第9話 願いのあとさき
俺はどうしたいんだろう。
当てもなく歩いていたわけじゃない。でも、だんだんと足取りが重くなっていく。
歩けば必ず前に進む。
そんな当たり前のことに苛立ちも出てくる。
毎日通い詰めた神社の鳥居が見えてきた。
あれをくぐると何か分かる気がした。
何も分からないほうがいいとも思う。
それ以上に、今日という日をなかったことにしたかった。
今朝、千早は張り詰めた顔をしていた。
どんな気持ちで鳥居をくぐったのだろうか。
俺は暑さで唾液も出てこなかったが、それでも息を飲まずにはいられなかった。
一礼して、左足で一歩。
目をぎゅっと閉じ、鳥居をくぐった。
それが神聖な行為であるかのように感じた。
恐る恐る目を開けるが、狐はまだ腕の中だ。
俺はゆっくり石段を上った。
足がひどく重い。
まるで罪人のように足かせをつけられたかのように、一歩一歩体重以上のものがのしかかる。
シンデレラみたいに魔法が解けてしまったのだろうか。
それとも何か勘違いをしているのだろうか。
神頼みをすればいいのか。
狐はするりと腕から抜けた。
その動きだけで、俺の戸惑いがすこし軽くなる気がした。
「ようた」
俺は肩が震えた。もしかしたらと思っていたが、狐が話しかけてきた。
背中に流れる汗が止まらない。木陰に入ったからか、ひどく薄ら寒い気もした。
「千早、なのか?」
「そう」
千早は振り返り、じっと俺を見上げて言った。
「ここまでつえてきてくれて、あいがとう」
キツネの姿だと話しにくいのか、同じ声でもなんだか聴きとりにくかった。
それでもあの鈴のような声だ。
「あの、さ。なんで狐になっちゃったんだ?」
俺は何を聞けば、何から聞けばいいか、分からなかった。
「へんげのは、もあして、かあだにつけたの。けど、みずでおちちゃった」
ゆっくり千早は話し始めた。
千早は人になりたかった。神様に祈った。
すると奇跡が起こり、人になれた。
人型に変化する時はベンチの裏に生えている葉を一枚使えばよかった。
でも、遊園地に行くには、神社を離れ、いつもより長く、人の姿でいなければならなかった、
だから、残っていた葉を全部燃やして体にまとわなければ、ならなかった。
その灰が水で落ちてしまったから、もう神社の外では人の姿ではいられなかった。
ゆっくり耳に入ってくる不可思議な出来事に、なぜか、疑問はわかなかった。
狐が話してくれていることもあるが、それ以上に、違和感を覚えるよりも、千早の言葉を聞き漏らしたくなかった。
「……千早は神様じゃないのか?」
「うそついていて、ごめんなさい」
千早はしょげかえっていた。小さな姿が一層小さく見える。
「千早は……」
いつから俺を?何がきっかけで?喉元まで疑問が沸き上がる。
だけど、俺は千早に何を言えばいいのか。言葉が出てこない。
「わたし、ようたがすき」
「ずっと、すき」
「かみさまにおえがいした」
「いっしょにいたくて、だかあ」
千早は懸命に訴えてくる。
必死にすがってくるような姿に、俺は泣きそうになり、こみ上げる、どうしようもないほどの幸福感を胸のどこかで感じた。
「俺……」
気持ちに答えようとしたが、遊園地での、あの千早の悲痛の顔が頭をかすめた。
不意に誰かが俺にささやく。
“何を言うんだ?現実見ろよ”
「……狐が人ごみに紛れて生きていくなんて、できるわけないよね」
「ようた……」
千早の目には明らかに涙が浮かんでいた。
そんな顔をさせたいわけじゃない。
——でも。
「今回はうまくごまかせたかもしれない。けど、ずっと人の世界で生きていくなんて……そんなふうにごまかし続けるなんて……続けられるわけないだろ」
無理に口角を押し上げたが、千早を見て笑うことは、俺にはどうしてもできなかった。
「——」
千早は最後になんて言ったのだろう。
地面を蹴る音でハッとして、俺が顔を上げると、最後見たのは、うなだれ、遠くを見つめた狐の横顔と走り去る小さな後ろ姿だった。
俺は何も言えず、目に焼き付けることしかできなかった。
そこからいつ家に帰ったのか、覚えていない。
ただ、家に着いた時、親は急いで洗濯物を取り込んでいた。
「もう帰ってきたの?こんな雨じゃねぇ……」
その時初めて、天気雨で体が濡れていることに気づいた。
俺はシャワーを浴び、泥のように眠った。
ふと目が覚め、スマホを手探りで探したが、カバンの中に入れっぱなしだったことを思い出した。電源を入れ、いつもの寝る時間が表示された。
続けざまに通知音が鳴った。
佐藤からだ。
帰ると伝えて電源切っていたんだった。
