美しき時
しばらくして、御子姫は珍しくひとりで異形の里を訪れていた。里長の屋敷へ行き今回の事の顛末を話していた。
「そうですか。やっと奏司殿は戻られましたか」
「はい。ご心配をおかけしました。此度の件は、芥見の眼の者からの先見です。何かしらありますが、私は眴を信じて任せようと思うております」
「そうですな。あの者の真心は珍しく曇りがない」
御子姫は里長をしばし見つめると、思い切って尋ねることにした。
「前に、奏司が言っておりました。母のことです。わかっていてもやらねばならぬ時があるから、今ここにこうして私がおれるのだと。話してはいただけないでしょうか」
里長はしばらく御子姫を見つめていた。母になる覚悟ができたという顔をしていた。
「そうですな。お母上の妙佳殿は、血が濃く出ておりました。その時も先見がありました。同じ眼を持つ者です。御子姫殿がお生まれになることもわかっておりました。そして、妙佳殿は産めば命を落とさねばならないこともご承知でした」
「母上がか」
「はい。それが御子姫殿の紋の力の発現要因の一つでございました」
御子姫は黙ったまま里長と向き合っていた。
「父に会いたいと思うておる」
「なにゆえでございますか」
「決まっておろう。産まれた子の顔を見せてやりたいのじゃ。母はもうおらぬゆえ」
御子姫の表情には、今まで見せたことのないような穏やかなものがあった。
「そうでしたか。残念ながら、心当たりはございません」
「そうですか。祖母様も、ついぞ教えては下さりませんでした」
「ほんなら長殿、産まれたら見せに来ます。名をつけて下さいませ」
「何を仰っておいでか。まだ腹にもおらぬものを」
「そうなのじゃ……」
ため息混じりに呟く御子姫へ、里長はやさしく返した。
「そう焦らずともよいではありませんか。時が来れば、必ず芽吹く命ですから」
奏司は御子姫の元を訪れた。
豪鬼が先に来ていた。御子姫と二人は囲碁をしながら、少し酒を飲んでいた。
「久しぶりに豪鬼と碁を打っておるのじゃが、相変わらず強いのう」
気がつけば、こうして三人でこんなふうにくつろぐのもなかったように思った。
「珍しいのう、そなたが仕事の話をせんのは」
「昼間から、そっちこそ珍しいじゃん」
「少しな、気鬱になっておったので、双子が気を利かせてくれたのじゃ」
御子姫が碁石を碁盤の上に置くと、豪鬼が笑い出した。
「ひめ、負けー!」
「えっと、ここにまだ打てるよ」
「あっ! 奏司、ダメ教えちゃ」
奏司も久しぶりに豪鬼と真剣勝負になった。
囲碁をやっていたはずが、いつの間にやら腕相撲になっている。
大きな若者が二人、昔に戻ったように遊ぶのを、御子姫は楽しそうに見ていた。
「そろそろどうじゃ」
御子姫が奏司を連れて離れへ行こうとすると、豪鬼が寂しそうな顔をした。
「豪鬼も来る?」
「なにをするつもりじゃ」
「奏司は笑いながら、腕相撲の続きだよ」
三人は連れだって離れへ入っていった。
「よし、豪鬼、じゃんけんで勝った方が服を一枚ずつ脱いでいくんだ」
奏司と豪鬼は、よくなんでもじゃんけんで決めていた。
お互いにパンイチになると、今度は勝った方が御子姫の着物を一枚ずつ脱がせられることになった。
御子姫を脱がし終わると、とうとう奏司と豪鬼でじゃんけんの決戦が始まった。御子姫は笑い転げて見ていた。
奏司が勝った。
「豪鬼は待っておれ」
御子姫の言葉に、豪鬼は真ん中で少し離れて座って待っていた。御子姫は奏司のトランクスを脱がそうとした。
「待って」
「なんじゃ、今さら」
「そこからじゃなくて」
奏司は御子姫に口づけた。それはやさしく、唇のやわらかさを思い出させるものだった。
「俺、また御子姫を矢面に立たせるとこだった」
「なんのことじゃ、そなたの悪い癖じゃ。いいところで現実に引き戻すでない」
御子姫は奏司に口づける。奏司は御子姫を見つめながら言った。
「御子姫、大好きだよ。ずっとずっと、その気持ちは変わらない。ここで契ったあの時から、そのもっと前から変わってない」
憶えてるのは、こんなにあたたかく包まれて気持ちの良い場所は初めてだと、それだけだった。
