再び、贄となり
不協和音とは、何のためにあるのか。
それは、その後の主旋律を美しく魅せるために在る。
不安定な音の始まり。それが続いたかと思うと、整った音の主旋律が奏でられていく。あらかじめ決められていた、安定した音が強い響を持って叩き込まれてくる。のちに残響するのは、美しく強い音色だけ。そしていつまでも美しいまま残る。
不協和音はもう聴こえない。
俺は不協和音。それも、強い正しい音をまとっている。
擬音。
美しい音のために、この身を捧げる。
美しい音は、美しいまま、記憶に残る。
奏司は、長い間眠っていた。ベッドの傍にずっと眴がついていた。
昏々と眠る奏司に、何が起きているのか眴にはわかっていた。
奏司は左身に穢れを受け、左腕が二の腕から先はなくなった。左半身に受けた穢れの痕は真白神が依代としたことで回復した。真白神は奏司を生かすため、依代としたのだった。
奏司はなんとか死線から引き戻された。
真白神には惹かれるものがあった。奏司の願いには、戦の執念に似た強い響きがあった。
──今、死ぬわけにはいかない。見届けるまで!
この男は、何を見届けようとしているのか。真白神は見てみたかった。奏司の残りわずかな命を引き延ばすことはできないが。
奏司には、胸に珍しい病が見つかっていた。今すぐどうこうということはない。だが、瘤の大きさから十年は生きてもそれ以上は難しそうだった。
奏司は真白神の依代となり融合するための時間が必要だった。今、奏司は真白神の持つ記憶を夢のように見ていた。それは穢の誕生と戦いの記録だった。真白神は戦神だった。
長い夢を見ていた。奏司は目を覚ますと、眴が手を握っているかのような感覚を覚えた。あるはずのない左手を握りしめて、口づけているような気がした。
「眴……左手がなくなった」
やっと目覚めた奏司が口にした言葉がそれだった。
眴は奏司を抱きしめながら、震える声で言った。
「まだ右手がありますよ」
「そうじゃなくて……」
「そんなに左手が必要なら義手を」
「そうじゃない」
「あなたは生きて帰ってきてくれたじゃないですか、それで十分です」
眴は箱から指輪を出すと、奏司の右の手の薬指にはめた。奏司は眴から指輪を受け取ると、眴の右手の薬指にはめた。
「コレ、いいの?」
「御子姫殿からお許しいただきました。これから私とあなたには大切な役目がありますから」
「どういうこと?」
「まずは、早く退院しなければ。話はそれからです」
眴は奏司の右手を握りしめると、泣いているようだった。
奏司は退院すると、真っ先に御子姫へ会いにいった。何か胸騒ぎがしてならなかった。
「御子姫、聞きたいことがあるんだけど」
「眴のことか」
「実はのう、由良と宇羅を、眴と一緒に育ててほしいんじゃ」
「どういうこと? またそうやって一人で決めるの、マジやめてくんない?」
「そうじゃな、では相談じゃが、この先どうやって常世の穢を祓っていったら良いかのう」
御子姫はいつものゆっくりとした口調で、怒って早口な奏司とは対照的だった。
「船ではもう無理じゃ。堤の上からなど知れておる。それに……そなたは穢れをまともに半身に食らっておる。失ったのは左手だけじゃが、今は良うても、ここにおっては何年持つかわからぬ」
「そんなこと……じゃあ御子姫は……」
「大バケに呑まれたそなたを追って救いにいった。豪鬼もじゃ。三人で同じものを見たはずじゃ。いずれ穢は常世の大河から上がってくる。それを止めるには結界を張るしかない」
御子姫は穏やかに笑みを浮かべながらそう言った。
「じゃあ、ここでみんなで結界を守ろうよ」
「だめじゃ。この先、穢の力はどんどん強うなる。瘴気もばかにならん。私や豪鬼なら大丈夫じゃろうが、子には障る。いずれは移そうと思うておった」
「じゃあ、ほかのみんなは?」
「それぞれ話し合うて、里へ帰ってもらうことになった。ここは異形衆だけとなる」
「そんなの……!」
奏司は言葉を呑み込んだ。
──そんなの『贄』と同じじゃないか!
