海賊王の寓話
その国は海に浮かんでいた。
それは何かの比喩表現ではなく、土の陸地を持たない浮島の国だった。大小様々な船舶が艫綱で結ばれ、橋を渡して繋がっている。船は巨大な錨を下ろし、しかし海に浮かんでいた。
船の中に竃や炉を搭載した工房の船があれば、土だけを積載した畑の船がある。家畜が乗せられた船まである。船の上で、古くなった道具を元に新しい道具が打たれ、野菜や穀物が身を付け、家畜が必要な数だけ増やされ、食肉としてその命で人々の命を繋いでいる。
この国は、辿り着いた者の全てを受け入れた。時に海へ逃れた難民を受け入れ、時に漂着した流刑者や亜人も受け入れ、この国は大きくなった。人も亜人も獣人も、掟と呼ばれる法の下に、全ての住民が平等であった。
国王は変わり者であり、強大な力を持つ王であると有名だ。それはそれは有名だ。何せ、陸の供物の契約者であり、海賊王であるのだから。王が使う力は、土を搭載しただけの船に作物を根付かせた程だ。
かつての海賊王の船は国の礎として、国の中央に巨大な浄化の樹を抱え聳えていた。民たちはその浄化の樹を『愛しき女神樹エリザベート』と呼んで慕った。国の中心から浄化の木の根が各船体を繋ぎ、国は浮島として広大な土地を有していた。
浮島の下には、海に住む亜人たちの国があった。サハギンとクラーケンと人魚が住まう巨大な船の形をした国家が属領として存在している。陸に生きていた鬼人族や炎狐族、エルフも、この国に辿り着いたならば受け入れた。多くの種族の人々が、掟の下で暮らしていた。
この国は、海賊王の国グラハナトゥエーカ。海賊王の掟による法国家であり、民主国家でもあった。
折り重なったマストや帆が浄化の樹の影と折り重なって山の稜線の様に日に映える。そこに日の線が引かれる様が、彼はとても好きだった。一日が終わり、新しい日が訪れる。当たり前の一日を繰り返して、この国は大きくなった。
東の稜線に引かれた線が完全に太陽として国を照らす頃、彼は店の戸に開店の札を下げた。
その店はこじんまりとした船舶が元になっていた。船尾楼には小さなキッチンスペースがあり、喫茶店の様相をしていて、船倉には魔法道具の工房が併設されている特別製だ。他にも酒場や娯楽施設を有する区画もあるのだが、グラハナトゥエーカの住民はこの喫茶店と魔法道具工房をこよなく愛していた。
喫茶店の戸に開店の文字が見えれば、余暇を過ごす若者から年寄りまで、多くの者がこの船を訪れた。
喫茶店の名物は、店主が淹れる美味しいコーヒーと、彼が語る物語だった。
海賊王の冒険の物語。残虐な殺戮と、無慈悲な掠奪。お宝を求め、海や陸を冒険する日々。海に住む魔物を仲間にする話に、海軍との熾烈な戦い。目も眩むような金銀財宝を、夢物語の様な煌びやかな豪遊。世界を超えた異世界の神の話に、供物の獣の話。海賊船長が海賊王として君臨するまでの、大冒険の物語を皆何度も何度も聞いた。
今日も喫茶店の戸を開け、その物語を聞こうと言うお客が訪れていた。
ある日、グラハナトゥエーカに一通の便りが届いた。空を往く鳥から放たれた最期の一通は、長く長く続いた終末の戦が終わった事を告げた。それを受け取った男は、空を見上げてから、広がる浮島の国を見渡した。
「そうか、もう終わりか……」
名残惜しそうに呟いて、機械油だらけのエプロンを着けた初老の男は、彼の元へと足を向けた。
喫茶店の扉を開けると、店内にお客は居らず、店主の彼が一人で自分で淹れたコーヒーを啜っていた。
「ラース、時間が来たようだ」
男の言葉に、彼は少し困ったように、おどけた様に苦笑して問い返した。
「マジか。……ああ、そうか……えぇと、それは、いつだ?メーヴォ」
海賊王の技術者メーヴォは薄い笑みを貼り付けた顔で、何処か彼を試すように口を開く。
「いつでも。早ければ、明日でもいいくらいだ」
「おっと……コイツは、困ったな。うん、困った。だってなあ、お前。まだ、こんなに……そうか。……早かないが、そうか、もう五十年は経ったか、あの開戦から」