『連絡つかないけど、大丈夫か?千早さん、体調悪かったのか?今度出かけるなら、涼しい時がいいよな。あと、莉子が撮った写真一応送っとく』
簡潔な文章とともに写真が送られていた。
飲み物を置いたテーブルを囲んで、俺は驚いた顔を向けている。
隣には——
千早が座っていたはずの場所は、そこだけぼやけて何も映っていなかった。
俺は思わず、唇を噛んだ。
不意に着信音が鳴った。既読がついたのを見たのか。
無視するわけにもいかず、俺が電話に出た。
「はい」
「あー、通じた、通じた。今、家?何かあったのか?急に帰るなら、ちゃんと説明しろって」
隣に莉子の声がする。連絡するように莉子がせっついたのだろう。
「ごめん、パレードの後、ちょっと……色々あってさ。ちゃんと連絡できなくて、ほんとごめん」
「千早さん、なんか途中から顔色悪かったもんな。大丈夫だったのか?」
佐藤も気づいていたのか。なんだか無性に自分に腹が立った。
「あー……うん」
「なんだ、お前も熱中症か?」
「うん、まぁ…そうかも」
「確かに今日は暑すぎたもんな。莉子がさ、また千早さんに会いたいってよ。今度は冬休みとかにまた行こうぜ」
佐藤は優しい。
だけど、それには答えられない。
「それは……ごめん、できそうにない」
「予備校行くんだっけか?」
「……別れたんだ」
「は……?別れたって?マジで言っている?」
「うん。だから4人で行けない」
「……」
佐藤の息を飲む音が聞こえる。
言葉を失ったのが、分かる。
「ごめん。俺が変に提案したからこんなことに……」
「違う!……違うんだ。そうじゃなくて、俺が……俺がふったんだ」
「……」
「そういうことも、あるわよ……」
沈黙を破るように、莉子の声が遠くから聞こえてきた。
「千早はすごく綺麗で性格だっていい子だったよ。でも、ちょっと変わってたし。椎名君にはそれが合わなかったってことでしょ?そういうこともあるわ。だってみんな同じ価値観で生きているわけじゃないんだし」
「莉子…」
佐藤の咎めるような声が聞こえる。それでも莉子は言い切った。
「椎名君がよければ、私の友達を紹介してあげるし。まぁ、気が合うかはあってみないとわからないけど……」
莉子なりに励ましてくれているのだろう。
莉子は千早を気に入っていたはずなのに。
「そう……だよな。うん、なんか元気出たわ。莉子さん、ありがとう」
「陽太、お前……」
「佐藤、めっちゃいい彼女じゃん。俺の身の上話して、二人の時間減るのも悪いから、もう切るわ。今日はありがとな。また学校で」
そうまくしたて、俺は電話を切った。持て余したスマホを、ベッドに放り投げた。
『だってみんな同じ価値観で生きているわけじゃないんだし』
莉子の言葉が耳の奥でずっと反響していた。
好きだけじゃ駄目なんだ。
対等ではいられない狐を恋人にすることはできない、それに俺は彼女がいる自分が欲しかっただけなんだ。
目を閉じ、陽太は強く自分に言い聞かせた。
新学期が始まり、夏休みに受けた模試の結果が返ってきた。思ったより成績は悪くはなかった。
佐藤は気を使っているのか、以前よりも定期的に俺を遊びに誘ってきた。
気晴らしになると分かっていても、どうしても寄り道する気にはなれなかった。
俺は受験に向けてそろそろ予備校のことを考え始めていることを理由に、それとなく断り、いつものように足早に学校を後にした。
俺は通いなれた道を歩いた。風がふくと涼しさを感じる季節になった。
石段を数えて気を紛らわす必要はもうなかったが、数えずにはいられなかった。
56段。
あの鉄板のように熱かった石段は、今はひんやりとして見えた。
誰もいない境内。
本堂の右側のいつものベンチに寝転がりぼんやりする。
誰を待つわけでもない。
ここは静かでぼんやりするのに、とてもちょうどいい場所だ。
前に過ごした景色とは少し違う。
ペンキの禿げたベンチは本堂を挟んで反対側に移動されていた。
本堂の左手には夏休み以降、火気厳禁の看板が立てられている。
ボヤ騒ぎがあった場所は草がきれいに刈られていた。
こちら側も草刈りしないと意味ないだろ。
ベンチの背もたれの隙間をのぞいた。
後ろ側は草が茂っている。
暗がりから風が吹き、舞い上がった葉が額に落ちてきた。葛の葉だ。
前に千早が手に挟み、祈っていた葉にとても似ている。
お礼、結局できなかったな……
俺は額の葉をつまみ上げ、立ち上がった。財布をまさぐり硬貨を取り出した。
そして、葛の葉を握り、賽銭箱の前に立った。
5円玉を投げ入れ、二礼二拍手。
葛の葉を両手で挟み、俺は静かに目を閉じた。




