4-8話 壊れかけの少女
第四章:ヘイネス マーダートリック:
赤い三編みの少女ハンターに、地を滑るように距離を詰めていく。此方を見失ったその瞳には、剣を構える少年の姿が映りこんでいた。
世界は停止したように静かで、その中で大翔だけが、凄まじい鋭敏さで、あらゆるものを感知してしまう…。
ゆっくりと瞬きする睫毛や、僅かに荒れた唇の端や、顔の表面から引いていく、毛細血管の流れまでが、戸惑いの感情を伝えてくるのだ… その五感を超えた、気や、魔力や、霊力といった、魂そのものを感知する能力は、本人もまだ気付いていないが、スキルを超える潜在能力の一種だった。
焦りと、恐怖か……。
硬めの赤髪にまで宿る気の流れや、脳から伝播される微弱な命令や、その深部に繋がる魂の波動までも、彼の繊細な感覚は拾い上げてしまう。
気づけば、跳ね上がる短剣と共に、切断された手首が回転しながら離れていた… 再び両手に走る肉を切る感触。腹部に二本の刀創が刻まれると、吹き出す血飛沫の一滴までが、高速撮影の映像のように詳細に見えていた…。
下手くそで悪いな…。
心臓を貫いた妖聖剣を引き抜くと、手に握られるのは、何故だか果物ナイフと見間違う、血染めの小刀になっている。
えっ…?
ぬるっとした温かい感触、倒れてくる小柄な身体… 気づけば両手までが赤黒く汚れていた。
何だよ? これ……?
その血だらけの腕で、刺した細身を柔らかく抱きとめると、ドクンっと心臓が強く打った… 滲んだ世界と、消毒薬の匂い… あ… と… う 聞き覚えのある、あの懐かしい静かな声音……。
そこで大翔は、ガバッと掛具を跳ね飛ばした。
「ハァ、ハァ、ハァ… なっ…… 夢かよ…」
背中に嫌な汗が染みている… 手が小さく震えて、喉が乾いて痛いほどだった。
嫌な夢だ……。
手に残る人を刺す感触が、拭えない泥のように生々しく残っていた。
しばらく震える掌を見つめていたが、急に吐き気がぶり返して、焦ってベッドから転げ出た。隣に並んだベッドでは、彩葉と香音が、身を寄せ合って仲良く眠っている。
乙女の二人を起こさないように、かつ結構な焦り加減で、避難小屋の隠し扉から外に出た。巨大な満月を背にして、守護者二体のシルエットが、まるで彫刻のように立ち尽くしている。
大翔は、散在する大岩の影に座り込むと、胃の内容物を派手にぶちまけてしまった。
「あ… 駄目だな…… うぅっ……」
出すものが無くなっても、なかなか吐き気は治まらない。
あぁ… 高級食材を… 悪いな…。
と、そこで彼の背に小さな手の感触が触れていた。もちろん気配には気付いていたが、それどころでは無かったのだ… 口元を拭って振り返れば、髪を月色に輝かせた、美しい少女が膝を斜めにして屈んでいた。
「カノンか… ごめん起こしちゃったか?」
彼女は聖母のような慈悲の眼差しで、首を横に静かに降る。
「気にしないで良いよ… 辛いのは分かるんだ…」
香音は片手に持った水のグラスを、少年へと手渡した。
「ごめんよヒロト… 君がそうなっているのは、僕のせいだから」
何口かに分けて、それを、ゆっくりと流し込む。その間もずっと、少女の細手は背を優しくさすり続ける…。
「背中、汚いって… 寝汗でびっちょりだからさ」
大翔は、羞恥に視線を逸したまま、Tシャツに似た綿の肌着を一気に脱いだ。筋肉質の体躯が顕になると、生暖かい南方の夜風でさえも、涼しげで心地良かった。
「君はうなされていたよ…? やっぱり必要な事だとは思うんだ… でも、少し急ぎ過ぎたようだね。僕を憎まないでくれると… 良いのだけれど」
シンとした月明かりの岩場に、澄んだ声が小さく響く。
「あのさ… 何でカノンが責任を感じているんだ? 俺が自分から斬りに出たんだぞ? むしろ、こうして気遣ってくれて、感謝してるって」
話し始めたからだろうか、気づけば吐き気も、だいぶ収まっていた。それも間違いなく彼女のおかげなのだろう… そこで二人は、戸惑いながらも、ようやくと視線を引き合わせる。
緩くウェブのある髪の合間から、伏目がちに、海色の瞳が彼を覗いている。こうして間近で見詰めれば、間違いなくの美少女エルフだ…。
「それでもだよ… PTSDにでもなったら、困るだろうし…」
「いや、それになるなら獣喰らいとの死闘で、とっくに患ってるぞ? だいたい、こんな幻想世界でPTSDとか、不似合い過ぎて逆に驚いたわ」