深く刻まれた目元の笑い皺にほうれい線、筋張って頬骨が目立つようになった顔、未だ眼光鋭い海賊の顔を時折見せる老人は、この国の王であり、海賊王ラースタチカその人だ。海の王として三海種王たちに戴冠を受け、一時的に姿を消した技術者であり、陸の供物の獣となったメーヴォ=クラーガと契約を果たした供物の契約者であり、このグラハナトゥエーカを統べる海賊王。
劇的な冒険の終わりは呆気なく、後に城と呼ばれる中心地にエリザベート号を据えると、海賊王として国の中心に押し込まれ、多くの問題や民からの要望を各部署に采配して解消する仕事に落ち着いた。事務仕事がずっと続くなんて無理だ嫌だ!と根を上げた王様が、いつの頃からかお忍びで喫茶店に訪れるようになった。
最初は客として。気が付けばカウンターの中に入ってマスターからコーヒーの煎れ方を習った。俺のコーヒーは美味いだろう?なんて腕が上がって来た頃、見かねた船大工たちは難民が乗ってきた小さな船を改造して、特別な喫茶店を作った。お前だけずるい!とその大事な相棒が不機嫌になったものだから、船倉には魔法道具を作る工房が増設された。
民から愛される海賊王とその技術者が営む小さな店は、グラハナトゥエーカの国民全員が共有する、内緒の喫茶店として出来上がった訳だ。
「五十年も掛かった。やっと人類は死滅し、陸は死に絶え、海は濁り、空は堕ちた。このグラハナトゥエーカは、終焉の戦を生き延びた。そして、始まりの国になる」
「はぁー早ぇもんだなぁ……」
「どうする?僕は先に行っても良いんだが」
「待てよ。お前が行くなら、その後を追って俺も海に出る。そう言う約束だろ」
「ああ、お前は航海の準備をしなくちゃならない。だから僕もお前の支度に合わせる」
「はぁー……この間今年の作物の育成計画と家畜の増量計画成立させたばっかりだったのになぁ……航海するってぇなれば、計画全部練り直しだし、新生エリザベート号の再調整もしなくちゃならないし、乗組員も厳選してなくちゃだろ……」
やる事が山積みなんだけど?と苦い顔を向けるラースに、終わりを告げたメーヴォは鼻で笑った。
「終わりの時が来たら、キチンと準備して終わろうって、そう言う約束だったろ」
「えぇ、ええ、そうですとも。そう言う約束でございましたさ!」
座っていた高椅子に背を思いっきり預けても、足元が固定された椅子はビクともしなかった。
「明日から忙しくなるな」
「お前も事務処理と乗組員選抜の手伝いしろよ」
「勿論、我が王」
メーヴォは口元の笑い皺とほうれい線を上げてニッと笑った。
その翌日、海賊王の謁見の間には旅装束風の壮年の男が一人、頭を下げる事も無く背筋を伸ばして王の座る玉座に視線を向けていた。
「ご無沙汰しています、船長。報告です。我々が管理する海の供物の剣が、昨日、力の行使を訴え始めました」
海賊王ラースタチカを船長と呼ぶ男は、かつて海賊王の下で冒険し、成長した人魚の王子アベルだった。現在は父親より海の供物の盾を継承し、グラハナトゥエーカの下で人魚たちのコロニーを統べる王として同盟関係にあった。
「陸の供物の契約者であり、隣には供物の獣が控えているのです、既にご存知かと思いますが、報告に上がりました」
「おう。コイツがきっかり昨日知らせてくれたぜ。人々の終末の戦が終わったんだろう?空の供物が神の元に還ったそうだな」
「供物の武具の力を手放せば、グラハナトゥエーカ周辺に張り巡らせた結界は溶けてなくなる事でしょう。終末の戦を生き延びた人々がどれ程居るかはわかりません。しかし、間も無く我々は新たに旅立たねばならないようです」
ラースは玉座に背を預けてふぅーっと深く息を吐いた。何しろ昨日メーヴォの言う事を信じて城へ戻り、王の秘書官に航海の準備だと告げれば、彼は血相を変えて主要大臣を掻き集めた。夕べは遅くまで会議会議のそのまた会議だったのだ。
「既に各方面に支度をさせている。間も無く、俺たちは船を出すだろう」
