第11話:戦う力とは
進むたびに、空気の質が変わっていく。
通路は思ったより広く、天井には魔力灯が等間隔に並んでいた。
けれどその光は、まるで弱々しい命が揺らめいているように明滅し、石畳の輪郭をかすかに浮かび上がらせるだけだった。
湿った石の匂いに、甘く腐ったような、正体の分からない気配が混じる。
鼻の奥にまとわりつき、呼吸のたびに喉の奥がざらついた。
奥へ踏み込むほど、空気が重くなる。
肌の表面に、薄い膜が張りつくような圧力がじっとりとまとわりつき、背筋を冷たいものが這い上がる。
魔力の濃度が上がっている──頭では理解していた。
けれど理解と慣れは別で、胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。
耳の奥で、遠くの水滴が落ちる音が反響し、通路全体が生き物の体内のように思えてくる。
私はミリアリアさんとオーグさんの後ろを、少し距離を空けて歩いていた。
頼もしいはずの二人の背中が、薄暗い通路の中ではどこか遠く感じられる。
その隣で歩くメグーちゃんの存在だけが、心の揺れをかろうじて支えてくれていた。
彼女の小さな足音が、一定のリズムで響く。
その規則正しさが、乱れがちな私の呼吸を少しずつ整えてくれた。
私は前髪の隙間からそっと前方を見やり、また視線を落とす。
怖いわけじゃない──そう言い聞かせても、体は正直だ。
緊張は抜けない。
それでも、みんながいる。
その事実だけが、足を前へと運ばせていた。
さっき柱の根元で見た赤い花と同じ種が、また壁際に咲いていた。
血のように濃い赤。
肉厚の花びらは、薄暗い通路の中でも不気味なほど鮮やかで、湿った空気に混じる甘い腐臭と妙に馴染んでいる。
こんな環境で咲く植物に、ただ綺麗なだけのものはいない。
背筋にひやりとしたものが走る。
それでも、本能が、足より先に指を動かしていた。
(──採取できれば、何かに使えるかもしれない)
気づいたときには、もうしゃがみ込んでいた。
石畳の冷たさが膝に伝わる。
そっと茎の根元をつまみ、周囲の土を崩さないよう慎重に引き抜く。
「何やってんだァ!」
頭上から怒声が落ちてきた。
振り返ると、オーグさんが眉間に深い皺を刻んでこちらを睨んでいる。
怒っているというより、心配が混じったような、そんな顔だった。
「あ、え、あの、この花が……」
「ダンジョンの中で花を摘んでんじゃねェ!!」
「す、すみません!でも採取しておくと──」
「うるさいッ!!」
ぺち。
小さな手が、オーグさんの腕をぺちぺちと叩いた。
メグーちゃんだ。
その仕草は力強くはないのに、妙に存在感があった。
「……お母さんをいじめるな」
たった一言。
けれど静かで、芯が通っていた。
その無表情な横顔には、淡い怒りが宿っているように見えた。
オーグさんは口をへの字に曲げたまま、それ以上は何も言わなかった。
メグーちゃんが私の方を向き、そっと目を合わせる。
その瞳は澄んでいて、怒りではなく、ただ私を気遣っている色をしていた。
胸の奥がじんわり温かくなる。
私は赤い花を急いで布袋にしまい、小走りで列に戻った。
まだ心臓は早鐘のように鳴っていたが、足取りはさっきより少しだけ軽かった。
「……ありがとう、メグーちゃん」
「うん」
メグーちゃんは前を向いたまま静かに頷いた。
銀色の髪が魔力灯の淡い光を受けて揺れ、その光景だけで胸の奥がじわりと温かくなる。
この子にとって、私は本当に「お母さん」なのだ。
そう思うと、まだ少しくすぐったい。
けれど、その感覚は嫌ではなく、心のどこかをそっと満たしてくれるものだった。
一行は通路を進み続ける。
私は布袋の中の赤い花のことを考えていた。
肉厚の花びら。強すぎるほどの赤。
この湿った空気と魔力の濃い環境で育つ植物が、ただの観賞用であるはずがない。
(後で確かめよう)
そう決めると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
──そのとき、ミリアリアさんが足を止めた。
通路の先、十字路の手前。
石壁の裂け目から、三体の蛇型の魔物がぬるりと姿を現した。
全長一メートルほど。
青みがかった灰色の鱗は湿気を含んだ光を鈍く反射し、腹の白さとの境界が不自然なほどくっきりしている。
細い黄金色の目は、光を宿していなかった。
生き物の目なのに、何も映していない──その空虚さが、ぞわりと肌を撫でる。
そして喉元が、不自然にぼこりと膨らんでいた。
生理的嫌悪を誘う、脈打つような膨らみ。
(あの膨らみ……毒袋。しかも、散布型の可能性が高い)
鼻先をかすめる微かな刺激臭。
空気がわずかに変わった。
(まずい……!)
