、一頭でも甲板に上がれば船員全滅も珍しくない、と本に書いてあった。
だとしたら、早く知らせなければ。
私は無言で腰の短剣に手を伸ばした。冷たい金属の感触が、指先に現実を突きつける。
ミリアリアさんとフェイさんには、部屋から出るなと厳命されていた。
だが、今はそれどころではない。
もし本当に魔物なら、まずはその姿を確認し、二人に知らせなければ。
戦うつもりはない。けれど、見過ごすわけにもいかない。
私は息を殺し、そっと扉を開け、隣の部屋の前に立った。
「……」
再び、扉の向こうから、低く唸るような音が聞こえる。
間違いない。中に、何かがいる。
私は踵を返し、急いで報告に向かおうとした。
──その瞬間。
「……ごはん?」
「ひぃえぇ!??」
音もなく開いた扉の向こうから現れたのは、銀色の髪を揺らす、小さな少女だった。
まるで月光を編んだような髪、無垢な瞳。私はその姿に驚き、思わず尻餅をついてしまった。
「……女……の子?」
「おかあさん?」
少女は無表情のまま、私をじっと見つめ、首をかしげた。
その仕草は、まるで人形のように整っていて、現実感がなかった。
だが、よく見ると、彼女の瞳の奥には、どこか人間離れした光が宿っている。
まるで星の瞬きを閉じ込めたような、冷たくも美しい輝き。
「え?」
「おかあさん?」
再び、少女は私を指差し、同じ言葉を繰り返す。
その声は澄んでいて、どこか機械的ですらあった。
まるで、誰かに教えられた言葉をなぞっているような──そんな違和感が、胸の奥に引っかかる。
「わ、私はアニー……お母さんじゃないよ」
「アニー、おかあさんはアニー」
「……あのね、私は貴方のお母さんじゃないよ」
「おかあさん。わたし、メグー」
名乗った少女──メグー。
その名と共に、彼女の存在がこの現実に根を下ろしたような気がした。
私は彼女の背後に目をやったが、部屋の中に魔物の気配はない。
荒らされた様子もなく、ただ静寂が広がっていた。
「メグーちゃん?」
「そう、わたし、メグー」
その声は、どこか遠くから響いてくるようで、現実と夢の境界が曖昧になる。
「……あの、メグーちゃん」
「なに?」
「さっき、魔物の声が聞こえなかった?」
「まもののこえ?」
再び、首をかしげるメグー。
そのとき──
ぐるるるる……
「っ!?」
今度ははっきりと聞こえた。あの唸り声。
だが、音の出所は──彼女のお腹だった。
「ま、魔物……!?」
私は反射的に短剣を抜き、彼女に向けて構えた。
「わたし、まものじゃないよ」
メグーは首を横に振った。
その表情は変わらず、まるで短剣の存在すら意に介していないようだった。
私の手が震える。
目の前にいるのは、ただの小さな女の子──のはずなのに。
それでも、私は彼女に刃を向けた。
「……っ」
胸の奥が、じわりと痛んだ。
もし、あのまま彼女を傷つけていたら?
その想像が、喉の奥を締めつける。
「ご、ごめんね、メグーちゃん……」
私は短剣を鞘に収め、深く頭を下げた。
彼女の無垢な瞳が、何も責めずに私を見つめているのが、かえってつらかった。
「ううん」
メグーちゃんは、きょとんとしたまま首を小さく振った。
「おなかの……音?」
「うん。メグーは、ごはんを食べないとしんじゃうびょうきなの。これは”しんじゃうよー”っていうあいず」
「あ、合図……」
食事が必要な病気──。
この世界で、人間は食事を必要としない。
魔物は食べる。
それは知っていた。
でも、人間に食事が必要になる病気があるなんて、本で読んだことがなかった。
そのとき、通路の奥から足音が響いた。
「アニーさん!メグー!?」
黒髪黒目のフェイさんと、海賊帽を被った金髪のミリアリアさんが駆け寄ってくる。
彼らの姿を見た瞬間、私は安堵と同時に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「……部屋から出ないでと言ったよね?」
フェイさんの冷たい瞳が私を射抜く。
右手がゆっくりと上がり、私に向けられる。
「約束を破ったこと、謝ります……」
私は震える声で謝罪した。
だが、フェイさんの手は止まらない。
「記憶を……」
その言葉を遮るように、ミリアリアさんが静かに彼の腕を下ろさせた。
「彼女を廃人にするつもりか」
「……しかし」
「まぁ、待て、フェイ。事を急くのはお前の悪い癖だぞ」
ミリアリアさんの言葉に、フェイさんは不服そうに眉をひそめたが、従うように手を下ろした。
「さて、アニー殿」
「は、はい」
「まずは……その物騒なものをしまっていただこう」
我に返った私は、慌てて短剣を鞘に収めた。
「ご……ごめんね……メグーちゃん」
「ううん」
メグーちゃんは、きょとんとしたまま首を小さく振った。
やはり、短剣を向けられたことを、まるで気にしていないようだった。
それが、かえって胸に刺さる。
私は、彼女を守るどころか、恐怖に駆られて刃を向けた。
彼女が人間かどうかなんて関係ない。
ただ、目の前の小さな命に、私は……。
「……部屋から出ないように、それをアニーさんは了解した。それにも関わらず、どうして、アニーさんはここにいるのかな?」
フェイさんは笑顔のまま、冷たい声で問いかけてくる。その静かな怒りが、ひしひしと伝わってきた。
「え……霧狼がいるかと思って、それで……」
「霧狼?」
私の言葉に、ミリアリアさんとフェイは顔を見合せる。
「しんじゃうよーのあいず」
メグーの言葉に、フェイさんは怪訝そうに彼女の言葉を復唱する。
「合図?」
「うん。ぐるるるって!」
「なるほどのう。あれは、魔物の唸り声に聞こえると言えば聞こえる」
ミリアリアさんがくすりと笑い、肩をすくめた。
その笑い声に、私はようやく肩の力が抜けるのを感じた。