海賊王の話は誰だって信じる。普段昔話を聞いては、またそんなホラ話を、と苦笑しながら、それが全て真実だと知っていて皆笑う。だから、王が終末の戦が終わり、世界の始まりに船を出すと言うのであれば、皆それを信じて即座に航海に必要なものを洗い出しに掛かった。
何しろ数十年ぶりの出航だ。海賊王の為の船は常に管理されていたが、本当にそれで漕ぎ出せるのか?食料はどれ程必要だ?その船で本当に出航出来るのか?問題は即座に提唱され、それを確認する役人が今朝からグラハナトゥエーカの各船体の上を走り回っている。
「新しい土地に、海賊王の国を広げる為の侵略だ。それまでにもし流れ着く者が居るなら、海賊なりの対応を取るまでだ」
「了解しました。我々の国からも僚船を出し、精鋭を揃えさせましょう。三海種は海賊王の良き仲間であり、同胞です。新たな世界の航海に、我々は確実に役立って見せましょう」
「期待している。ところで、三海種の王たちは皆支度を始めていると言う事で間違いないな?」
「ええ。昨日の知らせから、船長が間違いなく船を出す事は予想出来ましたので」
「なら二、三日お前が留守でも、大臣なり何なりが支度はするな?俺はこの通り、承認のサインをする作業が目白押しだ。俺の店は分かるな?工房のヤツに店番も頼んでるんでな、良かったら手伝ってやってくれないか。最近よく来るお客人が居るもんでな。店を閉じるのも惜しい」
海賊王の頼みとあらば、と答えかけて、アベルは工房の、と言う点に思い当たる節があって言葉を改めた。
「……カインがいるんですか?」
問い掛ければ、ニヤリと笑う王に、技術者が答えを返した。
「彼が一番、信頼が置けるし、コーヒーを淹れるのが美味いからな。頼んで来たんだ。僕からも、手伝いを頼むよ」
それを聞いた人魚の王アベルはにっこりと子供の様に笑って「了解しました」と快諾した。
それから海賊王は大嫌いな会議と事務処理を沢山こなした。頑張った、と王は自画自賛した。それを支えた功労者、王の秘書官はかつて王を支えた副船長の養子であり、王の行動を熟知する者の一人だった。自画自賛に余念の無い王を煽てて褒めちぎり、およそ倍の仕事をさせる口の達者さは王の技術者も舌を巻くほどだった。秘書官を筆頭に、王を支える大臣たちも良く働いた。そのおかげで、ひと月ほどで出航までの目処が立った。
船が連なった陸の上では、世界の始まりの航海に行く勇敢な乗組員を募り、多くの勇気ある若者がそれに志願した。海の中では同盟国の海種たちから、同様に海賊王の出航に同行する戦士たちが選抜されていた。
王の船は竜骨に浄化の樹を使った特別な船で、船底全体に根を張った浄化の樹のおかげで真水が採れた。船大工たちの渾身の一隻が王のために用意されていた。船の名を『クイーンエリザベス号』と呼んだ。
クイーンエリザベス号にはグラハナトゥエーカの特産でもある乾物の食料を沢山積み込んで、まずは最後まで国交のあった蒼林国に向かう事が決まっていた。進路は西へ。ひと月ほどの航海をし、蒼林との国交を新たにする事が最初の目的だ。それから、かつて終末の戦争を起こすに到った大国ゴーンブールと、その同盟国フレイスブレイユがあった森海大陸へ。
世界は半世紀の内に様変わりした事は想定しているが、それがどのように、どれ程変わったのだろうか。契約者である王も、供物の獣すらも世界が今どれ程変わってしまったのか知らない。火に焼かれ陸地は焦土と化したのか、水が押し寄せ全てを押し流し海を濁したのか。風に巻き上げられ空すらも破壊されたのか、どれ程のヒトが死んだのか、今この世界でそれを知る者は居ない。
それを知っていた空の供物の獣は神の食物として、新たな空になる為に神の御許へ還った。契約者を獣にするために契約を履行し、自らの血肉を分け与えて、空に消えていったのだ。濁った空を浄化し、やがて正しい風が流れる空に戻すために、空の供物はその姿を空へと解かした。新たに空の供物になった契約者は、今頃死に絶えた土地で、残りの供物たちが神の元に還るのを待ち焦がれているだろう。