「止まれ、オーグ」
ミリアリアさんの声が鋭く響く。
オーグさんの足が一瞬止まった──が、
「あァ?こんな蛇風情が何だってんだァ」
鼻を鳴らし、そのまま踏み込んだ。
「毒です!オーグさん!」
叫んだ瞬間、一体が喉を大きく膨らませ、勢いよく頭を振った。
透明な毒液が細かい霧となって空中へ散る。
「──っ、はァん!」
オーグさんが拳を空間へ叩き込む。
轟音とともに風圧が走り、毒液の大半が吹き飛ばされた。
──だが、微細な毒の粒子は、すでに空気へ溶け込んでいた。
「……あ」
オーグさんが短く咳き込み、膝ががくりと折れた。
鬼人族の巨体が石畳にどさりと倒れ込む。
その衝撃が床を震わせ、胸の奥まで響いた。
ミリアリアさんはすでに動いていた。
剣が閃き、蛇一体の頭を飛ばす。
続けて返す刃で二体目の頸を薙ぐ。
三体目が毒霧を吐こうと喉を膨らませた瞬間、剣先がその喉元を正確に貫いた。
音もなく、乱れもなく。
衣服の端すら揺れていない。
それだけの実力が、ただの立ち回りの中に収められていた。
「オーグさん!!」
自分の声が、思ったより大きく響いた。
私は反射的に駆け寄り、オーグさんの傍らにしゃがみ込む。
唇は青白く、呼吸は浅く乱れている。
胸の上下はかすかで、今にも止まりそうだった。
(違う……今は考えるな。まず状態を見ないと)
「ミリアリアさん!」
振り返ると、ミリアリアさんは剣を音もなく収め、衣服の乱れひとつなくこちらへ歩いてきた。
「どうだ」
「気管支に毒が入ったと思います。このまま動かすのは危険です」
ミリアリアさんが一瞬だけ目を細めた。
その瞳には、焦りではなく、判断のための静かな集中が宿っていた。
「私に回復魔法はない。引き返す」
冷静で、迷いのない声。
けれど胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(間に合わない……かもしれない)
喉が乾く。
それでも、言葉を絞り出した。
「塗り薬を調合できます。効くかどうか、断言はできませんが……!」
ミリアリアさんは即座に頷いた。
その仕草は短く、しかし確かな信頼を含んでいた。
胸の奥の迷いが、少しだけ晴れる。
私はスキルを発動し、薬草を生み出す。
続けて布袋から赤い花を取り出す。
薄暗い通路の中でも、花びらの濃い赤ははっきりと浮かび上がっていた。
(この花が外敵に対抗するための成分を持っているなら……毒への拮抗作用がある可能性は高い)
確実ではない。
これは賭けだ。
でも確実な情報を待つ余裕はない。
壁の突起に引っかかっていた細い枝を折り取り、薬草と花びらを一緒に擦り潰す。
緑と赤が混ざり合い、暗い色の汁がじわりと滲み出る。
鼻をつく青臭さが広がる。
手が震えていたが、止まらなかった。
知識が勝手に浮かんでくる。
植物の性質、魔法草の特性、毒と解毒の関係──
頭の中の本棚が、必要なページだけを次々と開いていくようだった。
オーグさんの上着をはだけ、胸と背中──肺の周囲に薄く塗り広げる。
魔法草の成分は皮膚から魔力として染み込み、体の奥へ届く。
そこにこの花の力が加われば、肺に入り込んだ毒にも届くはず。
しばらく待つ。
やがて、青白かった唇に、ほんのりと血色が戻り始めた。
浅かった呼吸が、少しずつ整っていく。
「……効いてる」
安堵が息として漏れた。
膝が震えていることにようやく気づく。
当たった。
当たったけど──もし外れていたら、という考えが、じわりと遅れてやってきた。
「痛みは……?」
「…………ねェ、な」
オーグさんはゆっくりと身体を起こし、自分の胸元をまじまじと見下ろした。
まだ呼吸は荒いが、先ほどの苦しげな様子とは明らかに違う。
メグーちゃんがそっと腕に触れる。
その小さな手は、ただ確かめるように置かれただけだった。
「なんだよ」
オーグさんは照れ隠しのように呟いた。
「なんだ、農民スキルって薬草まで出るのか」
「一度採取したものは生み出せるので……それと、あの花に解毒の性質があればと思って」
「ふん。さっさと摘んどけってことだったな」
そう言って立ち上がる姿は豪快で、どこか安心させられる。
ミリアリアさんが静かに私を見つめていた。
蒼い瞳が、まっすぐにこちらを捉えている。
「……ご苦労だった」
「い、いえ。私は戦えていなくて……」
「剣を振るうことだけが戦いではない。アニーの働きは、それを再認識させるものであった。誇りに思う」
胸の奥が、一瞬熱くなった。
ありがとう、と言われた。
ただ知っていたことを使っただけなのに。
それでも、誰かの役に立てた。
私のスキルが、誰かを助けた。
次は、もっとうまくやれる。
根拠はない。でも、そう思えた。
一行は十字路へと歩を進めた。
──そのときだった。
遠くから、叫び声が聞こえた。
男の声。
だが一つではないようにも聞こえる。
通路の奥から、甲高い悲鳴が反響しながら迫ってくる。
湿った石壁がその音を増幅し、空気が一瞬だけ冷えた。
「……聞こえたか」
オーグさんが振り返り、眉をひそめる。
「行くぞ」
ミリアリアさんが短く言い、足を速めた。
金色の髪が魔力灯の光を受けてきらりと光る。
その背中には迷いがなく、ただ前へ進む意志だけがあった。
私も息を整え、遅れないように歩幅を広げた。
胸の奥に、さっきまでとは違う緊張が走る。
誰かが助けを求めている──
足が、自然と前に出ていた。




