祝言、そして契り(一)
戦人の里へ来ると真っ先に、奏司は御子姫と一緒に奨弥の元へ向かった。
「やあ、父さん。元気そうでよかった。俺、明日御子姫と結婚するんだ」
奨弥は相変わらず、庭の方を見たまま何の反応も示さなかった。
奏司は顔を覗きこむ。その沈黙の奥に何かが潜んでいる。そんな気がしてならなかった。
「父さんが望んだんだよね。だけど、俺は俺の意思で、御子姫のこと好きだから、守っていきたいから結婚するんだ。父さんができなかったことをするんだ」
奏司は奨弥の肩を強い力で掴んだ。
父、奨弥の体から、何とはなしに穢に似た臭いがした。
もっとも、この部屋は堤を越えれば常世に面している。多少の穢の気配が紛れていても、おかしくはない。
だが、それだけではないような気がした。
「だから、邪魔しないで。俺の中にいる誰かって、父さんだよね」
「奏司、それは真実か」
「うん、多分そうだと思う。けど、俺は負けない」
御子姫はたまらず、奏司の背に手を添えた。
「父さん、この目の前にいるのが本物の父さんなんだよ。御子姫を放ったらかしにして、母さんにいいようにされて。俺の中に隠れてたんだ、そうだろ!」
上から奨弥を見下ろす奏司には、ほんのわずかだが、奨弥の指先が小刻みに震えたのが見えた。
──そこにいるのはわかってる
「そして俺の中にいるのもわかってる。俺は絶対に譲らない」
「もうよい、奏司。おまえも辛いじゃろう」
「御子姫は黙ってて。これは、俺と父さん、男としての闘いなんだから」
御子姫はそれ以上何も言わず、奏司を連れて響家本家へ戻った。
双子が出迎えた。
「お帰りなさいませ」
奏司は初めて足を踏み入れる、広い屋敷を見渡した。御子姫の部屋に至っては二十畳もあり、さらにまだ奥に寝屋まであるという。
「奏司はここで着替えるんじゃ。夜は奥の寝屋で泊まってゆくとよい。私は少し仕事もあるゆえ、こちらの部屋で寝る」
奏司は部屋に入るなり、妙な既視感に足を止めた。
「この奥に禊用の部屋や沐浴場があるよね」
「その通りじゃ。奨弥の記憶か」
「そうみたい。俺、今夜はここに泊まらない方がいいんじゃないかな」
「さっきは男の闘いとか言うておったが」
御子姫は奏司の顔を見て鼻で笑った。奏司は困ったように眉を寄せた。
「そうなんだけど、俺、この部屋入った時から、御子姫に触れたくてしょうがないんだ。おかしくない?」
それが己の想いなのか、それとも別のものなのか。
御子姫は、そんな奏司に自らそっと口づけた。奏司は一瞬驚いたが、次の瞬間には、御子姫を抱き寄せていた。
「姫様、お茶をお持ちしました」
そこへ双子が挨拶に来た。部屋の向こう、廊下に人影が見える。
奏司はとっさに御子姫から離れ、ひとりぽつんと部屋の真ん中に立ち尽くした。慣れない距離感にはっとするばかりだ。
御子姫のまわりには、絶えず誰かしらの目があるように奏司には感じられた。
「奥のことを取り仕切ってもらっておる。わからぬことがあれば、この二人に聞いておくれ」
御子姫は畳に座すと、側に奏司を呼んだ。
記憶は奨弥のものがあるらしいのに、この開けっ広げな部屋の空気にはまだ馴染めないらしい。
奏司のそういう初々しさが、御子姫には妙におかしかった。
「唱と申します」
「言葉と申します」
「よく似てるけど、ちょっとだけ違うんだ。奏司です、よろしくね」
「姫様、やっぱり面食いですね、ほんま」
「これ、そなたらは……まったくいつもそれじゃ」
双子は笑いながら、明日の祝言の段取りだけを手早く伝えた。
初日は戦人の里の者が集まり祝宴となること、契りの儀はその後であること。
豪鬼は異形の里に残し、必要とあらば後日改めて紹介することも確認された。
「豪鬼、大丈夫かな」
「大勢の中は苦手じゃろう。まずはそなたのことを皆に知ってもらうことが大事じゃ」
「そっか……」