海の供物の獣の力を宿した剣、槍、盾の武具も、死に絶えた生き物が流れ着き濁った海を、元の澄んだ海に戻すために力を解放しろと三海種の王たちに語りかけていた。海賊王の船が出航すると同時に、彼らはその力を海に還す事を決めていた。
三海種の王が持つ武具はグラハナトゥエーカの周辺に結界を張り、その存在を秘匿して来た。その航路を知る者は極限られた者に限定されていたのだ。だから、一番グラハナトゥエーカに近く、大陸の戦争と遠い位置に居た蒼林にのみ国交が許された。グラハナトゥエーカから船が出ない限り、蒼林側からの船は結界のおかげで辿り着けない。巨大な力を持つグラハナトゥエーカは多くの力で隠されて来た。
それも、間も無く終わる。海の供物の武具が失われれば周囲の結界も無くなり、運良く流れ着く者も増えるだろう。これ以上の民を養えるほど、グラハナトゥエーカも豊かでは無い。辿り着いた生き残りに対して、海賊らしい行動をしなければいけない。海賊行為をした事の無い民も増えた。新たな戦の芽が芽吹く前に、海賊王ラースタチカは新たな土地に人々を送り出さなくてはいけないのだ。
それが、始まりの国の義務だった。
出航までの日取りが決まり、グラハナトゥエーカは国中が静かに前夜の装いをしていた。
皆が新たな出航を喜び、送り出す別れの悲しみと不安に静まり返った。出航までの僅かな時間を惜しみ、しかし始まりの航海に出る光栄と誉れに喜び合い、その帰りを待つもどかしさに涙した。
海賊王を信じている一方で、やはりひと時であれ別れは寂しいものだ。人々は静かにその日を待った。
そんな人々の中で、最期の別れを前にする者がいた。
「往くのか」
「ああ。僕は出航に立ち会えない」
海賊王の喫茶店兼魔法道具工房。その船首に立って、夕日を背に立つ男が一人。深く刻んだほうれい線も笑い皺も消えて、いつか見た蝕の光をその目に宿した男は、いつかの姿で微笑みを浮かべて海賊王と向き合う。その男に、王は語りかける。
「なあメーヴォ。今ならかつてアランが選んだ道が分かる気がするぜ」
かつて、海賊の時代と海を作り上げた海賊王アランは、自らの命が尽きる間際、陸の供物との契約を破棄してヒトとして死んだ。
「供物は受け継がれる。獣から契約者へその責は受け継がれていく。供物として新たな生を生きても、相棒の獣が世界になっちまえば、その先で巡り会う事が出来なくなるだろう?お前と別れ、もう会えないのは悲しい。だから契約を破棄して、もう一度ヒトとして生を受けてお前と出会い、また冒険したいんだ」
アランはそれを選んだ。ヒトとして死に、ヒトとして巡る事を望んで死んだ。
「ニコラスの大旦那が、出航する時に『もっと早くに出会えれば良かった』って俺に向かって言ってたの、覚えてるか?」
「あぁ、僕に羨望したってな」
灰燼海賊団船長ニコラス。元陸の供物の獣であった男は、自らの海賊団の船で再び次元を超える旅に出ると出航して行った。その別れの時、ニコラスはラースにこう言った。
『海賊王ラースタチカ。お前とはもう少し早くに出会うべきだった。だが、俺がお前を探す事が出来なかった事は、既に魂の変容があったのだろう。お前の魂が俺ではなく神を選び、新たな獣を選んだのであれば、俺はそれを受け入れよう。俺の後を継いだ、新たな獣メーヴォ=クラーガ。今更その席に戻る気は無いが、少しお前が羨ましい。後は頼んだ』
その時も、今でもその意味の確信は得ていない。
「アレ、つまりどう言う意味だったか、お前分かるか?」
ニコラスが旅立ってもう四半世紀。もうその謎解きをしても彼は怒らないだろう。
「海賊王の魂は、やはり王たるべき魂であったと、そう言う事なんじゃないか?」
だから、出会った時からそれとなくバックアップをしてくれた。物事が王への道へ動くように仕向けた。ニコラスから受け取った、海賊王アランの形見、蝕の民の十三星座武器『レオテンテーゴ』を腰に下げたラースが苦笑する。
