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誰も食べない世界に真実を  作者: 農民
第1章:天使の零落
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第2話:終わりの地で、始まりを


 振り返った瞬間、視界の端に異様な光景が飛び込んできた。

 砂が渦を巻き、地面が爆ぜるように裂ける。


 そこから現れたのは──


「……砂竜《ワーム》!?」


 砂竜《ワーム》──

 地を這う竜種。

 本でしか聞いたことのない存在。

 だが、今、目の前に現れたそれは、まさしく語られてきた恐怖そのものだった。


 全長十メートルを優に超える巨体。

 岩のように硬質な鱗に覆われた体躯が、砂を割って姿を現す。

 口元には無数の牙が蠢き、まるで地獄の門が開いたかのようだった。


 砂の奔流が唸りを上げ、私を目がけて突進してくる。


「っ、うそ……!」


 私は反射的に身を翻した。

 背中に突き刺さる視線の気配に、皮膚がざわりと粟立つ。


 震える手のひらに伝わる微かな振動の違いを拾い上げる。

 地面の振動の波形が、いつもと違う。

 右側の砂が細かく、左側は重い。


 この砂は柔らかい。

 足を取られる。

 こっちは固い。

 走れる。


 瞬時に判断して、私は固い砂の帯へと進路を変える。


 踏みしめるたび、乾いた砂粒がぱらぱらと跳ね、靴底にまとわりつく。

 柔らかい砂は足を取って、思うように速度が出ない。


 焦りが喉の奥で熱く渦を巻く。


 ──旅の本に書いてあった。


 砂竜《ワーム》は振動に敏感だ。

 砂の海そのものが耳になっている。


 走り方を変えれば、一瞬だけ感知を乱せる──そのわずかな希望に、私は縋るしかない。


 膝を擦りむきながらも、必死に距離を取る。


 背後で砂が爆ぜ、熱風が背中を撫でた。

 皮膚が焦げる錯覚に、心臓が跳ね上がる。


「くっ……!」


 頭が必死に回転する。

 思考が焼けつくように速く、しかし、どこか震えている。


 私に、剣も魔法もない。

 頼れるものなど何ひとつない──


 でも、知識はある。

 生き延びるためにかき集めた、泥臭い知恵だけは。


 竜系の魔物はミントの香りを嫌う。


 咄嗟に地面へと手を伸ばし、力を引き絞る。

 掌に砂の熱が刺さり、爪の間にまで入り込む。


 砂の上に緑の光が散り、青々とした葉が勢いよく広がった。

 ミントの強烈な清涼感が、灼けた空気を切り裂くように弾ける。


 砂竜《ワーム》の動きが、ほんの一瞬、揺らいだ。

 砂の海そのものが息を呑んだように、沈黙が走る。


 ──効いている。


(でも、足りない)


 体が大きすぎる。

 香りが砂嵐に呑まれていく。


 わずかな怯みは、巨体の前では波紋ほどの意味しか持たない。


 次の手を考える。


 熱砂の下で生きる魔物が水分を求めることは、旅の本に書いてあった。


 ならば、水分で釣る。


 私は再び力を振り絞り、砂の上に光を走らせる。

 光は砂粒の隙間に吸い込まれ、そこから小さな芽が突き破る。


 芽はみるみる膨らみ、砂を押し上げながら丸い影を形づくる。

 子どもほどの大きさの実が、重々しく姿を現した。


「スイカ」


 甘く、みずみずしい香りが、灼けた空気の中にふわりと広がる。


 私は渾身の力でそれを掴み、肩が軋むほどの勢いで、ワームとは反対方向へ投げ放つ。


 砂竜《ワーム》の巨体がぴたりと止まった。

 砂の海が静まり返り、あの巨大な頭が空気を味わうようにゆっくりと揺れる。


 そして──転がっていくスイカへと、確かな意志を持って向きを変えた。


 ──通じた。


(水分を求める魔物。本で読んだ知識が、ちゃんと役に立った……!)


