序章
人が死んでいた。
生きていた時は下品で卑しく、やたら偉そうな男だった。
口を開けば、自分の自慢か他人の悪口ばかりで、それなりに長い付き合いだが侮蔑以外を感じたことはなかった。
今こうして頭から血を流して倒れている姿を見ても特に哀しみの情など沸いてもこない。この男と同じ空間にいて、あのよく回る口に煩わされないことに妙な安心感すら覚える。
ああ、静かでいいなあ、と。
しかし、現実逃避してばかりもいられない。この男を階段から突き落としたのは間違いなく、俺だ。
揉み合いの末の事故でした。殺意はありませんでした。
そんな言い訳で何とかなるだろうか。いや、日本の警察は優秀だ。
ほんの僅かな痕跡から俺の殺意を証明するだろう。きっと簡単に無罪放免とはならない。
殺人。警察。通報。逮捕。有罪。
様々な言葉が頭の中で飛び回っている。一体これからどうすればいいのか。自分はどうなるのか。
亡き師匠の別荘兼アトリエの山荘で、二階へ続く階段の下には血を流して死んでいる兄弟子。その死体の傍らには自分と…。
知らず、詰めていた息を吐きだし、俺はちらりと横にたたずむ人物を盗み見た。
俺が、足元に転がっている兄弟子と激しく言い合いを始めた時から、一部始終を目撃していた男。俺のもう一人の兄弟子、揺摩。
無精ひげと長めの前髪に隠されがちな表情は、何時もなら微笑みをたたえている。どんな時も穏やかな態度を崩さない三歳年上の彼も、今は無表情で俺と同じように兄弟子の変わり果てた姿を見下ろしている。
相変わらず、何を考えているんだか。
かつて、俺が十六歳で滝村派に入門した時には、揺摩も今は死体となった兄弟子も既に師匠のもとで画家として創作に励んでいた。
それからは、同門として互いに切磋琢磨を続けた。俺は今年で三十六歳を迎えるのだから、二人とはかれこれ二十年の付き合いだ。しかし、今だに揺摩が何を考えているのか、俺にはよくわからない。
そのよくわからない男が、無表情に死体を見下ろしたまま口を開いた。
「こんなもののために、斗摩が捕まることはない。」
「…え?」
揺摩がこちらに視線をよこす。先ほどまでの無表情ではない、穏やかな微笑をたたえて、慈愛ともいえる感情を浮かべた顔で俺を覗き込むように見つめてくる。
「お前を殺人犯にはさせないよ。」
瞬間、なぜか俺は既視感を抱いた。揺摩のこの表情を、俺はどこかで見たような気がする。
足下に同門の死体が転がっている今の状況には不釣り合いな表情を目にし、なんとなく気まずくなって、揺摩から顔をそらす。
「そうは言ってもどうするんだよ。お前も見ていただろ、俺がこの馬鹿を突き落としたんだよ。事故でした、で済むならいいけどな。日本警察は優秀だっていうし、捕まるだろ、これ。」
「捕まらないよ。」
珍しくはっきり言い切る兄弟子の口ぶりに、思わず口をつぐみ、穏やかな表情を浮かべるばかりの顔をまじまじと見つめた。
「捕まらない。そのために考えよう、一緒に。だって僕たちは、これからもずっと一緒に絵を描いていくんだから。」
……。
……ああ、そうだ。そうだったな。俺たちは、これからも一緒に絵を描いていくんだよな。
いつか。
俺が。
お前を地獄に突き落とす、その日まで。