「なぁ、やっぱり俺ってアランの生まれ変わりだったのかな?」
「……さあな。真相は神のみが知る事だ」
「そっか……俺は俺で、海賊王ラースタチカ様でしかないし、俺はお前しか選ばないけどな」
緩やかに太陽は傾き、夕日がやがて水平線へ差し掛かる。寄せる波に船の大陸は常に揺らめいていた。ラースの背後には夜が迫り、時を告げつつあった。
「お前が居ない航海になるって、分かってたのにな。今更、俺は尻込みしてる」
笑い顔が歪む。お前を失いたくない。過去に何度も思った事がまた胸に満ちる。
その顔を見て、ふふ、とメーヴォはいつものように、高慢ちきな笑顔を見せる。
「でも、お前はそれをしない。この国を、世界最後の国であり、世界の初まりの国にする為、お前はキチンと王としての役割を果たすよ」
「メーヴォ」
声が掠れる。そうだ。お前は常にそうやって高慢ちきに笑って、俺を引っ張って来てくれた。長いようで短かった日々が脳裏に浮かんで、ラースは必死で笑った。深く刻まれた目元の笑い皺と、ほうれい線を歪めて、冗談のように笑っていようと努めた。
「ラース、契約を履行しよう。僕の身体の一部をお前に食物として分け与える。何処が良い?心臓か、この蝕の瞳か。好きなところを選んでくれ」
揺らがない決意を抱えたメーヴォの蝕の瞳が、夕日に負けずギラギラと輝いていて、ラースはただその覚悟を突き付けられていた。
決めたのだ、彼と共に、その契約を履行する事を。
決めていたはずだ。どの部位を、喰らうのかを。
諦めたように息を吐けば、スッと胸が空いて楽になった。
今度こそ、いつかのように笑って、ラースは言った。
「左手の小指だ。それが俺とお前を繋ぐ証だ」
その申し出に、メーヴォは少し驚き、フフッと笑ってそれを承諾した。
差し出された左手は、いつか処刑場で握った左手で、いつか幽閉塔から連れ帰った時の左手だった。
左手で強く握り返せば、力強く握り返されて、ラースは胸が満ちて行くのを感じた。離れた左の手の中にころりと小指が転がって、コレが自分に与えられ、許された物かと感慨深かった。
一息に、口を開けてそれを含んだ。歯を立てれば、砂糖菓子が崩れるようにホロリと無くなり、いつか口にした女の血の味が広かった。ごくりと飲み下して、込み上げてきたのは溜息だった。
「はぁ……美味えなぁ」
極上の甘露のように胸焼けする程に甘く、舌を焦がす様に苦かった。供物の獣の体液は、全ての生ける者の命を奪う確殺の猛毒。それを口に出来るのは新たな供物となる契約者だけ。
「此処に、陸の供物ベヒモスの契約を履行する」
毒を口にしたラースに、メーヴォが宣言した。左手の小指からヒラヒラと彼の魔力が、糸がほつれる様に流れ出し、それは魔素の言語となってラースの中へと流れ込んだ。しゅるり、と糸が引くと、ラースの顔に刻まれた深い笑い皺も、頬骨の貼った老人の顔も無くなっていた。最も海賊王が活躍した最盛期、ヴィカーリオ海賊団船長ラースの頃にその姿は戻っていた。
「それが、お前が最も望み、最も愛した自分の姿なんだな」
ぺたぺたと自分の顔を触って、納得するもののあったラースは、かつてのようにニカッと笑った。
「お前と出会った頃の俺だ。俺が最も愛した、大冒険をした海賊の姿だ」
でも、その横に命ほど大事に思った相棒の姿はもう無い。
ラースはせめて笑いたかった。それでも別れの時が訪れて、それも叶わなかった。
契約が履行され、力の継承が終わったメーヴォの姿が透けて、魔素が輝き、砕け始めていた。
その姿に、ラースは堪える事もせずに涙を流した。
「またお前と航海に出たかった。新しい土地を探して、冒険をしたかった。また商船でも襲ってみんなぶっ殺してやりたかったなぁ。王様なんて、生かす仕事は柄じゃなかったんだ。殺して、殺して、また血塗れの甲板でお前と遊びたかったよ、メーヴォ」
「馬鹿だな。これから、陸に僅かに生き残った人々を虐殺しながら、新しい国を作るための侵略を始めるって言うのに。そんな楽しい事を目の前に、過去の栄光にばっかり目を向けてるんじゃないぞ、ラース」
