蚕にも灰?
風が湿っている。梅雨である。
座敷から庭先の濡れた紫陽花の葉の上をのろのろと蝸牛が這っているのが見える。どうやら雨は上がったようだ。遠くから郭公の声が聞こえてくる。
傍らで濃姫がお茶をたてている。親父の健康増進になるからと、美濃の舅殿からお茶を取り寄せたのだと言う。濃姫の所作には迷いが無く美しい。京でお茶を振舞ってくれた与四郎さんを思い出した。あのときは苦さにびっくりして思わず吐き出してしまったが、今は、濃姫の淹れてくれるお茶が旨い。お茶は、舅殿から習ったとのことだ。蝮とあだ名されてるくせに、舅殿は風流人らしい。
親父は、今日も出かけている。今、休む訳にはいかないそうだ。親父の体調を気遣う平手先生もいっしょに出かけた。
先日、親父が何をやろうとしているのか聞かされた。親父の構想の骨子はこうだ。飛騨の神岡鉱山から鉱石を掘り出し、灰吹き法で銀を取り出す。灰の中に残った鉛を使って砂張りを作る。銀は秤量貨幣として国内の商人だけでなく、南蛮や明の商人との取引きに使う。砂張りは鐚銭を作り、計数貨幣として小額の取引きに使う。その銭の鋳型には粘土を焼いた焼き物を使う。幸い、美濃や尾張では良い粘土が取れる地域がある。瀬戸、多治見などである。そこには焼き物を焼く窯もある。その釜で草木を焼いて灰を作り、粘土を焼いて鐚銭の鋳型を作る。
親父の苦労は灰吹き法の灰にあった。ふつうは骨灰を使う。しかし大量の骨灰を使うとなると、牛や馬の家畜、それにイノシシやシカなど狩猟の獲物の獣を焼いても量が足りない。そこで骨灰に草木灰を混ぜて代替品に使えないかということだった。同じ灰でも骨灰と草木灰では、鉛の浸み込み方が違う。試行錯誤を繰り返して、やっとの思いで、灰吹き法のために貝殻などを混ぜた草木灰の配合を開発したそうだ。その秘伝の処方を記した書面は、今、俺の手許にある。なぜそのような配合でうまくゆくのかはわからない。
俺は、その親父から託された書面をくるくると巻いて、濃姫に床の間の茶壷の中に隠すよう頼み、そのままごろりと横になって、天井を見つめた。
親父は、草木の灰をいろいろ研究するうちに、灰の別な使い道も見つけていた。ある種の灰で灰汁を作り、それで絹を仕上げる。そうすると絹の光沢がぐんと上がるのだ。新九郎さんに連れられて美濃の紙漉きの里へ行ったとき、木材を煮溶かすのにも灰汁を使っていたのを思い出した。灰の用途は、紙作りや蕨の毒消しに留まらない。そう言えば、肥料にも灰が使われてた。灰には、まだ知られていない新しい使い道がありそうだ。
「信長様、お迎えの方が来たみたい」
濃姫の声に我に返った。夢中になって考えていると、周りが見えなくなることがある。
「デアルカ」
と短く返事をして、がばっと跳ね起きた。ふと思い立って振り返り、
「ついて来るか?」
と濃姫に聞くと、こくんとうなずいた。濃姫と連れ立って、外に出た。独特の薬の匂いに道端に目をやると、生い茂る濃い緑の葉の中に、白いドクダミの花が露に濡れていた。まもなく梅雨が明けるな、と思いながら、長雨にぬかるんだ道を、目的地の春日井へ向かった。
親父からの頼まれ事があった。灰汁で仕上げる絹糸は、蛾の繭から取る。その絹糸を吐く蚕蛾を見て来いと言うのである。昔から、美濃には美濃八丈という絹織物がある。これは、山繭蛾が吐く糸を使っていた。最近、堺に明から蚕蛾と新型の機織りが舶来した。親父はこれらを導入して尾張で絹織物を生産し、尾張八丈として売ろうとしていた。
