灰と蓬
屋敷を出てしばらく歩くと、明るい黄色の菜の花が一面に咲いていた。ぽかぽか陽気である。田おこしを待つ田圃の向こうの草原では、空高く雲雀が囀っている。
空気いっぱいに土臭い菜の花の香りが立ち込めている。荏胡麻油の時代が終わって、菜種油になったのだな、と京の奈良屋で油を商っていた新九郎さんを思い出した。このところ、野駆け、というより散歩に出かけるときは、三人のことが多い。俺と濃姫と竹千代だ。
何かを見つけた濃姫が道端へと折れてゆく。竹千代がちょこちょことついてゆく。竹千代はすっかり濃姫に懐いている。
「信長様、蕗の薹!」
蕗の薹の陽の光に透けた緑色は、まさに春の明るさだ。しゃがみ込んで、こちらを振り返る濃姫の笑顔に屈託はない。
濃姫が懐から短刀を取り出す。嫁いで来るときに美濃の蝮こと父の斎藤利政からもらったらしい。短刀と言っても、鞘が無くて、柄に溝が彫ってあり、普段は刃が折りたたまれてすぽりとその溝に収まっている。甲賀というところで特別にあつらえてもらったらしい。濃姫は、その短刀を器用に扱って、蕗の薹をかごに採った。
「蕨もある」
濃姫は、今度は蕨採りに取り掛かった。ほだが開いているのは避け、一尺ほどの太くて柔らかそうな芽だけを選び、根本からぽきりぽきりと手際よく手折ってゆく。
「葉っぱは茂らせておいて、冬になったら根を掘り出して、蕨餅を作りましょう」
蕨は、牛や馬には猛毒だそうだ。蕨を食べた牛は口と鼻から血を吹いて死ぬ。蕨も食べられるために生まれてきたわけではない。草を食べる牛や馬に抗う術を身につけて生き残って来たのだろう。これから田おこしに取り掛かる百姓にとって、蕨で牛や馬に死なれてはたまらない。牛や馬を守るために牧草地の蕨は丸ごと刈り取ってしまう。人はその蕨を食べる。根は何度も水で晒して毒を抜く。寒さが厳しいときに半月もかける。やっとわずかな量の蕨粉が取れる。それで餅を作る。蕨餅である。芽の方は、灰をふりかけ、灰汁抜きしてから、塩漬けにして菜とする。
草木を燃やしてできた灰を使うと、どうして蕨の毒が抜けるのだろうか。草木灰は肥しにもなる。灰には何か神仏の力が宿っているのだろうか。灰はそのまま口に入れるととても苦い。蕨もそのまま口に入れるととてもえぐい。その苦みとえぐみを和えると食べられるようになる。その仕組みはわからないが、灰汁抜きは素晴らしい技術だ。
ふと気がつくと、濃姫は蕨を後にして蓬に取り掛かっている。竹千代も興味深そうにそれを見ている。濃姫によると蓬と萱の草地には、しめじが生えるらしい。本当かどうか秋になったらここにきのこ狩りに来よう。それにしても蓬や萱の生える土に何か含まれているのだろうか。そう言えば、蓬や萱は刈敷にすれば肥しになる。蓬や萱に含まれる何かと土に含まれる何かが循環しているように思える。世の中に存在するモノは、いくつかの基本的な要素から構成されているに違いない。
蓬の煮方は、親指と小指でつぶせる程度。それを餅に搗いて蓬餅にする。上巳の節句に使う。昔は、春の七草のひとつである御形が使われていた。御形は母子草とも言うので、母と子を搗いて餅にするのは縁起が悪い。そこで蓬を使うようになった。たかが草の名前ではないか。縁起を担ぐ意味は、いまだに理解できない。それでも蓬の爽やかな香りは好きだ。
「お義父様に、お灸してあげようかな」
と濃姫が言った。このところ親父の体調がいまひとつなのを思い出したのだろう。濃姫によれば美濃の蝮は、実証医学に詳しいらしい。坊主が怪しげな祈祷をあげる宗教医学とは違うということだ。濃姫はお灸の施術法をその蝮から習ったということだった。
灸に使う艾は、蓬葉を乾燥させ、裏側の綿毛を採取したものである。艾は、火打ちの火口に使う。鉄砲にも欠かせない。蓬の葉は、艾葉という生薬で止血作用がある。戦で傷ついた兵たちの治療にも使う。俺は役に立つものが好きだ。いつか役に立つ草木を一箇所に集めて思い通りに使えるようにしたいものだ。
取ったばかりの蓬は、すぐに艾にはできない。屋敷に戻ると、濃姫はとりあえず蓬餅を拵えた。それを持って先ごろ築城されたばかりの末森城に足を運んだ。親父は床に伏していた。本人は二日酔いだと言っている。最近、酒を飲んだ翌日は頭がガンガンと痛み、吐き気や喉の渇きなど一日中ずっと不快感が続くと、ぼやいている。おかんによると、そんなに多くの量の酒を飲んではいないはずなのに、若い頃よりもずっと早く酔ってしまうらしい。
濃姫が嫁いできたおかげで、美濃とは休戦状態だ。戦の疲れでないとすると何だろう。甲斐・相模・駿河の同盟を阻むべく、飛騨の国の神岡鉱山の開発にやっきになって飛び回ったせいだろうか。親父が寝込むと、俺が遊び歩けないので困る。親父には元気でいて欲しい。
濃姫が拵えてきた蓬餅を親父に差し出すと、おかんがそれを遮った。野で採った草より、延暦寺から頂いたお札の方が病に効くのだと言う。俺がおかんの言葉に首を傾げると、おかんはどういうわけか濃姫の方をキッと睨みつけた。そして、どうしてそなたは殿のためにお札に祈りを捧げないのかと畳みかけた。濃姫は、
「信長様より先にお祈りしては失礼かと存じまして控えておりました」
と悪びれずに答えた。そしてそっと俺の背中を押して
「信長様、どうぞお先に」
と頭を下げた。俺は既にそのお札が本物の美濃紙かどうかの鑑定に興味がそそられていた。ふいに気もそぞろのところに言われたので、濃姫に促されるままお札に手を合わせた。おかんはどういうわけかまた鋭い一瞥を濃姫に向かって投げつけた。




