上方見物
家に戻ると、家庭教師の平手先生が、あちこちに頭を下げていた。毎度のこととは言え、俺が野駈けに行くと言ったっきり、朝帰りどころか3日ばかり家を空けたからだろう。葉っぱを口にくわえて、鼻歌まじりに上機嫌で帰ってきた俺を見つけると、平手先生は顔をくしゃくしゃにして犬ころのように走り寄ってきた。その平手先生に向かって、「ただいま帰りました」とも「心配をかけてすまなかった」とも言わずに、「次は上方見物に行く」と言い放った。平手先生の顔はくしゃくしゃから、あんぐり、そしてげんなりに変わった。くわえて目を白黒させ、顔色を赤くしたり青くしたりした。器用なものだ。せめて供をつけさせてくれと泣きそうになってせがむので、その準備ができるまで待ってやることにした。もちろん、おかんには内緒という条件だ。平手先生は、俺に家出されるのを恐れて、俺の言うことをたいてい聞き届けてくれる。平手先生にしてみれば、またあちこちに頭を下げるのか、ということになろうが、俺としてはそういう平手先生がありがたい。準備が整うまで、手習いとご飯の時間以外は、相変わらず外で過ごした。ここしばらくの間に、萩の花が咲いて、昼間から虫の声が聞こえるようになった。
数日後、平手先生は大勢の供と荷物を準備していた。よくもまあ、おかんにばれずにこれだけ集めたものだ。見れば、裃だの足袋だの衣装はもちろん、手習いの道具、先々の贈り物まで揃えてある。要らんところまでかいがいしく気を使ってくれる。俺はそういう平手先生が好きだ。しかしいくら何でもこの荷物は多すぎだ。一番おとなしそうな供の者をひとり選び、最低限の荷物を選んで荷俵につめ、それに筵を1枚持って出発した。庄内川を渡って人里に入ると「サンスケだっ」と何度か叫んだ。しばらくすると、新九郎さんゆかりの仲間が集まってきた。あっというまに供の者をくるくるとふんじばってしまった。帰りに引き取るで、悪く思わんでちょ、と供の者に別れを告げ、新九郎さんの仲間といっしょに美濃へ入った。
このあいだの新九郎さんは、野武士の親分みたいな恰好してた癖に、今度はどこから見ても商人という恰好になっている。見事なものだ。京都に美濃紙を売りに行くのだと言う。美濃紙のほかにも、包丁や硯など細々とした美濃の特産品を取り揃えて、荷駄隊を組織していた。ついてくるか? と聞かれて、ちょうど上方に行きたいと思って新九郎さんのところへきたところだからお誂えだ、と答えた。商売に行くのなら、俺も伊勢湾の車エビ持ってくりゃよかったと言ったら、新九郎さんに腐ってまうわ、と笑われた。売り物は、かさばらず軽くて高価なものがいいのだという。しかも保存できて、使ったらすぐ捨てられるならなおいいと言う。捨てられるのがなぜいいのかと聞くと、また買ってもらえると言う。なるほどたしかに美濃紙は商品にするのにぴったりだった。
美濃の加納の街を出て、木曽川を再び渡り、揖斐川を越え、右手に伊吹山を見ながら、坂道を登った。道端のリンドウの花の濃い青が鮮やかだった。峠にさしかかると下界に湖が広がった。初めて見た琵琶湖はとてつもなく大きかった。長浜という港に出た。湿り気のある風を感じた。空はどんよりと曇っていた。眼前に広がる琵琶湖があまりに大きいので、海かと思ってなめてみた。塩辛くなかった。確かに海ではなく湖だった。淡い海が訛って、近江という地名になったと言う。
長浜から荷駄を船に乗せて琵琶湖を横断し、白鬚神社に立ち寄った。その格式ある佇まいは近江最古の神社にふさわしい。拝殿に参拝をすませて後ろを振り返った。沖島を背景に琵琶湖に浮かぶ朱塗りの大鳥居からは、古くから伝わる大きな権力が伝わってきた。なぜ神社や寺院に参拝せねばならないのだろう。いったい神仏とは何か?
