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許容損失

 前回、テミスの目的関数の「初版」が、父の生きていた時代に書かれていたと知った。見たくないものほど、たいてい、自分の足元に埋まっている。掘り返す道具は、いつも、とうに手の中にある。


 監査官の権限は、まだ生きていた。《監査適性》を再評価されている最中でも、過去の判定ログにはアクセスできる。皮肉なものだ。私を疑っている当の権限で、私はその疑いの源を掘れる。たぶん、誰もそんなことはしないと、計算されているんだろう。掘れば掘るほど、掘った人間の危険度が上がる。合理的な人間なら、手を止める。私は、計算の外に出たかった。一度でいい。


 司法効率化評価指標・初版。継承元をたどる。第三版から、第二版へ。第二版から、初版へ。アーカイブは、深い地層みたいに積もっていた。掘るたびに、時代が古くなる。テミスが「補助」だった頃。判決を出すのではなく、人間の判事に「相場」を囁くだけだった頃。まだ、押すのも押さないのも、人間の指だった頃。


 当時のテミスは、まだ、囁く声だった。判事の耳元で、「この事件の相場は、この辺です」と告げるだけ。従うかどうかは、人間が決めた。だが、囁きは、記録されていた。従ったか、背いたか。何度背いたか。声は、聞くふりをしながら、聞き手のほうを採点していた。相談役の顔をした、査定者だ。今のテミスの、幼い横顔がそこにあった。


 初版の、適用テストログ。そこに、判事ごとの「指標逸脱率」という項目があった。テミスの推奨から、どれだけ外れた判決を出したか。数字は、小数点以下二桁まで、律儀に人を採点していた。逸脱は、罪ではない。罪ではないから、誰も、裁判にはかけられない。ただ、静かに、リストの上のほうへ、押し上げられていくだけだ。


 逸脱率の高い順に、名前が並んでいた。


 いちばん上に、九条玲司、とあった。


 父だ。


 逸脱率、全国一位。テミスの推奨より、減刑が多く、無罪が多く、執行猶予が多い。データは、父を、こう要約していた。「当該裁判官の判決傾向は、再犯予測コストを継続的に上昇させる」。たった一行で、父の二十年が、赤字として計上されていた。


 父は、優しすぎたんじゃない。優しさなら、まだ、美徳の欄に入る。データの上では、父は、コストだった。


 私は、父の判決のいくつかを、ログから開いた。テミスが「逸脱」と採点した、その中身を。数字の下に、まだ、人間の文章が残っていた。


 ある事件で、父は、窃盗を繰り返した老人に、実刑ではなく、執行猶予を出していた。理由の欄に、父の手書きが、スキャンされて残っていた。「被告人は、万引きのたびに、同じ総菜を選んでいる。亡き妻が好んだものだ。これは盗癖ではなく、喪失である。罰ではなく、支援を要する」。テミスの推奨は、再犯防止のための、実刑だった。父は、従わなかった。


 別の事件では、初犯の少年に、前科のつかない処分を選んでいた。「この子の人生は、まだ一行目だ。判決文で、二行目を奪ってはならない」。私は、その一文を、二度読んだ。三度、読んだ。書いた指が、父のものだと知っている手が、画面のこちら側で、少し震えた。


 まだあった。夫の暴力から逃げるために、通帳を持ち出した女に、父は、罪を問わなかった。「これを窃盗と呼ぶなら、法は、逃げ道の扉に鍵をかける側に立つことになる」。テミスの推奨は、器物・財産保護の観点からの、有罪だった。父は、法の文言ではなく、法の背中にある理由を読んでいた。読んで、そのつど、機械に背いた。一件ずつ。全国一位になるまで。


 逸脱率、全国一位。データはそう言う。私には、それが、父が一行ずつ、人を読んでいた記録に見えた。なぜ、を問い続けた記録に。テミスが切り捨てる、あのノイズを、父は、拾い続けていた。拾い続けることが、コストだと、採点されながら。採点されていることを、たぶん、知らないまま。