奏司は御子姫に誘われるように、御子姫を抱きしめていた。
「御子姫、大好き、それしか見つかんない」
愛してる、という気持ちには、飢えも渇きも、様々な求める葛藤がある。
ただただ、純粋に好き、それこそ最初に、無垢に愛した、好きになった、気持ち。
「大好きだよ」
奏司は豪鬼と交代して、豪鬼と御子姫を見守った。以前のような怖れはもう起きなかった。
時々は昔話をしながら、異形の里を懐かしみ、三人はまるであの頃に戻ったように笑いに包まれて、一夜を明かした。
御子姫は戦人の里にいる若者で対を持たぬ者に、好き合った者同士で対になったら報告に来るよう告げた。
若い二人が響家本家を訪れ、ほころぶような笑顔をする。それを嬉しそうに祝う御子姫の両横には、いつも奏司と豪鬼の姿があった。
「次々と寮から若い衆がいなくなるとほっとするのはなんでじゃろうな」
「俺の方も御子姫に任せてよかったよ。さすがに一族を動かすのは御子姫の力なしじゃできないね」
「何を言うておる。それでもまだ籠の鳥じゃ」
御子姫は口にして、はっと思わず唇を押さえた。
「いいんだよ。もう気にしなくても。なあ、豪鬼」
豪鬼はやさしく頷いた。豪鬼にこんな難しい例えがわかるのだろうか。
「とり、飛ぶ。いつも、飛ぶ。飛べる、大丈夫」
「大丈夫だよ。もし籠から出ても安心して。俺がついてる」
奏司の真似をして胸を叩く豪鬼に、御子姫は笑った。
「できれば、御子姫には早く妊娠してほしいんだ」
「またどうしてじゃ」
「里長から聞いた。小さな頃の豪鬼をめちゃくちゃ可愛がってたって。俺は、戦頭領じゃない御子姫の姿を見ていたい。本当はこんなにも優しいんだっていう姿を」
御子姫は、見せたことのない複雑な面持ちをした。それでも奏司は続けた。
「里の空気が、子を残したあとは変容した穢との死闘が待ってる、みたいな切羽詰まった雰囲気になってもらったら困るんだ。祓い方はいくらでもある、先の大戦のように多くの命を犠牲にしなくていいように」
「そう、うまくいくかな」
御子姫は悟ったような、どこか諦めにも似た笑みを浮かべた。
子さえ残せば、響家と奏家の本元の血筋は残る。物見の先見は、そう告げていた。
「みんな、御子姫を真似る。御子姫が子供を産んで穏やかに過ごせば、みんなそれでいいんだって思うんだ」
奏司と豪鬼は毎日のようにやってきた。それこそ異形の里で暮らしていた時のようだった。
三人揃うと御子姫の部屋に泊まってはなんやかやと遊び始め、昔に戻って眠くなるまで笑って過ごした。
機会があるたび奏司と豪鬼は、それこそ異形の里の時のように庭先で肉や魚を焼いたり、御子姫の好きな栗やむかごを炒ったりした。里から届いたにごり酒を飲み、昔話に花を咲かせた。
奏司は表の仕事もなるべく日帰りにし、豪鬼は時おり異形の里から幸を持ち帰った。豪鬼の養い親をはじめ、皆が御子姫へと懐かしい幸をいつも用意してくれていた。
双子も初めて御子姫のもとへ来た頃のように、屈託なくお喋りを楽しみに来ていた。里の外へ出ていた者たちも、戦人の里全体が凪いでいるからだろう、何かに引かれるように御子姫のもとへ集まってきた。
そうして戦人の里には、ひととき不思議な凪が訪れていた。
里中の家々に人らしい日常が溢れていた。娘や息子を案じてやってきては泊まっていく。その笑い声が、毎日のように里のどこかにあった。
「まるで異形の里のようじゃの。笑いがそこかしこにある」
御子姫は微笑んだ。
奏司が初めて戦人の里へ来た頃は、対戦続きの後で殺伐としていた。異形の里へ帰りたいと言っていた、あの気持ちがよくわかる。
今もそうだ。
気がつけば御子姫の部屋にはいつも誰かの笑い声があった。
碁石の触れ合う音。庭先では焼いた栗の殻がはぜる音がする。
盤上を見ながら、豪鬼の大きな笑い声がする。あとを追うように奏司の呆れたような声が響く。
その真ん中で、御子姫もまた、過ぎた日の面影を抱くように笑っていた。
もう戻れぬはずの時が、形を変えて、たしかにそこにあった。
そうして一年が過ぎようとする、藤の花が咲く頃に、御子姫は懐妊した。その後の診察では二つの鼓動が確認された。




