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赤いドアの内側

 赤い表示は、思ったよりも静かだった。


『退館手続き未完了』


 一行目。


『緊急裁定』


 二行目。


『対象:九条灯』


 三行目。


『予防的信用制限を開始しました』


 封印袋の中のスマホは、私のものなのに私の手の届かない場所で震えていた。人は端末を奪われると、自由を失うのではない。自由がどれだけ端末に預けられていたかを、ようやく思い出す。


 受付の女性は、訓練された声で言った。


「九条さん、二階確認室へお戻りください」


「その前に、裁定理由を全文表示してください」


「端末は封印中です」


「では、あなたの端末で」


「職員端末の画面共有はできません」


 できないことが多い国は、便利な国だ。できることは、たいてい自動で実行される。


 私はカウンターの上の白い封筒を指で押さえた。


「これは量刑監査官として証拠保全します。受付票の裏に宣言し、署名しました」


「その権限確認のために、確認室へ」


「その確認が終わるまで、封筒は誰が保管しますか」


 女性は一瞬だけ黙った。


 武器を持たない暴力は、こういう沈黙で動く。誰も殴らない。誰も怒鳴らない。ただ、規程にない質問をされた職員が、規程に戻るまでの数秒を待つ。その数秒のあいだに、人間はだいたい諦める。


 私は諦めなかった。珍しいこともある。


「不服申立の受付票をください」


「現在の裁定は予防的信用制限です。行政不服審査は後日オンラインで――」


「端末を封印されています」


「解除後に」


「解除条件は確認室への移動ですね。確認室ではこの資料の管理主体が不明になる。だから紙で申立てます」


 女性の視線が、私の顔から封筒へ、封筒から赤いドアへ移った。彼女の顔には困惑も敵意もなかった。あるのは、画面の外に出た業務への軽い疲労だけだ。


「少々お待ちください」


 彼女は内線を取った。声は低く、聞き取れない。ただ、二度だけ私の名前が出た。


 待合室の人々は、私を見ない努力をしていた。高齢の男性は番号札を握り直し、学生らしい女の子はイヤホンの音量を上げ、スーツの男は自分の靴先を研究している。全員が正しい。関わらないことは、この国で最も低コストな善行だ。


 五分後、遠野誠が階段から降りてきた。


「九条さん」


「通報は早いですね」


「通報ではありません。確認です」


「言い換えの才能があります」


 遠野はカウンターの封筒を見た。


「その状態だと、持ち出しではありません」


「はい。だから緊急裁定の理由は、まだ未来形です」


「テミスは蓋然性を見ています」


「知っています。私はその蓋然性を一行ずつ読む仕事をしてきました」


 遠野は受付に向かって言った。


「紙の申立票を出してください。現行規程上、端末利用不能時の代替手続があります」


 女性は明らかに安堵した顔で奥へ消えた。規程は人を縛るが、規程に救われる人間もいる。自由より先に、条文を探す。法治国家の老後である。


 差し出された申立票は、A4一枚だった。


『緊急裁定に対する即時確認申立』


 私は題名を読んだ。


『申立人氏名』


 九条灯。


『裁定番号』


 スマホが封印されているため不明。


『申立趣旨』


 私はペンを止めた。趣旨。人間の欲望を行政文書に圧縮すると、だいたい四角い欄が足りなくなる。


 私は書いた。


『対象資料は、量刑監査官の職務上、判決適正性を確認するために必要な資料である。無断持出しおよび証拠改変の事実はない。よって予防的信用制限の根拠事実を争い、同資料の保全記録化を求める』


 最後に、もう一行足した。


『なお、本申立自体を監査ログとして保存すること』


 遠野がその一文を見た。


「うまいですね」


「褒められるほどのことではありません。穴が開いていたので、落ちないように縁を掴んだだけです」


「縁を掴む人は少ない」


「みんな手がふさがっていますから。端末で」


 受付の女性が票をスキャンした。紙が機械に吸い込まれ、細い音を立てて戻ってくる。その音は、奇妙に懐かしかった。父の書斎にあった古いプリンターも、似た音を出した。紙を読む父の横顔を、私はあまり思い出したくない。思い出すと、なぜ一行ずつ読むのかまで思い出してしまう。


