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最弱の農民ロールの私、裏切った仲間ごと助けて救世主となる  作者: 農民
第3章:聖導リュミエール神聖学院
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第162話:聖女の仮面と祈りの扉

 

 修道士の背に従い、石畳を踏みしめながら、私達は歩いていた。


 高くそびえるアーチの天井には、かすかな蝋燭の灯りが揺れ、壁に描かれた聖人たちの姿が静かに見下ろしている。

 荘厳な沈黙が回廊を包み、四人の足音だけが、時の止まったような空間にかすかに響いていた。


 隣では、クラリーチェ・フォン・ヴァルシュタインが迷いひとつない足取りで歩いている。

 陽光を受けて煌めく金髪は高く結い上げられ、歩くたびに気高く揺れた。

 深紅の瞳は鋭く、どこか退屈そうな色を湛えながらも、常に周囲を見透かすような眼差しを向けている。

 制服の胸元には帝国貴族の紋章がさりげなく輝き、その立ち姿は、まるで舞台の主役のようだった。

 誰に見られているかを常に意識し、見られることを当然とする者の所作。

 ただそこにいるだけで、空気が変わる。


 その少し前を、アニーさんが歩いていた。


 背筋をわずかに固くして、けれど乱れることなく、静かに修道士の後に続いている。

 その背中が妙に気になった。

 聖女の呼び出しに応じながら、アニーさんは今、何を考えているのだろう。


 ──あの夜の記憶は、まだ霧のように曖昧だった。


 意識の底で蠢く闇。絡みつく魔物の気配。

 自分が何者で、どこにいるのかもわからぬまま、ただ恐怖に囚われていた。


 そのとき──声が届いた。


 震えながらも真っ直ぐな声が、闇の底にいた私の手を取ってくれた。

 あの瞬間の温もりが、今も胸の奥に残っている。


 (アニーさん……)


 あのとき助けてくれたのが、他でもないアニーだったと、リゼリアは知っていた。

 感謝の言葉も、想いのすべても、まだ胸の中で形を成したまま留まっている。

 だからこそ今、何も言えないまま、ただその背中を見つめていた。


 そのとき、前を歩くアニーが、ふと歩調を緩めた。

 二人の視線に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。


「あ、あの……」


 ようやく絞り出したようなアニーさんの声が、石畳の上で頼りなく揺れた。


「何かご用かしら?そんなに見つめられると、落ち着かないのだけれど」


 クラリーチェさんが、まるでそれが当然の反応であるかのように、涼やかな声で応じた。

 自らが視線を送っていたことなど、まるで他人事のように。

 表情ひとつ変えず、その瞳には微塵の揺らぎもない。


「え、えっと……視線を、感じまして……」


「当然でしょう?あなたが私の前を歩いているのだから。視界に入るのは避けられないわ」


 クラリーチェさんは、まるで空気のようにさらりと告げた。

 悪意もなければ、冗談めいた響きもない。ただ事実を述べただけという風情だった。


「……そ、それは……そうですね」


 アニーさんは肩をすくめるようにして小さく頷き、すぐに視線を逸らして足元の石畳に目を落とした。


 沈黙が再び流れる。


 私はそっと視線を上げ、教会の高窓の向こう、薄靄に包まれた学院の塔を捉えた。


 クラリーチェさんがアニーさんを見つめるのは、あの事件の直後で唯一、怪我一つ負っていないからだろう。

 だけど、私がアニーさんを見てしまうのは、それとは違う。

 言葉にならない想いが、まだ胸の奥で形を持てずにいる。


「でも……」


 誰にも聞こえないほどの小さな声で、私はぽつりと呟いた。


「今、勇気の聖女様に……呼ばれてるなんて……それじゃ……アニーさんは?」


 その疑問は答えを求めるものではなかった。

 ただ、胸の奥でずっとくすぶっていた何かが、言葉の形を借りてこぼれ落ちただけだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 やがて、四人の歩みは一枚の重厚な扉の前で止まった。