「そ、そうだろうか?」
「まぁ確かに多少はキツかったけど… ちょっとなりかけちゃってる…? なんてな、ははっ、これでもさ血生臭い修羅場を、何度も掻い潜ってきたんだぞ」
「ほら… やっぱり、なりかけなんじゃないか」
香音が慌てた様子で見上げてくるので、思わず笑って、彼女の頭に手を伸ばしてしまう。始めて触れる蜜色の髪は、細く繊細で滑らかに指が通って気持ちが良い。
「えぇ… と? これは何でだい…?」
自分の頭を撫ぜている、彼の優しい眼差しに、更に焦って口ごもる少女。その姿が可愛らしくて、触れる手を止められなくなってしまう。
この可憐さで、中身は男子とかマジないから…。
思わず勘違いしそうになる気持ちを、弟にするような親愛の情へと、上手にすり替える。実際の年齢的には、彼女のほうが歳上なのだが…。
「なーんか、カノンが可愛くてさ。まぁ冗談だからそんなに焦るなって」
最後にわしっと、掴むように撫ぜると、なんとなく引き寄せたように距離が近づいた。互いに照れたように、そっと視線を再び解く…。
「俺はもっと経験を積んでさ、この大陸の何処にでも、自由に行けるぐらいにならないとだから… これからもスパルタ教育でお願いします!」
「それは… やはり、その彼女に… 逢いたいからだね…?」
答えは分かりきっているはずなのに… 彼女はそう聞いてしまった。
「そうだなぁ、逢いたいな… なんかさ前世の記憶のように曖昧で、本当は全部、夢なんじゃないかって… 特に寝起きは酷く不安で、それが怖くて眠れなくなるんだ…」
こんな異世界に、身一つで放り出されて、それでも普通で居れたのは、寝起きに感じる、背に触れる安らぎのおかげだった。今それを失って、苦しい程に実感していた。
そうして寝起きの微睡みの中で、居るはずのない月歌に、無意識に手を伸ばしてしまうのだ…。
なんとなく夜の湖畔に歩き出す二人。見下ろした大湿原の水面は、鏡面となって月明かりを映している。その視界いっぱいに広がった、白銀色と漆黒のコントラストが、あまりに清楚で、この血生臭い現実には不釣り合い過ぎだった…。
「本当に、彼女が大事なのだね… 好きなのかい?」
上半身裸の大翔のすぐ後ろを、桜色のワンピース姿のエルフが、下を向いたままついてくる…。
「どうだろう… 好きという感情が曖昧すぎて、経験不足の俺には良く分からないな… ただ一緒に居ると、穏やかに安らいだよ」
誰かに愛情を感じるなんて、そんな経験も初めてだし…。
「そういう気持ちは… 僕にも分かる… 僕にも好きな娘は居たからね…」
香音は、聞き取れない呟きを、ため息のように小さく漏らした。美しい横顔が、哀しみの色に沈んで見える。
「でも… 死ねない世界なんて、まだ知らないのに… 俺のために命さえ投げ出してくれたんだ。惹かれないわけが… ないよな」
石柱群の背後で輝く、巨大な満月を静かに見上げた… よく見れば、この世界の月には、木星のような、薄い横筋が何本も浮いていた。
「それも分かる… 昼間、君が僕を斬撃から守ってくれたとき、ちょっとドキっとしたからね… あれ…? あれは何のドキなんだろうか…?」
自分で言って首を傾げる少女。
「大した事してないって… 普段だってコウタロウの盾に守られているだろ」
「そういうのでは、無いんだけど… 結構、僕は守る側の立場だったから… 守られるって、温かい気持ちになるものだなと……」
唐突に赤面する香音が、途中で言葉をうやむやにしてしまう。
「あの程度… 本当は余裕で躱せたんだろ?」
「…えっと そ、そうだった。これを返そうと思ってね」
少女は話をはぐらかすと、地味に見える獣喰らいの杖を、両手で差し出してきた。
「それ、気に入ったならカノンが使ってくれ。妖聖剣の代わり… にはならないかもだけど、君が使うのが相応しいだろ?」
「そう言ってくれるなら、使わせてもらおうかな。本当に僕に馴染むんだよこれ… それじゃ、こっちを君に預けよう」
「それって、あの忍者の娘の得物だよな?」
一本は蒼光りする、波の文様が美しい太刀で、もう一本は、直刃の脇差だった。どちらも抜き身のままで、月を鋭く反射して、妖しく輝いていた。
「君の功績だからね。売るなり使うなり、好きにすると良いよ」
彼は、一瞬だけ考えたが、素直にそれを『倉庫』に収納する。そうしなければ、香音が引きそうに無かったのだ。