 小学生のころ、父は判決文を音読させた。


 意味が分からなくてもいい、と言った。


 一行目に何が書かれ、二行目で何が消え、三行目で誰の人生が畳まれているか。速く読むな。速く読むと、文章が人間を追い越す。


 その父は、文章に追い越されたのだろうか。


 受付の端末が短く鳴った。


 女性が画面を見て、表情を整えた。


「即時確認の結果が出ました」


「読んでください」


「口頭で、ですか」


「端末が封印中ですので」


 彼女は一度、遠野を見た。遠野は頷いた。


 女性は淡々と読み上げた。


「裁定番号、EJ三一〇七〇一――緊急裁定、対象、九条灯。予防的信用制限について、申立により事実関係を再評価。無断持出し蓋然性、七二・一パーセントから二八・四パーセントへ低下。証拠改変蓋然性、六四・三パーセントから一九・九パーセントへ低下」


 数字は人間より素直だ。前提を変えれば、すぐ態度を変える。謝罪はしない。


「結論」


 私は促した。


「退館制限を解除。ただし、対象者の信用状態は暫定観察へ移行。期間、七十二時間。対象資料はセンター保全庫に移管し、監査ログに登録」


 赤いドアの表示が消えた。


 代わりに、緑の文字が出た。


『退館可能』


 人間の人生は、二色で足りるらしい。


 私は封筒から手を離した。父の反対意見書は、私の鞄の中には入らない。だが、センターの保全庫に入り、監査ログに残る。持ち出せなかったことが、残す理由になった。


 小さな勝利、と呼ぶには貧しい。


 負け方を少し選べただけだ。


「九条さん」


 遠野が言った。


「ここから先、あなたの決済は不安定になります。交通系、医療予約、本人確認が一部止まる可能性があります」


「脅しですか」


「説明です」


「説明は、たいてい脅しより長持ちしますね」


 受付の女性が封印袋を差し出した。スマホは返されたが、自由が返されたわけではない。袋から取り出すと、画面に通知が溜まっていた。


『信用状態:暫定観察』

『決済上限を一時変更しました』

『勤務先へ適正確認通知を送信しました』

『公共交通利用に本人確認が必要です』


 そして、最後に一通。


『量刑監査局:至急出勤してください』


 職場というものは、こういう時だけ頼もしい。燃えている建物から「早く戻れ」と通知してくる。


 センターを出ると、七月の空気が重かった。東京の夏は、毎年少しずつ罰に近づいている。私は駅まで歩いた。交通系決済は改札で一度弾かれた。背後の列が詰まり、誰かが舌打ちした。私は駅員窓口で本人確認を受け、顔写真と生年月日と勤務先を確認され、二分後に通された。


