4翼目 龍の夢
眼を空ける。抜け落ちる色すら既になく、あるのは灰色、星々を隠す鈍色の灰ばかり。
草の緑が最初に消えて、獣の赤が身を隠し、巌の青は横臥して、後には何にも残らない。
星は死ぬ、何れ死ぬ。もう誰も生きてはいない。其の筈だ、そうでなくては。龍は再び看取るのだ、世界の終わりを、己の愛を。嘗ての居所を踏み荒らし、部屋であった場所を開く。腐敗臭すら既になく、有るのは一つ、彼ばかり。
「――――――――」
意味のない呼吸音ばかり震わせて、硬化した指でそれに触れる。彼は吾を誇ってくれるだろうか、良くやったと労ってくれるだろうか……まだ、愛してくれるだろうか。
骨だけ残った愛しい者の残骸をそっと胸に抱き、爪先でそっと線を描き、ぼんやりと彼の肉を幻視する。
「――――――――」
愛していると、その言葉すら形にできない化身体を、半ば石となり、既に咲き始めた己の身体を、抱き締め返してくれるだろうか。
ああ、怖い、怖いなぁ……あの石竜もそうだったのだろうか、前任の人類守護、彼の竜もこんなに、こんなにも恐ろしかったのだろうか……。
けれど――けれど、これが吾の役目であるのだから、仕方ない、なぁ……。
砕けた羽根で亡骸を抱き締めたまま彼女は芽吹く。緑が産まれ、赤が顔を出し、青は光を取り戻す。幸福の残骸だけが、彼女に残された最期。
彼女の見た夢は、それでおしまい。
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夜半の天球を隠す暗雲の帳が開くと、月輪と星光が揚々と差し込み、彼女を讚えるかのように淡い輝きを託す。半ばで砕け、寸詰まりになってしまった両角にて燦めきを授かる少女は、静謐な神秘の一雫であった。
衰えて尚耀きを持つもの、無謬でないからこそ、その翼の辿った路に誰もが敬意を胸に抱く。その姿を見れば誰もが理解するだろう――彼女はきっと、人ではなかった。
寝間着のまま椅子に掛ける少女を、伸ばすがままの銀灰色の髪がヴェールのように覆い隠し、鈍色の翼肢がそれを中頃で掻き分けている。
夜の中に彼女の瞳が、淡い黄色の掛かった赤の眼が篝火の様に光っている。深山の玲瓏たる大気は家中に潜り込んでは、間近に迫る雪の気配を拡げて廻る。袖口から覗く彼女の鱗は、光を厭うように奥へと隠されている。
「ああ、起してしまったか、済まないねぇ。どうにも調子が……良くないようでね」
韜晦の滲んだ平坦さで語る彼女の、その瞳は冷えていたが、口元は僅かに緩んでいた。困惑した様な、何かを堪えるような表情の残滓を見せるそれは逸れた子供が親を見つけたような、安堵の気配なのだろう。
皆、生に惑い、苦しむ。愛あればこそ別離の苦しみは心を凍えさせるが、荒れ野に一人佇むばかりでは一層凍えてしまう。人の形を持ってしまえば、何者もその寂寞から逃れる事はできない。世界を包む彼女のそれは如何程だろうか、星抱く龍の胸中を、誰が分かってやれるだろうか。
男が起き上がろうとすると、彼女はそれを無言で制し、音も無く椅子から降り立つと、そのまま倒れこむように寝台へと身を滑り込ませた。冷えた手を背に回されて少しばかり驚いた顔をする男を見やりながらも、彼女はそっと目尻を下げる。
「もう大丈夫だよ……まだ少し……今少し、貴方と共にある刻くらいは持たせてみせようさ。大した無理じゃあないとも、吾がそう望むのだから、さぁ」
己に言い聞かせるように呟く彼女をそっと抱き寄せながら、男は其の背を撫でるでもなく指先にて触れ、華奢な肢体が傷まぬように静かに繋ぎ止める。
「傷んだのですか?」
なぁに、痛みなぞ存在せんよ、と小さく呟きながら、肩口を軽く撫で付ける。
「吾は当代の世界龍だもの、人の滅びを、世界の滅びを回避するための最終安全装置。それは……それだけは何に代えても果たすべき存在理由だからねぇ。ええ、ええ、先代に、そして吾の鋼鉄の翼に誓って」
痛くない、大丈夫だと、彼女は何度も繰り返した。
「大事ないよ、大事ない……鱗がまた一つ脱落してしまっただけだからねぇ……、そのうちつるりとした滑らかな肌になってしまうかもしれないねぇ……」
あの体躯では、流石に貴方に抱いては貰えないだろうけれどねぇ、と哀の混じった顔で彼女が笑う。
守護の龍が死ぬことはない。己の持ち得る総ての権能と献身に掛けて、星を看取るまで死ぬことはない。彼等はそうして生きてきた、幾度と無く繰り返される万象流転の渦中で尚その役割を崩す事はない。
総てを掛けて人を、星の守役として……だからこそ、彼女に残された時間は少ない。総てを使い切り……化身体である彼女のまた、そうして使い切られる某かであることに違いはない。
「なに、これも定めさね、化身体たるこの身は時に人界に交わり、貴方達にとっての最良を視る為に作られた仮初めの生命。本体である“鋼鉄”の意を汲み、より良い未来へと導く為の端末の一つだもの……吾の役割は始めから決まっていて、それはきっと……それでも、幸福な事であるとも」
運命とは恐ろしいものではないんだよ、と、子供をあやすように彼女は云う。
「終末の予感はある。世界の破局がすぐそこまで来ている。けれども……不思議なものだねぇ、思っていたよりも、怖いものではないようなんだ。ああ、怖くないとも」
何方ともなく指を絡める。彼女の華奢な指先が甘咬みのように男の掌を二度、三度と掻き、其処にあることを確かめるようにしっかと絡め取る。
「吾は怖くなんてないさ」
しゅる、しゅるり、と女が鳴く。撓垂れ掛かる重さも心地良く、鼓動の音は深く……緩やかに響いては共に繰り返す。次第にそれらが混ざり合い、彼等はそっと眼を閉じる。