十一話 触れている間だけ
「シャンプー、変えた?」
病棟に戻って来た凛を、美代は抱きしめて迎え入れた。
そしてすぐに、その変化に気付く。
「家にあるのを、使ったからね」
「いい匂い、似合ってる」
凛を見つめる美代の目は、どこまでも優しい。
でも、家を出る直前まで啓介と抱き合っていた凛には、それは眩しすぎた。
「…ありがとう」
「ねぇ、なんかあった?」
美代はどこまでも純粋に凛だけを見つめている。
「なんもないよ」
凛は慌てて美代から離れると、次は志摩子とハグをした。
「一晩だけど寂しかった」
「一人部屋になって、せいせいしたんじゃない?」
「まさか」
志摩子は鋭い目で凛を見た。
「旦那さんと、愛の再構築を試みてる途中って感じ?」
「うん、まぁ…」
「お子さん達は?」
凛は首を振った。
「まだ早いって会わせて貰えなかったけど、写真や動画は見れたよ」
「そっかぁ。でも一歩前進だね」
「小鳥遊くんは?」
「まだ帰ってこないね、ギリギリになるんじゃない?」
午後三時四十五分、門限の四時まであと十五分。
結局その日、小鳥遊は病棟に帰ってこなかった。三人は所在なげに小鳥遊の安否を心配したが、看護師も主治医も言葉を濁すばかりだった。
「なんか事件かな?」
美代は言葉を選んで言う。最悪のパターンは考えないようにしていた。
「…かもね。彼女さん、独占欲が強くて困るって言ってたからなぁ」
「小鳥遊くんが心配で寝れそうにないや…頓服貰ってくる」
志摩子はそう呟くと、ナースステーションに向かった。
凛と美代は、二人きりになると、少し頬を染めた。
「…旦那さんと、仲直り、したの?」
美代が遠慮がちに聞いてくる。
「なぁなぁだけど、なんとか。子供にとっては父親だし、簡単に別れられないよね」
凛は言葉を選んでそう返す。
「ふーん。わたしなら、耐えられないかも」
美代はどこか遠くを見ながら呟く。
「わたしの彼も、そうだった。浮気がやめられない人」
「…そうなんだ」
美代は、言ってから自嘲した。
「ううん、違う。わたしが浮気相手だった」
「美代…大丈夫?」
「凛さんみたいに、本命側だったら、なにか違ってたのかな」
凛はいたたまれない気持ちになる。美代の恋の話を聞くのは初めてだった。
「彼に本命が居るってわかってからも、関係を断てなかった」
「…わかるよ」
「むしろ一層身体の関係が深まった気がするの。触れ合っていれば、その間は二人きりだから」
美代は必死に言葉を紡ぐ。それがグサグサと、凛を刺しているとも気付かずに。
いや、気付いて刺しているのかもしれなかった。そんな関係に、しあわせは訪れないよ、と、伝えたくて。
「避妊まで、させなかった。何が起こるか、わかってたのに」
「美代…」
美代の瞳に涙が溜まるのを、凛はただ見ていた。
手が出せなかった。すぐそこにいて、すぐ手を伸ばせば涙を拭えるのに、出来なかった。
「妊娠した時、わたし、嬉しかったの。これで彼がわたしのものになるって」
気付けば凛も泣いていた。
「でもそうはならなかった。彼はわたしのものにならなかった」
「…辛いね」
「辛かった。でも、今は辛くない気がするの」
美代は、そう言い切った。
そして、全く無関心にテレビを眺めた。
心の中で、凛を好きになって良かったと、叫びながら。
翌日。
「ご心配おかけしました」
小鳥遊が左腕を釣って病棟に現れた。
「骨折?」
「ちょっと切れただけ。大袈裟なんだよ」
「誰にやられたの?」
志摩子はうるうると泣いている。
「…まあ、それはいいじゃん。ご想像にお任せしますってやつ」
きっと彼女だろうな、と美代は思った。
「…別れたの?」
志摩子がやっと安心して寝れる、と言って部屋に戻ったのを見計らって、凛が聞いた。
「別れられてたらいいけど」
「議論はしたんだ?」
「俺の言い分なんか、聞いちゃいないけどね。まぁなんとか」
小鳥遊はトレードマークの小説を失った。代わりに今はオーディブルで小説を聞いているらしい。
「生きてて、良かった」
凛の一言に、小鳥遊は笑った。
「大袈裟。でも生きた心地はしなかった」
「彼女さん、なんて?」
「わたしが支えるから別れることないって。それじゃあ俺の気がすまないって言っても聞く耳持たなくて」
小鳥遊は珍しく饒舌だ。一晩隔離室に入ったからだろうか?
「挙げ句の果てに、他に女が出来たんだなんて暴れてさ…」
「警察には…?」
「言ってない。自分で誤ってやったって病院には言ってある」
凛は心配そうだ。
「でもストーカー化したら?怖くない?」
「とりあえず引っ越すよ、実家に」
小鳥遊は飄々としているが、いつもより表情が固い。
「こんな風に別れるの初めてだから、勝手がわからない」
「今まで何人も泣かせて来たでしょうに」
凛は揶揄うようにそう言った。
美代も頷く。
「そんな事ない。いつも、振られる側だったから」
「意外」
「真面目すぎてつまらんらしいぞ、俺は」
小鳥遊は面白そうに言った。
「その彼女さん、この病院のことは知らないの?」
「知らない」
「そっか、じゃあひとまずは安心ね」
そこに、看護師が飛んできた。
「小鳥遊くん、落ち着いて聞いてね」
「俺は落ち着いてますけど、なにか?」
「加藤さんが受付に来て暴れてる。とりあえず、行こうか」
「え…」
話の流れと小鳥遊の反応から加藤というのが、小鳥遊の元彼女だろうと見当がついた。
「ご迷惑おかけしてます…」
小鳥遊を尾行して来たのだろうか、凛と美代は顔を見合わせて不安げだ。
「小鳥遊くん、大丈夫かなぁ」
美代の呟きに、凛は励ますように肩を叩いた。
「さすがに病院で、これ以上変なこと起きないわよ」
「ですよね…」