蚕は、桑の葉があるこの季節に育てる。少し暖かい方がいい。紙の上に産み付けられた卵を紙ごと買って来て育てる。それにしてもこの養蚕場にいる明から取り寄せた蚕はなんだ。触られてもまるで警戒することもなく、桑の葉に乗っかって、ただひたすらにそれを食っている。かつての伝統的な山繭とはまったく違う生き物だ。桑の葉から一尺離れたら生きる気力を失って飢え死ぬらしい。それどころか自力で繭から出ることも出来ないらしい。完全に人の家畜だ。驚いたことに蚕の糞は、そのまま家畜の飼料や畑の肥料になるらしい。ちなみに繭になる直前が一番いい肥しになるとのことだった。
養蚕農家で、糸を取ったあとは、それを織物にする。もちろん灰で仕上げてきらきらの絹糸に仕上げてから織る。機織職人も新型の機織りを研究している。織物が出来たら染物だ。養蚕場には藍師が蚕の具合を見に来ていた。今は藍の葉の刈り取りの真っ最中だと言う。秋になったら寝床と呼ばれる粘土を敷いた土蔵に藍を寝せこむ。葉藍は自然と「すくも」になるのだと言う。すくもが出来たら、織物が染め上がるのかと藍師に聞いてみた。すると、うまく染めるには灰汁を使うのだと言う。また灰! 鮮やかな青に染め上げるには、椿、いもがら、ひささぎ、藁などの灰が良いのだと言う。緑色の藍の葉が灰の力で鮮やかな青になるとは。「青は藍より出でて藍より青し」の由来はこういうことだったのか。
俺はわくわくしてきた。こういう新しいものを見ていると、いろいろ工夫してみたいのである。これらの知識と技術があれば京都で作られている裃や袴をそっくりそのままここで作れるではないか。貴族や延暦寺の坊主どもは、舶来ものの絹ばかりを有難がっている。これからここで生産されるであろう絹織物は、舶来ものと較べてまったくひけをとらないはずだ。しかも明との間に入って暴利をむさぼっている南蛮人の半値で売っても十分利益が出るだろう。
悪戯を思いついた。ド派手な衣装を作って、それを着て、誰かを驚かせてやろう。そこで延暦寺で見聞きしてきた坊主の服に使われる技術を、細々と職人に指図した。今日の俺は、小袖と、半袴を身に着けている。腕と足には布を巻き、腰のまわりに七つ道具と言う、いつものいでたちだ。このいでたちから、延暦寺の坊主でも腰を抜かすようなド派手な衣装に大変身したときの相手の顔を見てみたい。仕込んだすくもが鮮やかな藍となって織物を染め上げるのは、来年の春か。親父や平手先生を驚かしてもつまらなそうだ。そこで見ている濃姫にもすでにネタばれしている。さあ誰を驚かしてやろうか。どうせなら大物がいい。まだ決めてもいないその相手が腰を抜かす様子を妄想するだけで愉快になる。
濃姫の冷ややかな視線を感じて、涎を垂らしてにやけている自分に気づいた。慌ててそっぽを向いて涎を腕で拭う。そ知らぬふりして、
「帰るか」
と踵を返した。
すっかり遅くなってしまった。外はもう夕闇が迫っていた。屋敷に帰りつく前に夜の帳が降りてしまった。梅雨の合間の蒸し暑い夜である。稲の生えそろった田んぼに沿って流れるせせらぎにカジカガエルの声がこだまする。
「何か光ってる?」
見れば黄緑色の小さな光が葦のしげみにぽつんとひとつ。その光は、すいっと飛び上がり、あっというまに頭の上まで舞い上がった。いつのまにか夜空は晴れ上がり、天の川が淡い光を放ち、七夕の星がまたたいている。
「蛍だね。少し、見ていかない?」
濃姫の小さくて柔らかな両手が俺の手をやさしく包みこんだ。暗くて顔は見えなかったが、濃姫が微笑んでいるのがわかった。誰に命令されるでもなく、空いている手で濃姫の髪を撫でた。濃姫の香りがふわりと鼻にまとわりついた。言葉は要らなかった。俺は黙って濃姫の髪に顔を埋めて目をつぶった。




