第八話:偽りの聖女、真実の刃
セレスティーナがヴァレンシュタイン邸へ向かっているという報せは、イザベラの元にも即座に届けられていた。
彼女は、自邸のバルコニーから、王都を威圧するように浮かぶ不吉な紅い月を見上げ、その唇に勝利の笑みを刻んだ。
「…愚かな聖女。とうとう、わたくしを直接排除しに参りましたか。それとも、命乞いにでも?」
どちらにせよ、好機であった。
イザベラはこの国難を利用し、最後の仕上げに取り掛かる。
「全軍に通達! 聖女セレスティーナは、敵国ガルダと内通し、王国の混乱に乗じて、忠臣であるヴァレンシュタイン家を粛清せんと動いた! もはや、あの女は聖女にあらず、国を売る魔女である! 我ら真の愛国者は、今こそ剣を取り、偽りの聖女を討ち、王国の秩序を守るのだ!」
彼女がかねてより懐柔していた保守派の騎士たちと、ヴァレンシュタイン家の私兵は、その檄文に応え、一斉に行動を開始した。彼らは王都の主要な拠点を次々と制圧し、街は大混乱に陥った。
外には制御不能の魔物の軍勢、内には周到に準備された反乱軍。
王国は、建国以来、最大の危機を迎えていた。
その混乱を抜け、セレスティーナはヴァレンシュタイン邸の門前に、ただ一人でたどり着いた。
しかし、彼女を待っていたのは対話の席ではなく、冷たい鉄の槍を構えた兵士たちの壁だった。
城壁の上に、真紅のドレスの上に銀の胸当てをつけた、凛々しい武装姿のイザベラが現れる。彼女は、眼下のセレスティーナを、まるで罪人を見るかのように見下ろした。
「偽りの聖女セレスティーナ! よくも姿を現したな!」
イザベラの声が、集まり始めた野次馬たちにも聞こえるように、朗々と響き渡る。
「その女は、聖女の仮面を被り、敵国に魂を売った国賊だ! この国の危機を招いた元凶だ! 皆の者、騙されてはならぬ!」
イザベラの巧みなプロパガンダは、不安と恐怖に駆られた民衆の心に、毒のように染み込んでいく。セレスティーナに向けられる視線に、疑念と敵意が混じり始める。
(…間に、合わなかった…)
セレスティーナは、言葉で説得できる状況ではないことを悟った。
内外に敵を抱え、味方は分断され、民衆にさえ見放されようとしている。
かつて、王宮で冤罪を着せられ、誰にも信じてもらえずに追放された、あの日の絶望が脳裏をよぎる。
だが、今の彼女は、もう一人ではなかった。
守るべき、かけがえのない家族がいる。自分を信じてくれる、愛する者たちがいる。
(…ええ、そうでしたわね)
セレスティーナは、ふっと息を吐くと、その背筋を伸ばした。
聖女の慈愛に満ちた表情が消え、かつて王都の社交界を支配した、「悪役令嬢」の傲岸不遜な笑みが、その口元に浮かぶ。
「イザベラ様。あなたのお粗末な芝居は、もう見飽きましたわ」
「な…に…?」
「国を思うあなたの心、そのものは本物でしょう。ですが、その手段はあまりにも稚拙で、そして見当違い。あなたでは、この国は救えませんわ」
セレスティーナは、この絶望的な状況を、知恵と、そして言葉の力で覆してみせる。その覚悟を決めた、その時だった。
「…魔女を捕らえよ! 抵抗するなら、殺しても構わぬ!」
イザベラが、ついに非情な命令を下す。
兵士たちが、一斉に槍を構え、セレスティーナに殺到した。
まさに、刃が彼女の喉元に届こうとした、その刹那――。
閃光。
轟音と共に、セレスティーナと兵士たちの間に、分厚い光の障壁が展開された。
兵士たちは障壁に弾き飛ばされ、地面を転がる。
「――セレスティーナ様には、指一本触れさせない!」
息を切らし、杖を構えて現れたのは、王立魔術学院の制服をまとったルカだった。彼の瞳には、かつての怯えた少年の面影はなく、大切なものを守り抜こうとする、強い意志の光が宿っていた。
「ルカ…!」
セレスティーナが驚きに目を見張る。
その背後から、さらに頼もしい声が続いた。
「全隊、聖女様をお守りしろ! 反乱軍を鎮圧する!」
王都の治安維持部隊を率いて駆けつけた、王国騎士団長ハンス。
「全く、無茶ばかりする。だが、それがあなただ」
屋根から屋根へと飛び移り、音もなく彼女の隣に着地する、騎士ディラン。
そして、遠くから響く、荷馬車の疾走する音と、甲高い声。
「お待たせしましたわ、セレスティーナ様! 資金も物資も、そして『仲間』も、たんまりと連れてきましたわよ!」
エルネストと共に、王都の商人たちを味方につけて駆けつけた、リリィ。
かつて「忌み子」と呼ばれた子供たちが、今、それぞれの場所で培った力と知恵を結集し、敬愛する「母」の元へと集う。
彼らはもはや、守られるだけの存在ではない。
聖女と共に、この国の未来を切り拓く、若き英雄たちだった。
王都の最終決戦の火蓋が、今、切って落とされた。