「それにな、祝言の後の予定もいっぱいじゃ。街まで行って、奏家総代になった挨拶回りもしなならん」
「姫様、そのことで午後から、着物と背広の業者が」
「そうじゃったな。私も忙しかったので一着も新調しとらぬ。私の分も小物も含めて持って来させて」
「うわぁ、なんか大変そ……」
相当疲れたらしく、風呂に入ると奏司は御子姫の部屋で寝てしまった。
御簾の向こうは仮眠用に布団が敷いてある。よく奨弥が使っていた。
夜半過ぎ、御子姫は寝屋でひとり休んでいた。
襖が音もなく開く。
「御子姫……逃げ……て」
入ってきたのは奏司だった。だが、その様子は明らかにおかしかった。
御子姫が寝屋から出ようとした、その浴衣の裾を奏司の手が掴んだ。
自分の意思ではない。そうわかっていても、自分の指は放そうとしない。
次の瞬間、御子姫の体は畳へ押し倒されていた。
奏司の手は御子姫の首へ伸びた。
「や、やめろっ……!」
御子姫の喉に指が食い込む。その感触がじかに手へと返ってくる。
奏司には、それが決して許せなかった。
強い嫌悪感を抱いているのに、指だけがなお食い込んでいく。
奏司は儘ならぬ手に噛みつき、御子姫の首からなんとか片手を離した。今度は自分の首を掴み、まるで自分の中の何かを力づくで抑え込むよう絞めあげる。
そのまま倒れこみ、片方の腕でもう片方の腕を鷲掴みにした。
御子姫は喉を抑えながら、なんとか肩ではあはあと息をついていた。
「御子姫……だいじょ……ぶ……?」
奏司は自分の腕に噛みつくと、血が滲むほどギリギリと強く噛んだ。その痛みが、唯一意識を保っていられるとでもいうように。
「御子姫、首……手の跡……俺……ごめん」
御子姫は涙をこぼしながら奏司に抱きついた。
「謝るのはそなたではない」
かすれた声でそう言い、奏司の頬に手をやった。
奏司は首を振って拒んだ。そして立ち上がると、よろよろと寝屋を出た。
しばらく奏司はそのままで、部屋の真ん中で固まっていた。
脳裏には、とうてい自分のものではない記憶が明滅する。知らないはずの御子姫の姿ばかりが、否応なく流れ込んでくる。
「やめろーっ!!」
真夜中に御子姫の居室から、奏司の叫ぶ声がした。奥の方から何人かが何事かと飛ぶようにやってきた。
部屋の明かりをつけると、奏司が部屋の真ん中で震えているように見えた。
「大事ない。怖い夢を見たのじゃ」
部屋の空気は異様なままだった。だが、御子姫にそう言われれば、皆引くしかなかった。
「奏司、大丈夫か……」
奏司はやっと息が継げるようになっていた。大きく肩を揺らしながら深呼吸をする。
奏司は御子姫の方を振り返ると、部屋を出て行こうとした。
御子姫はその背に飛びついた。
「何やって……」
御子姫は涙を奏司の着物で拭った。思わず振り返った奏司へ、御子姫はやさしく唇を重ねた。
御子姫は、未だ震えている奏司を抱きしめていた。
「悔しいけど、綺麗だったよ」
「あはは……何言ってんだか……」
奏司は自嘲するように笑った。
「何があっても、全部御子姫だから。大好きだ。俺の方こそごめん。止められなかった」
御子姫は何も言えなかった。ただ、抱きしめながら、奏司が自ら傷つけた腕の噛み痕に口づけた。
その夜は、奏司が御子姫を抱きしめたまま、眠りに落ちるまで見守り続けた。
腕の噛み痕の熱だけが、まだ消えなかった。御子姫の首に残った、赤い指の痕が事実だけを突きつける。
空が白み始めても、奏司は眠れなかった。
脳裏に焼きついたのは、自分のものではない記憶ばかりだった。
しかもそれは、ただ漏れ出たものではない。奨弥がわざと見せつけてきたのだろうと、奏司にはわかっていた。
明日は祝言だというのに。いや、もう今日だ。パタパタと遠くから足音が聞こえてくる。祝言の準備が始まっているのだろう。
奏司はその気配を遠くに感じながら、静かに決意していた。




