第2話:終わりの地で、始まりを
振り返った瞬間、視界の端に異様な光景が飛び込んできた。
砂が渦を巻き、地面が爆ぜるように裂ける。
そこから現れたのは──
「……砂竜!?」
砂竜──
地を這う竜種。
本でしか聞いたことのない存在。
だが、今、目の前に現れたそれは、まさしく語られてきた恐怖そのものだった。
全長十メートルを優に超える巨体。
岩のように硬質な鱗に覆われた体躯が、砂を割って姿を現す。
口元には無数の牙が蠢き、まるで地獄の門が開いたかのようだった。
砂の奔流が唸りを上げ、私を目がけて突進してくる。
「っ、うそ……!」
私は反射的に身を翻した。
背中に突き刺さる視線の気配に、皮膚がざわりと粟立つ。
震える手のひらに伝わる微かな振動の違いを拾い上げる。
地面の振動の波形が、いつもと違う。
右側の砂が細かく、左側は重い。
この砂は柔らかい。
足を取られる。
こっちは固い。
走れる。
瞬時に判断して、私は固い砂の帯へと進路を変える。
踏みしめるたび、乾いた砂粒がぱらぱらと跳ね、靴底にまとわりつく。
柔らかい砂は足を取って、思うように速度が出ない。
焦りが喉の奥で熱く渦を巻く。
──旅の本に書いてあった。
砂竜は振動に敏感だ。
砂の海そのものが耳になっている。
走り方を変えれば、一瞬だけ感知を乱せる──そのわずかな希望に、私は縋るしかない。
膝を擦りむきながらも、必死に距離を取る。
背後で砂が爆ぜ、熱風が背中を撫でた。
皮膚が焦げる錯覚に、心臓が跳ね上がる。
「くっ……!」
頭が必死に回転する。
思考が焼けつくように速く、しかし、どこか震えている。
私に、剣も魔法もない。
頼れるものなど何ひとつない──
でも、知識はある。
生き延びるためにかき集めた、泥臭い知恵だけは。
竜系の魔物はミントの香りを嫌う。
咄嗟に地面へと手を伸ばし、力を引き絞る。
掌に砂の熱が刺さり、爪の間にまで入り込む。
砂の上に緑の光が散り、青々とした葉が勢いよく広がった。
ミントの強烈な清涼感が、灼けた空気を切り裂くように弾ける。
砂竜の動きが、ほんの一瞬、揺らいだ。
砂の海そのものが息を呑んだように、沈黙が走る。
──効いている。
(でも、足りない)
体が大きすぎる。
香りが砂嵐に呑まれていく。
わずかな怯みは、巨体の前では波紋ほどの意味しか持たない。
次の手を考える。
熱砂の下で生きる魔物が水分を求めることは、旅の本に書いてあった。
ならば、水分で釣る。
私は再び力を振り絞り、砂の上に光を走らせる。
光は砂粒の隙間に吸い込まれ、そこから小さな芽が突き破る。
芽はみるみる膨らみ、砂を押し上げながら丸い影を形づくる。
子どもほどの大きさの実が、重々しく姿を現した。
「スイカ」
甘く、みずみずしい香りが、灼けた空気の中にふわりと広がる。
私は渾身の力でそれを掴み、肩が軋むほどの勢いで、ワームとは反対方向へ投げ放つ。
砂竜の巨体がぴたりと止まった。
砂の海が静まり返り、あの巨大な頭が空気を味わうようにゆっくりと揺れる。
そして──転がっていくスイカへと、確かな意志を持って向きを変えた。
──通じた。
(水分を求める魔物。本で読んだ知識が、ちゃんと役に立った……!)