 古びた木に刻まれた荘厳な紋章が、長い時の重みを物語っている。


「お待たせしました。四名をお連れしました」


 修道士の低く穏やかな声が、扉の向こうへと響いた。

 しばしの静寂ののち、重々しい音を立てることもなく、扉はゆっくりと開かれていく。


 その隙間から差し込んだのは、まばゆいばかりの白と金の光。

 まるで天上の祝福が降り注ぐかのように、柔らかくも威厳に満ちた輝きが、四人の足元を照らした。

 光の向こうに広がる空間は、まだ見えない。

 だが、その先に待つ何かが、彼らの運命を大きく動かすことだけは、誰の胸にも確かに感じられた。


 その奥に、彼女はいた。

 "勇気の聖女"──その名にふさわしく、玉座のような椅子に静かに身を預けていた。

 白金のローブがその細身の体をすっぽりと包み、顔は薄布に覆われている。

 肌も瞳も見えないはずなのに、そこに宿る気配はあまりにも鮮烈で、まるで視線だけで心の奥を見透かされるようだった。


 彼女の周囲には言葉にできぬ威厳が漂い、誰もが思わず息を呑む。

 風も音も、すべてがその場にひれ伏すように静まり返り、空気は張り詰め、時さえも歩みを止めたかのようだった。


 ただ、そこに在るだけで、世界がひとつ、形を変える──そんな存在感が、彼女にはあった。


「……あれが、勇気の聖女様……?」


 リゼリアの声は、ほとんど息に溶けるような囁きだった。

 足が自然と止まり、胸の奥にざわめきが広がる。

 目の前に座すその姿は、夢の中で幾度となく見た"聖女"に酷似していた。

 白金のローブ、覆面の奥に隠された顔、そしてただそこに在るだけで空間を支配するような気配。


 けれど──何かが違う。

 記憶の中の聖女は、もっと柔らかく、もっと温かかった気がする。

 今、目の前にいるその存在は、あまりにも完璧で、あまりにも遠い。まるで人ではなく、神そのもののように。


 リゼリアの胸に、言葉にできない違和感が静かに芽吹いていた。

 それは疑念というにはあまりにかすかで、しかし確かに彼女の心を揺らしていた。


 そのときだった。


「ようやく……お目にかかれましたわ、勇気の聖女様」


 クラリーチェが静かに一歩を踏み出す。

 その足取りには迷いがなく、まるで聖域に踏み入ることすら許された者のようだった。

 彼女の瞳は、白金の光に包まれた聖女の姿を捉えたまま、微かに潤んでいる。


 その面差しには、恍惚とした敬慕の色が浮かんでいた。


 あの夜、闇に呑まれかけた自分を救い出してくれたのは、この聖女だった。

 命を拾われたあの瞬間から、クラリーチェの中で"勇気の聖女"は、ただの存在ではなくなった。

 理想の象徴、信仰の具現、そして──心の拠り所。


 さらに後に知った、もう一度命を救われていたという事実は、彼女の想いに決定的な重みを加えた。

 もはや疑う余地などなかった。

 この方こそが、導きの光。絶対の存在。


 クラリーチェの胸には、言葉では尽くせぬ想いが渦巻いていた。

 ただそのすべてを、ひとつの視線に込めて、彼女は聖女を見つめ続けていた。


 そのとき、リゼリアはクラリーチェの様子に思わず目を見張った。


 いつも冷静で、感情を表に出すことのない彼女が、今はまるで夢見る少女のように頬を紅潮させ、陶然とした面持ちで聖女を見つめているのだ。


「クラリーチェさん……?」

「だ、大丈夫ですか? 顔が赤いですよ……」


 リゼリアが心配そうに声をかけ、アニーも戸惑いながらその横顔を覗き込んだ。

 だがクラリーチェは、二人の声に応えることなく、ただ聖女の姿に心を奪われたまま、そっと両手を胸の前で組み、祈るように呟いた。


「……この威容、まさしく"勇気"の化身……。やはり、私の目に狂いはなかったわ」


 その声は静かでありながら、確信に満ちていた。

 彼女の中で、聖女はもはや信仰の対象を超え、理想そのものとして輝いていた。

 リゼリアは言葉を失い、ただその横顔を見つめるしかなかった。


 その隣で、ひときわ熱を帯びた気配を放つ男がいた。


「数多の魔物を従え、龍すらも平伏させる……勇気の座を埋めるに相応しいお方だ。ああ、弟子にしていただきたい……!」


 ユリウスは鼻息も荒く、拳を固く握りしめていた。

 その目はまるで戦場を前にした戦士のように輝き、興奮を隠す素振りすら見せない。

 彼の胸の内には、尊敬と憧れが渦巻いていた。


 その姿は、まるで英雄譚の登場人物に心を奪われた少年のようでもあり、同時に、己の理想を見出した戦士のようでもあった。


 どうやら彼もまた、聖女という存在に心を奪われた一人らしい。

 だがその想いは、クラリーチェのそれとはまた異なる熱を帯びていた。


 信仰ではなく、憧憬。

 崇拝ではなく、志願。


 彼の中で"勇気の聖女"は、ただの象徴ではなく、目指すべき頂そのものとなっていた。


 アニーは口を閉ざしたまま、静かにその場に立ち尽くしていた。

 胸の奥では感情が波のように揺れているのだろうが、それを表に出す素振りはない。

 凛とした沈黙の中で、ただ静かに聖女を見つめていた。


 その姿を、玉座の奥からそっと見つめる者がいた。

 セラ──白金の布に顔を隠した聖女は、布の奥からアニーの様子を見つめ、わずかに目を細めた。


(……バレバレですわ、猊下。ああもう、視線を逸らさなきゃ)