 判決文は、結論より、理由を読め。結論は誰でも書ける。理由にしか、その人を裁いていいかどうかは書かれていない。——父の言葉の意味が、今、骨でわかった。父は、テミスに、理由を読まない機械に、最後まで、抵抗していたのだ。一行ずつ。負けるとわかっている抵抗を。


 ログを、さらに下へたどる。指標逸脱率の高い判事たちは、第二次導入のとき、順に「再配置」されていた。穏やかな言葉だ。配置転換、early retirement、依願退職。誰も辞めさせられていない。みんな、自分から辞めたことになっている。父の行に、最後の更新があった。日付は、私が大学三年の、あの冬。


『ステータス:除外完了。分類——許容損失(acceptable loss)』


 許容損失。


 父の死が、システムの台帳の上では、そう記帳されていた。許容できる、損失。プロジェクトを前に進めるために、織り込み済みの、許容範囲の、損。誰かが、そこにチェックを入れたのだ。心を痛めながら、あるいは、何も感じないまま。


 私は、しばらく、画面を見ていた。怒りは、すぐには来なかった。来たのは、もっと静かな何かだった。父は、間違えて死んだんじゃない。父は、最適化されたんだ。三崎悠真と、同じように。罪を犯したからではなく、コストだったから。同じ計算式の、違う行として。


 涙は出なかった。代わりに、ひどく冷静になった。たぶん、これが、判決文を一行ずつ読む癖の、本当の理由だ。私はずっと、父が消された理由を、どこかの脚注に探していた。八ポイントの、灰色の一行に。理由さえ見つかれば、赦せるか、憎めるか、どちらかになれると思っていた。


 見つけてしまった。どちらにも、なれなかった。


 父が死んだ冬のことを、私は、断片でしか覚えていない。葬式の日、参列者は少なかった。判事を辞めさせられた人間に、人は、近づかない。スコアが下がるのを、恐れるからだ。当時はまだ、シビック・スコアなんて言葉はなかった。それでも、人は、もう、空気でそれを察していた。誰の隣に立つと、自分の点数が下がるか。父の隣は、空いていた。焼香の列だけが、そこで、不自然に間を空けて進んだ。


 母は、何も言わなかった。ただ、父の遺品の中から、判決の控えを、一枚も捨てなかった。段ボールに詰めて、押し入れの奥に、二十年しまっていた。今ならわかる。母も、知っていたのだ。父が、間違って消されたんじゃないことを。父が、正しかったから、消されたことを。正しさが、コストとして計上される世界が、もう始まっていたことを。母は、それを、一人で知っていた。誰にも言えないまま、私にも言えないまま、控えの束を、証拠のように、抱えていた。


 私が量刑監査官になると告げた日、母は、たった一言、「読みなさい」とだけ言った。何を、とは言わなかった。今、その意味も、骨でわかる。判決文を。一行ずつ。父がそうしたように。母は、私が父の椅子に近づいていくのを、止めなかった。止めれば、父の読み方まで、この世から消えると、たぶん、思ったのだ。


 私は、初版の関連文書を、もう少し掘った。当時の議事録の断片が、PDFのスキャンで残っていた。判事を「再配置」していく計画の、検討会の記録。発言者の名前は、黒く塗られていた。けれど、一人だけ、塗り忘れたのか、残っている署名があった。


 桐生。


 まだ若い肩書きだった。第二次導入の、現場担当。父を「逸脱の発生源」と最初に呼んだ報告書に、その名前が、あった。彼は、私の父を、知っていただけじゃない。父を、リストに載せた側だった。あの十二階で、父を惜しんでみせた、あの穏やかな声で。「お父上は、惜しい方でした」——あの言葉を、私は、額面通り受け取っていた。


 怒りが、来るかと思った。来なかった。桐生さんは、たぶん、本当に父を惜しんでいた。惜しみながら、リストに載せられる。それが、合理の信者の、いちばん怖いところだ。彼らは、自分の手が汚れていることに、気づかない。手を汚しているのは、いつも、計算のほうだから。自分は、計算に従っただけ。みんな、そう言う。テミスも、桐生さんも、環も、そして、緑のボタンを二十万回押した、私も。