「ハハ……だってよ、そのお楽しみの時間を共有するお前が、もう居なくなるじゃないか」
目の前が歪んで、メーヴォの姿が見えなくなる。乱暴に顔を拭って、ラースは必死に消えそうなメーヴォの姿を目に焼き付ける。
そのメーヴォが、殊勝そうに、笑う。
「そんなに名残惜しんでくれるなら、その内理解する事だけど話しておくよ。実はな、供物の獣の魔力が世界に成った後は、この器の魂は神の元に還って、輪廻の波に戻るんだ」
「え……?供物って、世界になって、消えちまうんじゃねぇの?俺たちは、もう巡り会えなくなるんじゃ、ないのか?」
「違うよラース。僕も今、理解した。契約を履行したから理解出来た、極地に至れたから知り得た事だ。僕の中でこの世界に馴染んだ、ドラゴノアの神の魔力が世界に成る。供物として契約者と世界を謳歌し、溜め込まれた魔力、魔素だけが世界に成る。僕の、獣の魂までは世界に成らないんだ」
それは、つまり。海賊王アランすら知らずに契約を解消して、供物の獣ニコラスすらそれを知るに至らず、その席を退いてしまった。それを、今この瞬間に、二人は知り得たのだ。
神が、かつて創り上げた素晴らしい世界を望み、もう一度その世界を再現したいと創り上げた、供物と言う創造形式の真理を理解するに至った。
繰り返す為の構造を、理解した。
「僕らはまた巡り会える。また冒険の日々を送れるのさ」
だから、今はひと時の別れだ、と。メーヴォはやはり笑っている。スッと引っ込んでしまった涙が胸に詰まって、何と返して良いのか分からなくなったラースが、まぬけ顔でぽかんと口を開けていた。
「なあ、ラース。また僕らの冒険の日々を始める為に、あの処刑場の時のように、また僕を見付けて、救ってくれ」
もう一度、僕らの出会いを始めよう。
そう言った顔が、あまりにいつもの高慢ちきな、穏やかな顔で、ラースは思わず笑ってしまった。だから、またいつかの笑顔で、ラースははっきりと宣言した。
「あぁ、ああ!絶対に見つけてやる!地の果てまでも、新しい陸地を侵略し尽くしても、絶対に、お前を見つけ出すぞ、メーヴォ!お前は、俺の宝物だ!」
「あぁ、待ってるよ、我が王。僕の希望の海賊、キャプテン・ラース!」
夕日が水平線の下に沈み終わる頃、キラキラと蝕の瞳の輝きに似た光を散らせて、笑顔のままメーヴォは船首の先に砕け散って消えた。
「絶対に、お前を探し出すからな、メーヴォ」
悲しみに暮れていた老人はもう居らず、そこに残され佇むのは、新たな契約者を求める供物の獣であり、新たなお宝を探し求めるひとりの海賊だった。
出航の日、かつての威光を取り戻した青年の姿で、海賊王が技術者を伴わずひとりで民の前に現れると、皆契約が履行された事を察し、しかし大きな歓声で迎えた。
「錨を上げろ!帆を張れ!今日と言う日が、この世界が新たな歴史を刻み始める記念すべき日となる!」
王の出航に合わせ、クイーンエリザベス号の両舷と前方には、僚船となる三海種の戦士たちが乗る船が海面下に控えていた。
海賊王は伝説の十三星座の武具を主要役職の面々に持たせ、左耳には受け継いだ使い魔であり、十三星座の武具のひとりであるフェロヴリードを止まらせ、聖剣レオテンテーゴを掲げて宣言した。
「今日が、海賊新暦、元年だ!」
船体の陸地が歓声に震え、民は鼓舞に沸き立った。
「海賊王の国グラハナトゥエーカの民よ!新天地を目指せ!我らの新たな土地を探し出せ!略奪せよ!強奪せよ!我らは、海賊の民である!」
民の歓声は最高潮に達した。
海賊王は剣を腰に戻すと、頭に置いた王冠とマントを秘書官へと渡した。
「いってらっしゃいませ、我らが王。留守の間はわたくしどもにお任せ下さい」
「おう、頼んだぞ」
王冠とマントの代わりに受け取った銃のホルスターと、濃い緑色のコート、三角帽子を身につけて、ラースはクイーンエリザベス号へと乗り込んだ。
「いくぞ野朗ども!お宝を探しに出航だ!」
おわり