 心の中で小さく嘆息しながらも、セラの胸には微かな笑みが灯っていた。

 アニーの気丈さも、その奥に隠された不安も、すべて見えてしまうからこそ、彼女はそっと視線を外した。

 まるで、そっと背中を押すように。


「どうぞ、おかけください。──事情を、聞かせていただきます」


 その声は、空間に澄んだ水を注ぐように静かで、けれど確かな重みを持って響いた。

 セラは魔力を通じて、落ち着いた大人の声を紡ぎ出す。

 あえて感情を抑えたその声音は、アニーと"勇気の聖女"を結びつけないための威厳を得るための仮面でもあった。

 威厳があればあるほど本物の勇気の聖女から遠ざかるとは何事だろうかとセラは考えたのだが、彼女はすぐに考えるのをやめる。


 その演出は、場にいる者たちの緊張を引き締めると同時に、アニー自身の心にも一線を引かせる。

 私情を挟まぬように──そう、これは聖女としての務めなのだと。

 そのときだった。


「……あの、私から……さきにお聞きしてもよろしいでしょうか」


 リゼリアがそっと手を挙げた。

 声はかすかに震えていたが、その瞳には確かな決意が宿っていた。

 彼女の中で、言葉にしなければならない想いが、今まさに形を成し始めていた。

 静寂の中、彼女の一言が、場の空気をわずかに揺らした。


「リゼリアさん。どうぞ」


 セラ──

 いや、聖女の声が静かに響いた。

 まるで水面に一滴の雫が落ちたように、場の空気がわずかに揺れる。

 リゼリアは一歩前に出ると、ためらいがちに口を開いた。


「本当に……あなたが、勇気の聖女様なんですか?」


 その言葉が放たれた瞬間、アニーの肩がぴくりと震えた。


 クラリーチェとユリウスは、まるで信じがたいものを目にしたかのようにリゼリアを見つめた。

 その瞳は真っ直ぐだった。


「はい。私が、勇気の聖女です」

「……あの、私……魔物に囚われていたとき、あなたの声に助けられたんです。でも……そのときの声と、今の声が……少し違うような気がして……」

「魔力を通して語りかけました。声の響きが異なって聞こえたのでしょう。混乱させてしまったようですね」


「……」


 勇気の聖女の言葉に、リゼリアは反論を失う。

 そこを畳みかけるようにしてセラは追撃の一手を加える。


「"証拠"というのも語弊があるかもしれませんが──グリー」


 聖女は静かに立ち上がり、配下の名を呼んだ。

 窓辺へと歩み寄り、そっと窓を開ける。


「っ……!」


 そこには、神話から抜け出したかのような白銀のグリフォンがいた。

 翼を大きく広げ、神々しい光をまといながら、勇気の聖女の前に静かに頭を垂れる。


「……グリフォン……白銀の……」


 リゼリアは、息を呑んだ。

 その姿を前にしては、もう疑う余地などなかった。

 この神獣が主と認めるのは、ただ一人──勇気の聖女だけ。


「……ごめんなさい。私、失礼なことを……」


 リゼリアは慌てて頭を下げ、声を震わせながら謝罪した。


「大丈夫ですよ。混乱させてしまったのは、こちらの説明不足ですから。どうか顔を上げてください。何があったのか、教えていただけますか? 特に──リゼリアさん」

「……はいっ」


 リゼリアは顔を上げ、真剣な眼差しで勇気の聖女を見つめた。

 その瞳には、迷いと、それでも真実を知ろうとする意志が宿っていた。


「学院で起きたことについて、少しだけ……気になることがあるんです。もしかしたら、誰かが……裏で何かを……そう考えた時……鍵を握っているのは……リゼリアさん。貴女ではないかと私は考えているのです」


 勇気の聖女の声は小さく、けれど確かな重みを持っていた。

 リゼリアの中に芽生えた疑念は、まだ形にならないまま、静かに言葉となって現れ始めていた。



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