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誰も食べない世界に真実を  作者: 農民
第1章:天使の零落
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第12話:捨てられた命、拾われた声


 悲鳴は、通路の奥から来ていた。

 ひとつではない。


 男の声が混じり、魔物の唸り声が混じり、石畳を叩く無数の足音が混じって、反響しながら迫ってくる。

 空気が振動する。

 壁に伝わる低い響きが、胸の奥の鼓動と同調するように速くなる。


 ミリアリアさんが手で制した。

 全員が足を止めた。


「……来るぞ」


 その声は静かだったが、空気が変わった。

 次の瞬間、十字路の先から影が飛び出してきた。


 人間だった。

 薄茶色の髪に、青白い顔。


 若い男が必死の形相で走ってくる。

 足がもつれている。転びそうになりながらも、それでも走るのをやめていない。


「に、逃げてください!魔物が──!」


 叫び声が終わる前に、背後から濁流のような音が押し寄せてきた。

 通路を埋め尽くすように、魔物が溢れ出てきた。


 先頭は金色の甲羅を持つ亀型の魔物。

 その背後から、水牛に似た巨大な頭部を持つ魔物、鱗が鋭く逆立った蜥蜴型の魔物、胴が長く地を這う蛇型の魔物──。

 

 種類も大きさも違う魔物たちが、我先にと押し合うように殺到してくる。

 湿った息と獣の匂いが混ざり、石の冷たさが足裏から伝わる。

 振動が床を伝い、腰のあたりまで震えが上がってくる。


「っ!」


 私は思わず後退った。

 メグーちゃんの手を反射的に握る。


 胸の奥が一瞬で冷えた。


(多い……。こんなに一度に──)


 心臓が跳ねる。

 血の音が耳の中で大きくなる。

 指先が白くなるのを感じながら、頭の中で計算が始まる。


「アニー」


 ミリアリアさんの声が鋭く呼んだ。

 

「はい!」

 

「あの男を連れてメグーと下がれ。通路の角まで。視界は確保しておけ」


 頷くより先に体が動いていた。

 男のそばに駆け寄り、腕を掴む。


「こっちです!」


「あ、ありがとうございます……!」


 角まで引っ張り、壁に背をつけて様子を窺う。

 メグーちゃんが私の隣にぴったりとついた。


 その銀色の瞳は、迫り来る魔物の群れを静かに見ていた。

 通路の中央では、ミリアリアさんとオーグさんが向かい合うように立っている。


(二人で、あれだけの数を……?)


 胸の奥がざわめいた。

 それより先に、頭の別の部分が動き始めた。


 目の前の魔物たちを、無意識に見ていた。

 先頭の亀型は甲羅を低く傾け、顔をこちらへ向けながら走っている。


 だが──目が、合わない。

 視線がこちらに来ていない。


 まるで背後の何かから逃げるように、ただ前へ前へと突き進んでいる。

 水牛型の魔物も同じだった。


 巨大な頭をがむしゃらに振りながら、方向もろくに定まらず突進している。

 縄張りを主張するでも、獲物を狙うでもない。

 

(おかしい……)


 農作業の合間に、野生の動物を何度も観察したことがある。

 縄張り意識の強い生き物は、たとえ相手が格上でも、縄張りの境界では必ず立ち向かう。

 

 逃げるときは決して群れない。各自が別々の方向へ散る。

 でも今、目の前の魔物たちは群れて、同じ方向へ、まるで押し流されるように走っている。


(これは──追っているんじゃない。逃げている。何かに怯えて、縄張りを捨ててまで逃げようとしている)

 

 思考が冷たく研ぎ澄まされる。

 背筋が凍るような予感が、ゆっくりと広がっていった。

 

「ミリアリアさん!」


 思わず叫んでいた。


「この魔物たち、何かに怯えているんだと思います!追っているんじゃなくて、逃げています!縄張りを捨ててまで逃げるなんて──奥に、もっとまずいものがいる可能性があります!」


 言葉が震える。

 喉の奥が乾く。

 目の前の光景が、急に重く、遠くなるように感じられた。


 ミリアリアさんは一瞬だけこちらを見た。

 その蒼い瞳が、わずかに細くなる。

 

「……奥か」


「面白ェ観察眼だな」


「だが、このまま外へ溢れさせるわけにはいかぬな」


「おう」


 オーグさんが腕を組み、押し寄せる魔物たちを一瞥した。


 二人の判断は、迷いがなかった。


 私は何も言えなかった。

 言えなかったけれど──その判断が正しいと、わかった。


(でも、これだけの数を……)


 先頭の亀型の魔物が迫る。

 金色の甲羅が、魔力灯の光を鈍く反射して輝いていた。


 次の瞬間──。


 轟音。


 オーグさんの拳が、先頭の亀型の甲羅を正面から打ち砕いた。

 ぐしゃり、という音とともに金色の巨体が石畳に沈み込む。


 風圧が走り、私の前髪が揺れた。

 剣の金属音が空気を切る。


 ミリアリアさんは剣を抜いていた。

 いつ抜いたのか、見えなかった。


 水牛型の魔物が突進してくる──次の瞬間には、剣閃が走り、巨体が真横に吹き飛んでいた。


 魔物が次々と来る。

 次々と、沈む。


 オーグさんは一体ずつを正面から受け止め、拳一つで仕留めていく。

 ミリアリアさんは剣を振るいながら、三体を同時に捌き、一歩も後退しない。


 刃が石に触れる音。

 獣の断末魔。


 短い。鋭い。断続的。


 衣服の乱れひとつない。

 呼吸が荒れている様子もない。

 その静けさが、かえって恐ろしかった。


 私は、ただ見ていた。

 隣でメグーちゃんが静かに二人を見つめている。


 彼女の胸の動きが、ゆっくりと確かに見える。

 男が、小さく呟いた。


「……僕は、何もできなかった」


 その声は、驚きではなかった。

 ただ、乾いていた。


 言葉の端に残るのは、後悔の匂いだった。

 彼の肩が震える。


 目が潤む。

 自分の無力さを噛み締めるように、唇を噛んでいる。


 私の手が、無意識に彼の腕を強く握り返していた。

 冷たい石の匂いと血の匂いが混ざる中で、時間が一瞬だけ止まったように感じられた。


 だが戦いは続く。

 短い呼吸。短い間合い。短い決断。


 ミリアリアさんの剣先が、次の影を切り裂く。

 オーグさんの拳が、次の衝撃を受け止める。


 私たちは角に押し込まれたまま、視界を守り続ける。

 奥から来るものの気配が、さらに濃くなる。


 それは風でも、音でも、匂いでもない。

 重さだった。


 押しつぶすような重さが、通路の先からゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。


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