二人は、翠玉色の砂利石に敷き詰められた渚を、輝く湖水に見惚れながらも歩いていく。寄せる波音以外、まったく音も無くて、互いの息遣いと、砂利を踏む音だけが規則正しく繰りかえされる。
「なんか真夏の夕べぽいのに、やけに静かなのな」
「そうだね、アレスには虫が居ないから… 昆虫似の魔物ばかりなんだ。虫の声とか忘れてしまったな…」
「まじか! そういえば蚊とか居ないもんな… どんな生態系なんだよ」
「居ないと分かると、懐かしく感じるものだよ…」
香音の手に握られていた杖が、僅かに淡く蒼色に光を纏う。まるで、何かを言い迷う心を、代弁しているように瞬いている…。
「ヒロト、君の『称号』のタブにある『ディメテル連合戦士』の後ろにポイントが増えていないかい?」
何かを覚悟するように、唐突に話を切り替える少女。
「え? あぁ称号システムか… えっと、確かに2ポイント増えてる… のかこれ?」
「そうだね、それはね討伐ポイントと言って、倒した敵ハンターの数が加算されていくんだよ… 今回はパーティーでの貢献度として、2人分が加算されたのさ…」
:称号:
ディメテル連合戦士 2(HP+12)(VIT+11)
確かにポイント2が付いて、体力と気力のステータスにも、微妙な追加補正が効いているようだ。
「一般のプレイヤーは、レベル20超えぐらいが成長の限界なんだ… だからそれ以上の強さを求めるには、武具や装身具での強化と、この討伐ポイントが重要になってくる」
「確かに、これ討伐ポイント1で、単純に体力 +1 気力 +0.5程度の補正があるんだな… ということは、討伐100でHP+100にもなるんか、そりゃ成長限界のやつにしたら大きいんだろうな」
「そうだね… その通りだよ。ねぇヒロト… 僕の討伐ポイントいくつだと思う?」
そう言って彼女は拾った小石を、ぽちゃりと水面に投げこんだ。
「え? いや… いくつぐらいだろ?」
エルフの少女の尖り耳が、悲しげにへなりと下がる…。
「僕の討伐数は786になったよ… 単純に800人に近い、いやパーティーで考えたら、多分5年間で3000人以上の敵を殺したって事になる……」
「え…… 3000人…?」
その現実に、一瞬言葉を失ってしまった。彼女が言い迷っている事を、ようやくと悟って狼狽えていた。
「本当に異常だよ… その狂気に自分が恐ろしくてたまらない。僕は本当に災厄なんだろう… もちろん最初は、今のヒロトのように後悔して吐いたりもしたんだよ… それが今では、まるで雑草を刈り取るように、いや、時には敵を倒す事を楽しんでさえいる… なんていうか… 高揚するんだ」
「カノン… 君は…」
「僕はもう、壊れかけなのだろう… いや、壊れてしまいたいのかも…? なんで僕には消失が訪れないんだろう? 僕だけが五年を過ぎても、この世界に留まっている… みんな居なくなってしまうのに…」
自分の胸を抱くように、彼女は両手を合わせて背を丸める。
「最近では、いつかは狂って、仲間でさえ手当たりしだいに殺しまくるんじゃないかと… そんな悪夢ばかりを見てるんだ…」
弱々しく座り込む華奢な背が、小刻みに震えていた… 風に遊ばれた綺麗な前髪が、数本乱れて横顔に張り付いていた。
「でも… でもねヒロトに出逢ってから、何故か気分が落ち着いてる。どうしてなのか自分でも良くわからないけれど… 君にはそういう癒やす力? があるのかも」
彼女は、そっと彼の腕に触れていた。
「ねぇ、ヒロト… ひとつ甘えて良いだろうか…?」
伏せていた瞳を、真っ直ぐに引き上げた。
「いつか僕が壊れたら… その時は、君に止めて欲しい。遠慮なく斬って良いんだ… どうせ死ねは、しないだろうしね」
その自虐は、とても切なくて悲し過ぎた… 少年はたまらなくなると、香音の細髪を、再び柔らかく撫ぜ始めてしまう。彼女も黙って、その手に身を預けたままでいた…。
「分かった… 仮にそんなときが来たら、俺が君を止めてやる。約束するよ。カノンを止められるぐらいに強くなる」
「僕のために… なんて、勿体ないけど…」
安心したように声を和らげる美少女が、その口元を幸せそうに緩ませた。
「お願いするよ。ヒロト…」
互いに触れたまま横並びする二人は、その幻想的な湿原の夜景を、長い時間見下ろしていた。
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