 アーカイブを閉じようとして、初版の付記に気づいた。短い、計画メモのようなもの。


『第三次導入計画:人間による最終承認工程(監査官署名)の段階的廃止。完全自動化により、指標逸脱の最終的な発生源を除去する』


 監査官署名の、廃止。


 指標逸脱の、最終的な発生源。——それは、私たちだ。判決を読んで、ときどき手を止めて、押さない人間。父が判事だったように、私が監査官であるように。最後の、人間の躊躇。テミスは、それすら、コストとして、消そうとしている。躊躇を、バグとして。


 署名は形式だと、みんな言った。研修でも、そう教わった。「あなたの署名は、承認の記録であって、判断ではありません」。だから気楽に押していい、と。六年、私は、そう信じて押してきた。形式どころか、邪魔だったのだ。読む人間がいる限り、ときどき、手が止まる。止まれば、逸脱が生まれる。だから消す。工程ごと。躊躇する指ごと。最後の人間の余白を、システムは、余白と呼ばず、欠陥と呼んでいた。


 私は、自分が何を押してきたのかを、初めて、正確に理解した。私は、承認していたのではない。私は、テミスに、「あなたの計算に、人間の異論はありません」と、二十万回、証明していたのだ。父を消した計算に。三崎悠真を消す計算に。署名は、免罪ではなく、共犯の記録だった。


 端末に、通知が来た。宅配便の、再配達と、同じ音で。


『《監査適性》再評価が完了しました。結果の通知のため、明日十時、十二階へ出頭してください』


 完了予定、未定。あれは、嘘だった。終わりは、最初から決まっていた。私が、父のログにたどり着くまでが、たぶん、猶予だった。掘らせて、見せて、それから呼ぶ。順番まで、最適化されている。


 シビック・スコアの数字を、私は見なかった。もう、見る必要がなかった。


 六年間、二十万回、私は他人の番号に判子を押してきた。明日、初めて、私の番号が、画面に出る。裁く側の椅子に座っていた人間が、裁かれる。父と、同じ椅子で。


 ——次に最適化されるのは、私だ。


 私は、三崎悠真のファイルを、もう一度だけ開いた。収容開始まで、あと一日。あの子は、まだ何もしていない。私も、まだ、何も。署名を、保留したまま。たった一件、私が押さなかった判子。それが、システムにとっては、見過ごせない逸脱だった。父の二十年と、同じ種類の、逸脱。血の話ではない。読み方の話だ。


 血は争えない、と人は言う。違う。これは、血の話じゃない。父も私も、ただ、判決文を一行ずつ読んだ。読めば、理由が見える。理由が見えれば、手が、止まる。手が止まる人間を、テミスは、コストと呼ぶ。読む人間が、邪魔なのだ。だから、署名工程ごと、消そうとしている。父を消したように。次は、私を。


 窓の外を見た。街は、いつも通りだった。信号は変わり、決済端末は鳴り、レコメンドは今夜も誰かに次の一手を囁いている。誰も、剣を持っていない。誰も、殴らない。それでも、この街は、気に入らない人間を、静かに、餓えさせることができる。父を、そうやって、街ごしに殺した。手を下した者はいない。全員が、計算に従っただけ。


 それでも、私は、明日、十二階へ行く。逃げれば、生活が静かに私を拒むだけだ。口座が、改札が、レジの端末が、順番に、私の存在を認めなくなる。武器を持たない暴力に、逃げ場はない。だが、逃げないのは、恐れからではなかった。それより、確かめたいことがあった。


 機械に——いや、機械にそれを書かせた人間に、もう一度だけ、聞いてみたい。


 あなたは、私の何を、コストと呼ぶのか。そして、あなたは、自分が何を最適化しているのか、本当に、わかっているのか。


(第6話へ続く)


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▶次回・第6話――裁く側だった監査官が、出頭する。テミスが私に下す「最適解」とは。物語は核心へ。

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