 だが。


 スイカは一瞬で飲み込まれた。


 十メートルの怪物には、あれでは足りなかった。


 根菜を生やして転がし、進路を乱そうとする。

 香りの強いハーブを撒き、嗅覚を刺激する。

 大きな葉を広げて影を作り、砂の温度差で動きを鈍らせようとする。


 どれも、一瞬だけ効いた。

 だが次の瞬間には、もう通じなくなっていた。


 ──ワームは学習する。


 スイカに釣られた一度で、次は嗅覚だけでは満足しないと判断したのだ。


 私の魔力は、少しずつ削られていく。


 光を走らせても、芽が出ない瞬間が増える。

 根が砂を押し上げる力が弱くなる。


 膝が笑い、砂に崩れ落ちる。

 熱い砂が皮膚に貼りつき、呼吸は荒れ、視界がぐらりと揺れた。


 恐怖が胸の奥からせり上がり、思考を白く塗り潰していく。


 砂竜《ワーム》が跳ね上がった。

 巨体が空中でくねり、影が太陽を覆う。


 砂が雨のように降り注ぎ、私は腕で顔を覆うしかなかった。


 次の瞬間、砂竜《ワーム》はその巨体を地面に叩きつけた。

 大地が鳴動し、砂嵐が爆ぜるように巻き起こる。


 私は吹き飛ばされ、砂に転がった。

 肺に砂が入り、咳き込みながら必死に体を起こす。


 だが、足が震えて立てない。

 砂が吸い付くように重く、体が言うことを聞かない。


 魔力が、尽きた。


 ──このまま、喰われる。


 抗う術なんて思い浮かばない。

 けれど、まだ諦めたくない──

 そう思う気持ちだけが、消えずに残っていた。


 ──そんな時だ。


「……ハートを盗む」


 砂嵐の唸りに紛れて、低く静かな声が届いた。

 まるで誰かが闇の中で呟いたような、かすかな一言。

 詠唱なのか、それとも別の何かなのか──私には判断できなかった。


 次の瞬間、砂竜《ワーム》がまるで糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 全身を痙攣させながら、砂の上でのたうち回るその姿は、まるで心臓を撃ち抜かれたかのようだった。


「大丈夫か?」


 背後から再び声がした。

 振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。


 漆黒の髪、深い闇を湛えた瞳。

 全身を黒のコートで包み、その佇まいはまるで夜の化身のようだった。


 だが、その整った顔立ちは、どこか現実離れしていて──

 この地域では、まず見かけない色をしていると気づいた。

 黒い髪も、深い色の瞳も、私の記憶にある旅の人々とはまるで違う。


「……俺の黒髪と黒目、そんなに珍しいかな?」


「あ……い、いえっ!」


 私は慌てて首を左右に何度も振りながら、震える声で奇声を放つ。


 この人の存在感は、砂竜よりも余程、心臓に響いた。


 そんな私の姿に、彼はふっと笑い、安堵したように息を吐いた。


「怪我はなさそうだね。よかった」


「あ……あの……どう」


「どう?」


「どうして……助けてくれたんですか?」


 相変わらずどもってしまう。

 上手く言葉が出てこない自分が情けなくて、視線を落とす。


「救援信号を出したのは君だろう?」


「……はい。でも、あの……」


 私はいつもこうだ。

 伝えたいことがあるのに、言葉が喉で詰まってしまう。

 胸の奥がもやもやして、息苦しくなる。


「……冒険は自己責任」


「っ!」


 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。


「冒険は……自己責任だから、助けてもらえたのが不思議なのかな?」


「……はい」


 そう、冒険は自己責任。

 墜落しようが、魔物に襲われようが、それはすべて自分の選んだ道の果て。

 誰かに助けを求めること自体が、甘えなのだと、ずっと思っていた。

 胸の奥に冷えた言葉が落ちてきたのを、私は指先でそっと登録証を握りしめて受け止めた。


 でも──


「冒険は自己責任なら、冒険の途中で困っている人を助けるか助けないかだって、同じような自由があっても良いだろ?」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 凍えていた心に、そっと火が灯るようだった。


「……それは……すごく……その」


 言葉にならない想いが、喉の奥で震える。


「……飛空艇は、もうダメそうだね」


 彼は座礁した飛空艇を見つめながら、静かに言った。

 冒険のために、借金してまで手に入れた飛空艇だった。

 夢の入口が、砂の上に沈んでいる。


「近くの街まで送ろう」


「えっ、いい……んですか?」


「困ったときはお互い様だからね」


 その微笑みは、砂嵐の中でも確かに温かかった。


 彼は空を見上げ、右手を高く掲げる。

 その掌から放たれた光が、夜空を裂くように走り、雲の向こうから巨大な飛空艇が姿を現した。


 砂嵐をものともせず、空を滑るその姿は──まるで、希望そのものだった。


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