第39話:鍋に宿るは…
震える指を握りしめ、勇者サキュウスと対峙していた。
まるで神話から抜け出したかのような威容を放っている。
幾多の戦乱を終わらせ民を救った英雄。
彼の名を讃え、背を追う者は後を絶たない。
そんな存在と、今、私が剣を交えようとしている。
信じられない現実に喉が渇き、心臓が耳元で鳴った。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
サキュウスさんの背後に、血に濡れた海賊服のミリアリアさんが膝をつき、肩で息をしていた。
少し離れた場所には、赤い肌の鬼人族オーグさんが大木のように横たわっている。
その光景が胸を締めつけ、喉の奥が熱くなり、目元が滲む。
だが、それを拭うことすらできなかった。
「……仲間を想う者を相手に、我は加減などせんぞ」
サキュウスさんの声は低く静かで、鋼のように硬かった。
彼の手にあるのはかつて神の祝福を受けた聖剣。
今は光を失っているが、その刃は未だ鋭く、私の命を奪うには十分だった。
喉がひゅっと鳴り、足がすくみ声が出ない。
その沈黙を破ったのは──
「アニーさん!あの聖剣にスキルが使えます!」
ケビンさんの声だった。
頼りなげな少年が必死に叫んでいる。
その瞳には確信と覚悟が宿っていた。
(──聖剣をアイテムに変えてしまえば、サキュウスさんは手ぶらになる)
サキュウスの眉がわずかに動き、警戒が瞳に宿る。
「ば、馬鹿なこと言わないで、ケビン!」
メグーちゃんが震える声で言う。
だがケビンさんは真剣だった。
「間違いないです。スキルが使えます!」
メグーちゃんは静かに私を見つめた。
銀の瞳が揺れず、ただ一言。
「聖剣……あんなもの食べられるのかしら?」
その突飛な発想に心が一瞬軽くなる。
私は小さく頷いた。
「や、やりましょう!」
「アニーさん、良いんですか?」
「はい!この場を切り抜けるには、もうやるしかありません!」
覚悟を決めた声はか細くも確かな意志を帯びていた。
私たちは互いに頷き、運命を共にすることを誓った。
「覚悟を決めたようだな……来い!」
サキュウスさんの叫びが空気を震わせる。
その瞬間──
「アニーさん!許可を!!」
「許可します!」
私の声が響いた刹那、サキュウスさんの手元で「ポンッ」と音がし、白煙が広がった。
視界が奪われ、空気が一変する。
聖剣の感触が手から消えたことに気づいたサキュウスは即座に後退した。
ただの煙ではない。何かの術式が込められていると直感した。
煙が晴れると、そこには鍋があった。
蓋の隙間から立ちのぼる湯気は神域の霧のように神秘的で、ただならぬ気配を放っている。
「ま、まさか……」
サキュウスさんの顔が青ざめる。
鍋の中に宿る光は、かつて自らが握っていた聖剣の輝きだった。
彼は理解した。あの鍋の中身が聖剣そのものであることを。
「ば、馬鹿な!な、何だこれは!?何が、何が起きたのだ!?」
混乱と絶望が彼の理性を侵食する。
頬をつねっても現実は否定されない。
「あ、ああ、あぁぁぁ、わ、私の……私の剣がぁ!!!」
サキュウスさんは膝をつき、頭を抱えて甲板に崩れ落ちた。
かつての英雄の面影は消え、ただの一人の男になっている。
その隙をミリアリアさんは見逃さなかった。
血に濡れた剣を握りしめ、ふらつく足を無理に前に出す。
「おっと!やらせないよー!」
「くっ!!」
「ふぅ……間一髪!」
その剣先を黒い扇子がぴたりと止めた。
現れたのはユリだ。黒装束は裂け血に染まりながらも瞳は鋭く光っている。
空にいたはずの水龍の姿は消えていた。
ユリさんとマリーさんが討ち果たしたのだろう。
戦いの激しさがユリの姿に刻まれている。
「……マリーちゃん、ここは撤退!」
『そうね。サキュウス卿、申し訳ございませんが、失礼いたします』
どこからともなく響く声と共に、サキュウスさんの姿が光と共に消える。
「それじゃー、またね!」
ユリさんも煙に包まれ静かに去っていった。
残されたのは半壊した船と呆然と立ち尽くすミリアリアさんだ。
帆柱は折れ、風を生んでいた魔石は砕け、船は残骸と化している。
「ミリアリアさん!」
「アニーか」
振り返ったミリアリアさんの顔には疲労と安堵が混じっていた。
「無事ですか?」
「ああ、私もオーグも大事には至っていない。助かったぞ、アニー」
「い、い、いえ!」
私は顔を赤らめ視線を泳がせながらもしっかりと立っていた。
「ケビンさん……それに、メグー、お主らがいなければ私は倒されていただろう。感謝する」
ミリアリアさんの声は深い海の底から響くような重みを帯びている。
堂々としたその姿に似合わず言葉の端に安堵が滲んでいる。
金色の髪が風に揺れ、蒼い瞳が静かに二人を見つめている。
「そ、そんな!助けていただいたのは僕の方なので……」
ケビンさんは慌てて手を振り顔を赤らめる。
声は震えているが瞳には確かな決意がある。
小柄な体を精一杯に張り、彼は勇気を証明しようとしていた。
「ま、いいわ」
メグーが小さく呟いた。
年齢に似合わぬ落ち着いた声音が場の空気を引き締める。
「メグー?」
ケビンさんが戸惑いを隠せず問いかける。
「色々と問いただしたいところだけど……それはお母さんに任せるわ」
その言葉と同時に、メグーちゃんの銀の瞳が静かに私を射抜いた。
まるで心の奥底まで見透かすような冷たくも優しい視線だ。
彼女の美しさと神秘性が一瞬で場の空気を支配する。
その視線に気づいたミリアリアさんもゆっくりと私に顔を向けた。
海賊帽の影から覗く蒼い瞳が真実を見極めようとするかのように鋭く光る。
他の仲間たちも次第に私へと視線を移していく。
全員の視線が一人の少女に集中した。
「あ、あわわわ!」
私は肩をすくめ一歩後ずさる。
前髪の陰に隠れた瞳が揺れ、内心の動揺を物語っている。
視線の重圧に押し潰されそうになりながらも必死に言葉を探した。
「アニー、お主は我に聞きたいことがあるのではないか?」
ミリアリアさんの声は静かだが逃れられない力を帯びている。
まるで真実を語ることを促す審判のようだ。
「そ、それは……」
胸の内には渦巻く疑念と信頼がせめぎ合っている。
なぜ勇者はミリアリアさんたちを狙うのか。
聖剣の輝きは偽りではない。
確かにあの剣は彼女たちに反応していた。
でも、それならメグーちゃんも敵ということになる。
あの優しい瞳が?
そんなこと、信じたくない。
信じられない。
「……わ、私は……」
声が震え喉が詰まりそうになる。
それでも唇を噛みしめ勇気を振り絞った。
「みんなを……信じています!」
その言葉はか細くも確かな光のように場の空気を貫いた。
前髪の奥で瞳がわずかに輝いた。
声が自分のものではないような気がした。
ほんの一瞬だけ。すぐに、そんなはずはないと思った。




