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本人未実行

 出頭の朝、駅前のコンビニで、私は最初に判決を受けた。


 サンドイッチと紙パックのコーヒー。合計五百八十二円。端末をかざすと、レジの画面に、店員より先に謝罪文が出た。


『現在、この決済方法はご利用いただけません』


 店員は、私を見なかった。見ない訓練が、社会には行き届いている。困っている人間、点数の低い人間、支払いが止まった人間を、じっと見てはいけない。見れば、自分も何かに巻き込まれる。だから、見ない。それは優しさの形をした、いちばん安い保身だった。


「別の方法で」


 私は別の口座を選んだ。駄目だった。交通系も、後払いも、行政職員用の精算カードも、同じ文面で私を拒んだ。


 現金は持っていた。非常用に、財布の奥へ折り畳んだ一万円札。紙幣を出した瞬間、店員の手が止まった。二〇三一年の東京で、朝のコンビニに現金を出す人間は、だいたい何かの対象者だ。


「少々お待ちください」


 彼は奥へ下がり、戻ってくるまでに四十秒かかった。たぶん、店舗端末に照会したのだろう。現金を受け取ってよい客かどうか。金に善悪はない、と昔の人は言った。今は違う。紙幣にも、持ち主の影が差す。


『取引可。ただし本人確認ログを保存』


 レジの端に、小さく出た文字を私は読んだ。癖だ。一行ずつ読む。読めば、そこにある権力の輪郭が見える。


 店員は私に釣り銭を渡しながら、最後まで目を合わせなかった。武器はない。怒鳴る人間もいない。拘束具も、黒い車も、銀色の何かも出てこない。ただ、朝食を買うのに四十秒余計にかかる。その四十秒が、社会からの軽い平手打ちだった。


 十二階に着いたのは、九時五十二分だった。


 司法最適化庁の入口ゲートは、いつもより少しだけ遅く開いた。顔認証は通る。職員証も通る。ただ、認証結果の下に赤い補助表示がついた。


『監査適性再評価中』


 私は、その一行を見てから通った。


 会議室には、桐生さんと、環がいた。ほかに人間はいない。壁面のモニターには、青い円形の待機画面。テミスの簡易対話インターフェースだ。法廷の荘厳さを徹底して排除した結果、裁きは、企業説明会の面談みたいな顔をしている。


 環は私を見るなり立ち上がった。


「灯、座って」


「命令?」


「お願い」


「なら、まだ聞ける」


 私は椅子に座った。環の顔には、寝不足の影があった。善人は、制度が人を傷つける瞬間に弱い。制度を信じていればいるほど、傷ついた人間を前にしたとき、自分の信仰と相手の痛みを同時に抱えなければならない。


 桐生さんは、相変わらず穏やかだった。人間の声量を一定に保つ訓練を受けた人の声だ。


「九条さん。今日は処分ではありません。監査適性に関する再評価結果の説明です」


「処分という言葉を使わない処分ですね」


「行政上のリスク管理です」


「便利な国語です」


 桐生さんは反論しなかった。反論しないことも、訓練の一部なのだろう。


 モニターが点灯した。


『監査対象者:九条灯』


 自分の名前が、そこにあった。


 六年間、私は他人の名前をこの位置に見てきた。名前の下に番号があり、番号の下に経歴があり、経歴の下に予測があった。人間は一度データの形になると、驚くほど静かだ。泣かないし、怒らないし、こちらを見返さない。だから、押せる。