 二分。


 たった二分の遅延で、人は社会から少しはみ出す。はみ出した人間を見る周囲の目は、正義ではない。ただの不便への苛立ちだ。テミスが学ぶには十分な感情だった。


 量刑監査局に着くと、ゲートは開いた。開いたことに驚く程度には、私はもう飼い慣らされている。


 自席の端末には、環からのメッセージが十七件入っていた。


『灯、今どこ』

『局内に適正確認が来てる』

『何をしたの』

『返事して』


 最後の一件だけ、少し文体が違った。


『お願い。今はテミスに逆らわないで』


 私は画面を閉じた。


 逆らう、という言葉は正確ではない。鏡に向かって拳を上げても、殴る相手は自分だ。だが、鏡を壁だと言い張る人間が多すぎる。


 管理官室に呼ばれたのは、到着から三分後だった。


 管理官の佐伯は、机の上に紙を一枚置いていた。珍しい。紙は、責任の所在を重く見せたい時だけ使われる。


「九条監査官」


「はい」


「あなたに対する暫定観察は把握しています」


「迅速ですね」


「組織の信用に関わります」


「個人の信用より大事ですから」


 佐伯は反応しなかった。正しい管理職は、皮肉を人事評価にだけ反映する。


「本日付で、あなたを通常監査から外します」


「処分ですか」


「保全措置です」


「便利な語彙です」


「ただし」


 佐伯は紙をこちらへ滑らせた。


「一件だけ、あなたに回します。自動承認期限が今夜二十三時五十九分。差戻し履歴があるため、同一監査官による再確認が必要です」


 私は紙を見た。


『事件番号:PR二〇三一―〇七―一九八』

『分類:将来危害予測に基づく保護命令』

『対象:三枝直人、四十六歳』


 名前に覚えはなかった。


 次の行を読んだ。


『推定危害対象:九条灯』


 部屋の空調音が、急に大きく聞こえた。


 私はさらに一行ずつ読んだ。


『予測行為:監査官に対する接触、資料開示要求、制度信用低下を目的とする公開行動』


 接触。資料開示要求。公開行動。


 それは犯罪の匂いがしない。どちらかといえば、私が今日したことに似ていた。


 佐伯が言った。


「三枝直人は、九条玲司元判事の当時の補佐官です」


 父の名前が、職場の空気を一段冷やした。


「なぜ私に」


「あなたが危害対象だからです」


「危害とは何ですか」


「テミスの評価では、あなたの信用状態をさらに悪化させる接触とされています」


「つまり、私に何かを話そうとしている」


 佐伯は答えなかった。


 答えないことは、時々、最も正確な肯定になる。


 私は紙の下部を見た。


『推奨措置:三枝直人への接近禁止、通信制限、決済一部凍結』

『監査官承認欄:九条灯』


 署名欄があった。


 父の反対意見書をログに残した日に、父の補佐官を黙らせる判決が、私の机に届く。偶然なら、テミスはずいぶん文芸的だ。必然なら、もっと質が悪い。


 私はペンを取らなかった。


「佐伯管理官」


「何です」


「この案件、本人未実行ですか」


 佐伯の視線が、紙の脚注へ落ちた。


 私はそこを読んだ。


『注:本人未実行(予測値による)』


 懐かしい脚注だった。最初に見た時より、小さくは見えなかった。


 端末が震えた。今度は封印袋の中ではない。私の手元で、私の信用を削りながら震えている。


『監査官制度の見直しに関する臨時法案』

『本日二十一時、内閣委員会で採決予定』

『可決時、AI裁定の人間承認手続は段階的廃止』


 ここを消せば、誰も止められない。


 父の字が、紙の白さの中から浮かんだ。


 佐伯が静かに言った。


「期限までに承認してください。自動承認になれば、あなたの関与記録は残ります」


「差戻した場合は」


「あなたの暫定観察に影響します」


「不承認の場合は」


「制度上、選択肢はありません」


 そうだ。選択肢はいつも、見えているだけましだ。


 私は紙を持って立ち上がった。


「どこへ」


「三枝直人に会います」


「接触は推奨されていません」


「推奨は命令ではありません」


「あなたの信用制限は強化されます」


「では、一行増えるだけです」


 私は管理官室を出た。


 廊下で環が待っていた。目が赤かった。泣いたのか、寝不足か、画面を見すぎたのか。この国では、どれも同じような顔になる。


「灯、やめて」


「どれを」


「全部」


 ずいぶん広い命令だった。


 私は答えず、非常階段の扉を開けた。エレベーターは信用状態で止まることがある。階段は、まだ人間の足を審査しない。


 一階に降りる途中、スマホに新しい通知が来た。


『三枝直人より面会申請』

『場所:東京地方裁判所旧庁舎前』

『時刻:二十時三十分』


 採決の三十分前。


 その下に、短いメッセージが添えられていた。


『玲司さんは死んでいない』


 私は階段の踊り場で立ち止まり、その一行を三度読んだ。


 それから、承認待ちの判決文を鞄に入れた。


(第11話へ続く)


────────────────

▶次回・第11話「鏡」――奪われた私が最後に呼び出されたのは、旧裁判所。そこで向き合うのは、システムか、それとも。

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