「もうな、終いにしたいのじゃ。家に縛られ、しきたりに縛られ、そうして最も美しい時を奪い取られるような人生は。私で終いにしたい」
「御子姫……」
「この数年は、ほんに楽しゅう過ごせた。ありがとう、奏司」
御子姫は奏司を抱きしめると、本当に心からしみじみと感謝を伝えた。
「この気鬱の激しいのも、気性が激しいのも、濃い血のせいかも知らん」
御子姫は、奏司が病院で眠っていた間のことを話した。
すべての戦船には夥しい骨が残った。
それらは先祖の骨、穢との祓いの戦で命を落とした者たちの遺骨と思われた。
一つ一つ丁寧に拾われ、大きな骨壷に収められていった。それはあまりの数の多さに、連日かなりの時を要した。
そうこうするうち、御子姫は美鈴の魂に導かれた。
美鈴の指差すところ、常世と現世を隔てる堰の閘門を探ると、朽ち果てることなく、美鈴のきれいなままの遺体があがった。
それが常世と現世を隔てる、人柱にでもなっていたのかもしれない。
その知らせに、妹の美琴がやってきた。まるで冷凍保存されていたような、時が止まった遺体との再会だった。美鈴の遺体は、響家の戦人の墓地へと、何十年という歳月を経て埋葬された。
これでやっと、あの日心に誓ったことが果たせたと、御子姫は安堵した。
その後、船から集められた先祖の遺骨は、常世との境に築かれた堰から続く堤沿いに、堤を守るよう溝を掘り埋められることに決まった。そこへは異形の里の山から、山藤を切り出し挿し木で増やしていくように整えられた。
輪紋衆響紋衆の解散については反対する者も多く、戦人の里のみなくすことになった。
それに伴い、新たに氏を変えるよう、御子姫から通達された。
響家と奏家は祓いができるというのがついて回る。力のあるなし関係なく、氏にはしがらみもついて回る。
神守を名乗るもよし。響家を支えた大家の鹿野神を名乗るもよし。同じく奏家を支えた大家の猪野神を名乗るもよし。
そして、御子姫は子らのために新たな氏を作った。
「藤は良き花じゃ。藤良しと、子らには吉兆をもたらすよう、藤吉としよう」
子らは、
藤吉由良姫
藤吉宇羅彦
となった。
ちょうど、藤が見頃となったある日、御子姫は自室の庭先にある藤の花の前に座ると、おもむろに里と常世の大河の間の境界に結界を張った。
この結界がいつまでもつかはわからない。今できる最善は、この先の長い長い歳月を、結界を張り続けることだった。
子らを、共に過ごす者を守り続けるために。
御子姫とともに、この地に残ったのは豪鬼、剛拳と、異形の里から移ってきた者たちだった。
そして、十五年が経った頃、眴に連れられ二人の子らが御子姫の元を訪れた。
奏司が、病で亡くなった。
「そうか」
御子姫はたった一言呟いた。涙ひとつなかった。
豪鬼は大泣きし、剛拳や里長など、奏司をよく知る者たちは悲しんだ。
「骨はあるか」
御子姫は唐突に、眴に聞いた。
眴は分骨した壺を渡そうとした。御子姫は蓋を開けさせ、仏の形をした骨だけ懐紙に取ると残りは眴に返した。
その骨を胸元に仕舞おうとし、御子姫は手を止めた。骨を持ち、袖の形の薄い部分を一口齧った。
そして、残った仏の形だけを庭の藤の根元に埋めた。
豪鬼は、御子姫の代わりに、由良姫と宇羅彦にたくさん話をした。
「叔父さん、元気でね。お母さんも」
御子姫は結界を張り、穢と終わりのない戦をひとりで続けていた。
穢に魂を喰われぬよう、心を閉ざし、美しい時を刻みこんだまま。
「こんな地でも藤は咲く。良い香りじゃ。のう、奏司」