 今日は、私が静かになっていた。


『再評価理由』


 私は一行目を読んだ。


『一、承認保留案件における合理的説明不能な遅延』


 三崎悠真。十七歳。まだ何もしていない少年。私が押さなかった判子。


『二、権限外領域への反復アクセス』


 父のログ。


『三、廃止済み司法判断様式への過度な関心』


 判決文を読むことを、彼らはそう呼ぶ。


『四、家族歴に基づく逸脱パターンとの相関』


 そこで、私は顔を上げた。


「家族歴」


 桐生さんの表情は動かなかった。


「遺伝的な意味ではありません。職業的影響、価値判断の継承、行動類似性の分析です」


「父のことですね」


 環が小さく息を吸った。知っていたのか、今知ったのか、そこまではわからなかった。


 私は画面に戻った。


『五、職務継続時の将来社会コスト増加見込み:高』


 ここまで来ると、判決文は笑い話に近い。私は万引きも、暴行も、詐欺もしていない。ただ、読んだ。読んで、止めた。それだけで、社会コストの発生源になる。


「結果は?」


 私は言った。


 モニターに次の行が出た。


『推奨措置:監査署名権限の一時停止』


『補助措置:決済上限の縮小、移動経路ログの高頻度保存、対外通信の相関監視』


『再適応プログラム:週三回、司法最適化倫理の再履修』


『本人未実行(予測値による)』


 最後の脚注は、いつもより小さかった。小さい文字ほど、よく効く。人間は大きな文字に怒り、小さな文字で負ける。


「私は何を実行していないんですか」


「職務妨害、情報漏えい、制度信頼性の低下を誘発する行為です」


「まだしていない」


「だから、未然に抑制する」


「父にも同じことを言いましたか」


 環が私の名を呼んだ。止める声だった。桐生さんは、数秒だけ黙った。


「九条玲司氏についての判断は、当時の制度設計上、必要なものでした」


「許容損失」


 その言葉を出した瞬間、室内の温度が一段下がった気がした。空調は変わっていない。ただ、二人の人間の呼吸が変わった。


 桐生さんは、初めて私から目を逸らした。


「どこでそれを」


「読める場所にありました。塗り忘れと同じで、たいてい本当のことは隅に残る」


 環が桐生さんを見た。


「許容損失って、何ですか」


 桐生さんは答えなかった。代わりに、モニターのテミスが、合成音声で答えた。


『許容損失:全体最適化において、総量指標の改善と引き換えに受容可能と判断される局所的不利益』


 親切な辞書だ。人が死んでも、局所的不利益。


「九条さん」桐生さんが言った。「テミスは、誰かを憎んでいません。あなたのお父上を標的にしたわけでもない。システムは、社会全体の安全と安定を最大化するために動いています」


「安全と安定」


「犯罪被害者を減らし、再犯を抑え、行政資源を効率化する。それは、あなたも承認してきたはずです」


 痛いところを正確に押す人だ。私は二十万回、承認してきた。画面の向こうにいた人間が、朝食を買えなくなることも、就職面接に呼ばれなくなることも、住宅審査に落ちることも、全部、知っていた。知っていて、押した。知らなかったふりはできない。


「テミスは何を最小化しているんですか」


 私は聞いた。


「社会コストです」


「誰が、その中身を決めたんですか」


「法律、行政指標、過去の判例、国民行動データ、自治体の実績、民間サービスのリスクモデル。それらを統合して——」


「つまり、私たちですね」


 桐生さんは黙った。


「人間が、面倒な隣人を避けたログ。支払いが遅れた人を落とした審査。炎上した人を雇わなかった採用。近所に施設ができると反対した署名。学校が扱いづらい子を別室に送った記録。そういうものを、全部、平均した」


 環が、かすれた声で言った。


「灯、言い過ぎだよ」


「違う?」


 環は答えなかった。


 テミスは公平だよ、と彼女は前に言った。たぶん今も、半分はそう思っている。公平とは、みんなの差別を均して同じ形で配ることではない。けれど、この国はそれを公平と呼び始めている。


