第1話 地図にはない村
言質。『ことばじち』とも読むそれは、対等であるための切り札とも言える。
赤口大尾野渡り橋。聞いたこともない名前の看板をちらりと目に入れてから、男は竹刀袋に入れた長物を担ぎ直した。
行くか、行かぬべきか。眼前にあるボロい橋を見つめ、今しがた歩いてきたけもの道を振り返ってからしばらく。もう一度橋へ視線をやった男は、誰かに聞かせるように大きなため息をついた。
「ひとつ訊くがな、カモメ。この橋が壊れて落下した場合、お前さんは私の治療をしてくれるのか」
周りには誰もいない。男が独り言を呟いているようにしか見えないが、自分しかいないので男は気にしない。応答のない『カモメ』へ問いを重ねる。
「お前さんとの契約は『言質霊』に関する事象の全てだからな。道中の災厄も含まれると私は思っとる。適切な処置をしてもらえれば死なずに済むと思うが、どうだね」
カモメは返事をしない。男はどっかとその場に座り込んだ。乾いた土だった。
後ろでひとつに纏めた銀鼠色の長髪が地面すれすれを揺れたが、男は特に気にした様子もない。しかし竹刀袋に入った長物だけは大事にしているらしく、座る前には背中から下ろしていた。いまはあぐらをかいた両膝の上に丁寧に置いている。
「答えないならほかへ行くぞ。どうせ地図にも載っていない場所だ。仮に奴らがいたとしても人がいないなら封印する必要もなかろう」
いま封印してもあとから纏めて封印しても同じこと。そう続けようとした男を、ようやく反応したカモメが遮った。
『本当に文句の多い人ですね。一から全部説明しないといけませんか、この老いぼれじじい』
「おうおう、重役出勤のくせに口の達者なこと」
『必要事項は先に伝えていますよね。その上で急いでくださいとお願いしましたよね。わかったらさっさと行って狩ってください、この老いぼれ墨師』
カモメの辛辣な物言いを頭の中で聞きながら、不名誉な呼ばれ方をした男は仕方なさそうに立ち上がった。
「あのなあ、こちとらまだ五十五なんだぞ。老いぼれはやめてくれや」
『たびたび腰がぁーとか膝がぁーとか言ってるあなたをどうしたら若く見れますか』
「お前さん、言葉に気ぃつけろよ。じじいはたまに怖ぇぞ」
相変わらず周りから見ればひとりで喋っている男は橋を渡っていく。
ところどころに大きな穴があり、両端を縄で結ばれただけの簡素な板の橋は今にも壊れそうだった。時刻は深夜二時を過ぎた頃。しかも街灯のない橋だ、板が一枚なくても気付かないかもしれない。
「カモメ。お前さん、いくつになった」
底から吹き上げてくる風が、落ちたらひとたまりもない高さであることを知らせてくる。下にあるのが地面なのか水なのかもわからない。真っ暗で底が見えない。
『十七です。期末テストが近いんです、あんまり話しかけないでください』
「期末テストぉ?」
『学校を出ていないあなたには縁のないものでしょうね。要は勉強しないといけないんです。寝る時間もありますし、念思をやめてもいいですか』
「たわけ。老いぼれの暇つぶしに付き合わんかい」
『老いぼれと呼ぶなと言ったのはあなたでしょう』
カモメが持つ『念思』――遠く離れていても会話ができる力を継続してもらい、緊張感のかけらもないやり取りをしながら橋を渡り切る。
古くても壊れるほどではないとカモメから男に伝えてはいたものの、実は二人とも怖がっていたのだ。双方、思う。まさかこのオンボロ加減で本当に歩けるとは、と。
「ん」
男が目を細めた。先程通ってきたけもの道よりほんの少し綺麗にされている程度の山の中。随分奥の方で、火のような赤い光が揺れ動いている。
「人がおるんか」
『いえ、そんなはずは。言質霊の元になった「言霊」が強力だから急いでほしかっただけで、そこに襲われるような人はいないはずです。廃村ですから』
しかし赤い光は確かに動いている。ひとつではない。いくつもの赤い光が、みな同じ方向へ動いている。そして叫び声が途切れ途切れに聞こえる。
甲高い女の声はここまでよく響いた。――逃がすんじゃないよ。早く捕まえな!
「状況はよくわからんが、ひとまず言質霊に関するなにかと思って間違いなかろう。行ってくる」
カモメの情報収集の腕を男は認めていた。だからこそ、イレギュラーがあったとしても文句は絶対に言わない。むしろ青春真っ盛りの男子高校生が自分のために時間を使ってくれていると思うと感謝でしかなかった。
「カモメ」
未だに動揺しているカモメに呼びかけ、男は竹刀袋から一本の特大筆を取り出した。自分の背丈ほどもある筆を右手に持って、星の綺麗な空を見上げる。
「いつも通り、無傷で封印してくる。お前は気にせず勉強頑張れよ」
天の川が目に入り、あれはいいなと思った男は特大筆を動かした。勢いのある川の流れを思わせる絵が筆の墨によって一筆書きで描かれる。空中に描いた川が一秒も経たずに動き出し、無音の激しい水流に変わった。
カモメが小さく笑った。
『優秀な当主様のおかげで、ぼくは今回も学年一位をキープできます』
「おう? いいことだな」
『ええ、いいことです』
墨で作り出した川に立つと、喧騒のほうへ素早く体を運んでくれる。サーフィンを思わせる体勢で斜面を下りながら、男――墨師八代目当主である荻野粛善は特大筆を構えた。言霊から命を宿し、人に憑依する『言質霊』の封印のために。
『あまり無理をなさいませんよう。お気をつけて、当主様』
普段ツンケンしているカモメの送り出しの言葉はいつも優しい。粛善はふっと笑い、軽い返事をしてから念思の解除をお願いした。
【第1回 豆知識のカモメ】
カモメはツンデレかもしれない
「ぼくがツンケンしてる? 普通ですけど。間違いなくデレてはいません。あんな老いぼれにデレて誰に得があるんですか」
「まーたお前さんは、老いぼれとかズバッと言いよって」
「それよりあんな体勢で川を下って大丈夫ですか。ついこの間ぎっくり腰になったところですよね。もう少しお体を大事にしたほうがいいと思います」
(お、こやつ自覚してないだけでやっぱりデレとるな)
「なにをニヤニヤして……ちょっと、当主様? なに書いてるんですか当主様」
自分の手記に「ツンデレカモメ」と大きく書いた粛善であった。
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《次回 追われる者》
粛善が見た赤い光の先。必死で逃げる二人の影。
どうぞよろしくお願いいたします。