だが。
スイカは一瞬で飲み込まれた。
十メートルの怪物には、あれでは足りなかった。
根菜を生やして転がし、進路を乱そうとする。
香りの強いハーブを撒き、嗅覚を刺激する。
大きな葉を広げて影を作り、砂の温度差で動きを鈍らせようとする。
どれも、一瞬だけ効いた。
だが次の瞬間には、もう通じなくなっていた。
──ワームは学習する。
スイカに釣られた一度で、次は嗅覚だけでは満足しないと判断したのだ。
私の魔力は、少しずつ削られていく。
光を走らせても、芽が出ない瞬間が増える。
根が砂を押し上げる力が弱くなる。
膝が笑い、砂に崩れ落ちる。
熱い砂が皮膚に貼りつき、呼吸は荒れ、視界がぐらりと揺れた。
恐怖が胸の奥からせり上がり、思考を白く塗り潰していく。
砂竜が跳ね上がった。
巨体が空中でくねり、影が太陽を覆う。
砂が雨のように降り注ぎ、私は腕で顔を覆うしかなかった。
次の瞬間、砂竜はその巨体を地面に叩きつけた。
大地が鳴動し、砂嵐が爆ぜるように巻き起こる。
私は吹き飛ばされ、砂に転がった。
肺に砂が入り、咳き込みながら必死に体を起こす。
だが、足が震えて立てない。
砂が吸い付くように重く、体が言うことを聞かない。
魔力が、尽きた。
──このまま、喰われる。
抗う術なんて思い浮かばない。
けれど、まだ諦めたくない──
そう思う気持ちだけが、消えずに残っていた。
──そんな時だ。
「……ハートを盗む」
砂嵐の唸りに紛れて、低く静かな声が届いた。
まるで誰かが闇の中で呟いたような、かすかな一言。
詠唱なのか、それとも別の何かなのか──私には判断できなかった。
次の瞬間、砂竜がまるで糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
全身を痙攣させながら、砂の上でのたうち回るその姿は、まるで心臓を撃ち抜かれたかのようだった。
「大丈夫か?」
背後から再び声がした。
振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
漆黒の髪、深い闇を湛えた瞳。
全身を黒のコートで包み、その佇まいはまるで夜の化身のようだった。
だが、その整った顔立ちは、どこか現実離れしていて──
この地域では、まず見かけない色をしていると気づいた。
黒い髪も、深い色の瞳も、私の記憶にある旅の人々とはまるで違う。
「……俺の黒髪と黒目、そんなに珍しいかな?」
「あ……い、いえっ!」
私は慌てて首を左右に何度も振りながら、震える声で奇声を放つ。
この人の存在感は、砂竜よりも余程、心臓に響いた。
そんな私の姿に、彼はふっと笑い、安堵したように息を吐いた。
「怪我はなさそうだね。よかった」
「あ……あの……どう」
「どう?」
「どうして……助けてくれたんですか?」
相変わらずどもってしまう。
上手く言葉が出てこない自分が情けなくて、視線を落とす。
「救援信号を出したのは君だろう?」
「……はい。でも、あの……」
私はいつもこうだ。
伝えたいことがあるのに、言葉が喉で詰まってしまう。
胸の奥がもやもやして、息苦しくなる。
「……冒険は自己責任」
「っ!」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「冒険は……自己責任だから、助けてもらえたのが不思議なのかな?」
「……はい」
そう、冒険は自己責任。
墜落しようが、魔物に襲われようが、それはすべて自分の選んだ道の果て。
誰かに助けを求めること自体が、甘えなのだと、ずっと思っていた。
胸の奥に冷えた言葉が落ちてきたのを、私は指先でそっと登録証を握りしめて受け止めた。
でも──
「冒険は自己責任なら、冒険の途中で困っている人を助けるか助けないかだって、同じような自由があっても良いだろ?」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
凍えていた心に、そっと火が灯るようだった。
「……それは……すごく……その」
言葉にならない想いが、喉の奥で震える。
「……飛空艇は、もうダメそうだね」
彼は座礁した飛空艇を見つめながら、静かに言った。
冒険のために、借金してまで手に入れた飛空艇だった。
夢の入口が、砂の上に沈んでいる。
「近くの街まで送ろう」
「えっ、いい……んですか?」
「困ったときはお互い様だからね」
その微笑みは、砂嵐の中でも確かに温かかった。
彼は空を見上げ、右手を高く掲げる。
その掌から放たれた光が、夜空を裂くように走り、雲の向こうから巨大な飛空艇が姿を現した。
砂嵐をものともせず、空を滑るその姿は──まるで、希望そのものだった。