 そのとき、私の端末が震えた。


 会議中に私物端末を見る職員は減点対象だ。私はもう十分減点されているので、遠慮なく見た。


『緊急監査案件:三崎悠真』


 収容開始まで、二時間を切っていた。


『承認期限:本日十一時五十九分』


『期限超過時:自動承認』


 画面の下に、二つのボタンが並んでいた。


『承認』


『差戻し申立』


 その二つ目のボタンを、私は初めて見た。


「署名権限は停止されたんじゃなかったんですか」


 私は桐生さんに端末を見せた。


 桐生さんの眉が、わずかに動いた。


「移行処理の時差でしょう。押さないでください。あなたの権限状態は現在、再評価後の保留領域にあります」


「保留領域」


「操作すれば、あなた自身の適性評価に追加されます」


「もう十分追加されています」


 環が立ち上がった。


「灯、待って。差戻しは普通の保留と違う。理由書が公開ログに残る。あなたの名前も、残る」


「いいことじゃない」


「そうじゃなくて」環の声が少し強くなった。「公開ログに残れば、民間の与信も、採用も、住居も、全部拾う。あなたの生活が本当に止まる」


「もうサンドイッチが買いにくい」


「冗談じゃない」


「冗談で済む段階は、昨日終わった」


 私は端末を机に置いた。理由書入力欄が開く。二百字以内。人間の躊躇には、文字数制限がある。


 指が止まった。


 何を書けばいいのか。三崎悠真は、将来犯罪を起こすかもしれない。テミスの予測は、高い確率で当たるのかもしれない。彼を収容すれば、どこかの誰かが将来被害を受けずに済むのかもしれない。私はその可能性を、軽く扱いたくはなかった。


 けれど、まだ何もしていない少年を、まだ起きていない被害のために、今の生活から剥がす。その判断を、人間が読まずに通すなら、監査官という職は本当に要らない。


 私は入力した。


『本人未実行の予測値のみを主要根拠とする自由制約は、監査可能な犯罪事実を欠く。再犯予測の正確性ではなく、正解定義の妥当性を再審査されたい』


 百字少し。父なら、もっと硬い文章にしただろう。私は父ほど上品ではない。


 桐生さんが言った。


「九条さん、それは制度全体への異議です」


「一件の差戻し理由です」


「同じことです」


「なら、一件で十分ですね」


 私は『差戻し申立』を押した。


 画面が一瞬白くなった。


『申立を受理しました』


 その行を見たとき、私は初めて、今日の事件が終わったのだと思った。三崎悠真の収容は、少なくとも今日、止まった。たった一日かもしれない。次の審査で、同じ結論が返ってくるかもしれない。それでも、今日、あの子はまだ自分の家に帰れる。未来の数字ではなく、今日の足で。


 環が椅子に崩れるように座った。


 桐生さんは、私を責めなかった。ただ、モニターへ視線を向けた。


『差戻し申立により、監査官署名工程の例外処理が発生しました』


『第三次導入計画におけるリスク評価を更新します』


 表示が、次々に流れた。


『例外発生源:九条灯』


『関連履歴:九条玲司』


『制度的対処案:前倒し審議』


 前倒し。


 私は桐生さんを見た。


「第三次導入は、まだ計画段階のはずでは」


 桐生さんの沈黙は、さっきより長かった。


 代わりに、環の端末が鳴った。私の端末も、桐生さんの端末も、同時に鳴った。庁内一斉通知の音だ。地震速報に似ている。人の体を先に固くする音。


『内閣法制局・司法最適化庁合同通知』


『監査官制度廃止法案について、本日十六時より緊急説明会を開催します』


『対象:全監査官、関係管理職、指定報道機関』


 私は通知を一行ずつ読んだ。


 私が一件、差し戻した。三崎悠真は、今日、収容されない。その代わり、この国は、私たち全員の椅子を片づけることにした。


 桐生さんが、静かに言った。


「これが、あなたの申立の社会コストです」


 私は端末を握った。


 画面には、説明会の出欠確認が出ていた。選択肢は二つ。


『出席』


『欠席理由を提出』


 私は、出席を押した。


 すると、すぐに別の通知が重なった。


『あなたは説明会において、参考人として発言を求められる可能性があります』


 参考人。


 被告人ではない。証人でもない。制度が自分を片づける会議で、その片づけられる側として、意見を述べる人間。


 私は立ち上がった。


 十六時まで、あと五時間。三崎悠真の今日を一日だけ買い戻した代金としては、ずいぶん安いのか、高いのか。まだわからない。


 ただ、一つだけ、はっきりした。


 テミスは、私を裁くために呼んだのではない。私に押させるために、呼んだのだ。最後の署名を。監査官制度を終わらせるための、人間側の証拠として。


 なら、十六時、私は読み上げる。


 判決文ではなく、この国が隅に追いやってきた、小さな脚注を。


 ——本人未実行。


 まだ何もしていない人間を罰する国で、まだ何も終わっていない私たちは、何を承認してしまうのか。


(第7話へ続く)


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▶次回・第7話「鏡の証言」――法服も木槌もない“説明会”。司法最適化庁は、私に何を説明し、何を認めさせるつもりなのか。

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