「神仏は怖いんか?」
と新九郎さんに聞くと
「神仏は怖くない。怖いのは生きている人の方だがや」
と苦笑した。
そう言えば、新九郎さんは神社や寺院につくたびに誰かにお金や進物を差し出している。聞けば「座」と呼ばれる同業者組合が神社や寺院を担いで、ならず者を雇ってみかじめ料をせしめているのだと言う。何とかせねばと新九郎さんがまゆをひそめた。こういう無駄な費用がかさむと、商品の末端価格が上がり、売り上げが下がって、作り手の儲けが減る。好きな場所で好きなものを売ることもできないので、異業種の交流がなくなり、新商品も生まれづらい。結局のところ長く続いたややこしい人づきあいが、無駄に足を引っ張り合う仕組みを作り上げている。
「やめりゃーいいがね」
と、俺が言うと、新九郎さんは、
「もちろん、そのつもりだ」
と答えた。俺がそう言ったのが嬉しかったと見えて、にかっと笑った。すぐに真顔に戻って遠い眼差しで、
「もっと強い力が要る」
と呟いた。神仏より強い力か?と聞こうとしたが、新九郎さんの険しい表情に気圧されて聞かずじまいになってしまった。
雄琴と言う港についた。派手な衣装を身にまとい濃い化粧をしたお姉さんたちが、しきりに声をかけてきた。みると柄の悪い男たちが後ろでたむろしている。僧兵だ、と新九郎さんが耳打ちしてくれた。それにしても新九郎さんの商人ぶりはあきれるほど板についていた。物腰は低いし、恵比須様のような笑顔を絶やすことがない。僧兵たちにも卒なく愛想をふりまいて、やりすごしてゆく。延暦寺の若い学僧には、せっかく延暦寺に入ったのに、学問もせずここに入り浸って遊び呆けて散財している輩も少なくない、と新九郎さんが教えてくれた。何のための学問なのだろう。何のための延暦寺なのだろう。ますます疑問に思えた。
その夜、新九郎さんが、鮒寿司というのを振舞ってくれた。琵琶湖でとれる卵を持ったニゴロブナのメスを塩漬けにし、ご飯と交互に重ね、2年も漬けこんで作ると言う。つんと鼻を突く独特の匂いがした。京都で高値で取引されていると言う。高価で保存がきいてしかも食ったらなくなるからまた買ってもらえる、ということは商品に向いているのでは?と新九郎さんに聞くと、おみゃーは飲み込みがいい、と満足そうにうなずいた。そして、ないしょだがね、と前置きしてから、実は、美濃の長良川でとれる鮎を使って似たたような商品を開発できないか試作を始めている、と言った。やはり新九郎さんは並大抵の男ではない。ちなみにご飯に漬け込むとなぜ魚が腐らず保存できるのか聞いてみた。それが解明できれば、もっと早く作れそうなのだが、と首を傾げてみせた。俺は、ご飯と魚に何か目に見えないものが働いている、と直感した。この時代、人類は顕微鏡を手にしていないので、微生物を直接見た者はまだ誰もいない。
あくる朝、荷駄を船から上げて、陸路で坂本という街に入った。正面に見上げるような比叡山が聳え立っている。街並みは石畳と石積みで出来ていて見事な景観だ。ところどころ漆喰塗の土塀、板塀、竹垣、生垣などが混在し、それが変化となって趣がある。ところどころでお坊さんとすれ違う。店で紙、筆、墨、硯などの文具を買い求めている。店には、例の達筆の掛け軸がなどがぶらさがっている。新九郎さんについてきたもう一人の少年が、目を輝かせて興味深そうにそれらを見ていた。新九郎さんは、そいつを、桃、と呼んでいる。どうせサンスケとなづけた経緯といっしょで、桃太郎とかなんとか適当に名前をつけておいて、そのうち短縮形になったのだろう。
約束どおり比叡山延暦寺根本中堂に連れていってやる、と新九郎さんが言った。比叡山には俺と新九郎さんと桃さんの3人で登ることになった。荷駄隊とは京都の本能寺でおちあうことにしたらしい。