しきたりの枷
この一族には、古くから影のように見守る者がいると言われていた。
誰よりも古く、誰よりも長く生きる者。
だがその本当の姿を知る者は、ほとんどいない。
渡り廊下での様子を、遠くから見つめる者がいた。
御子姫には、わかっていた。
だからこそ、余計に念を押すため、一際きっぱりと声を張って告げた。
響家の屋敷では、誰かが見ていれば、それは一人ではない。
しきたりに守られた家ほど、目は多く、口は少ない。
御子姫は幼い頃から、そういう沈黙の中で育った。
だから、人目の先に何があるのかを、いちいち振り向かずとも知っていた。
「明日から、よろしく頼みます」
「承知致しました」
奨弥の声も、合わせるように強く返された。
それを聞き、見つめていた者は下がっていった。
御子姫が響家本家、頭領の家に産まれたのは十二年ほど前のこと。
それまで、穢との戦では、響家の経紋衆の頭領は、前の大戦で落命後から空席だった。とりあえず、最も力が強いとされた者が代理を務めていた。
なぜかというと、本家で懐妊の報せがあり、御子の誕生を待っていたからだった。
めでたく、御子姫が産まれた瞬間から、十数年後、頭領は御子姫がなることはすでに決まっていた。
いまは、経紋衆の頭領と表向きは呼ばれたとして、所詮代理に過ぎなかった。こういうことは、稀だった。
命がけの戦だからこそ、自分の命をあずける対の存在は大きかった。
経紋衆と輪紋衆とでは、ちょうど釣り合いの取れる力を持つ者同士が、対となり、戦に臨む。ほとんどの者が幾度か戦を経て、血の契りを交わし夫婦となる。
その契りは、しきたりでもあった。
一度契った相手とは、一生死ぬまで対として、共に戦をするという証を立てたことになる。
時として、ちょうどよい頃合いで頭領、総代の対が出来上がることは、難しいことがあった。
今回のように、対の選定は響家本家本筋を筆頭として行われる。
わずかな機会のずれが、本来ならちょうどよい対となれる者同士の引き合わせを、断ち切らなければならないこともよくあった。
奨弥は、御子姫が産まれた瞬間から、対として白羽の矢が立った。
響家と奏家では、誰が誰の対となるかで、幼いうちから行く末が決まってしまうことがある。
とりわけ頭領と総代の対は、一族そのものの形を決める。
そこに本人の情や願いが入り込む余地は、ほとんどなかった。
しきたりとは、守るためのものでもあり、縛るためのものでもあった。
そのように輪紋衆として研鑽してきた。奨弥は十六歳で輪紋衆総代となった。
昨今の戦場では、めきめきと力をつけてきた洋巳が、徐々に奨弥と対になることが重なりつつあった。
洋巳は奨弥より四歳下だった。自分は御子姫の代わりなのだと、そう割り切っていた。
経紋衆の頭領代理は、早く洋巳の対を探さねばと考えていた。洋巳自身がどう考えていようと、想いは知らずに表に出るもの。
しかし、そういう時ほど、都合よく同じ力量の輪紋衆は見つからない。洋巳は、どうしても奨弥との対を渡したくない一心で、鍛錬していた。
分家に生まれた者は、いくら力を持とうと本家の者には並べない。
特に、本筋の頭領と決まった姫と並ぶことなど、あり得ることなき夢の夢。
そしてまたこの一族では、異形が生まれることも珍しくはなかった。だがその多くは、屋敷では育てられない。
古くからのしきたりで、そうした子らは異形の隠れ里へ送られる。
戦場で功を立てても、頭領にはなれず、選ばれる側にさえ立てぬことがある。
洋巳はその理不尽を知った上で、なお奨弥の隣に立ちたかった。
それが叶わぬ願いであることを、誰よりもよく知りながら。
想いは募っても、叶うことは万に一つもなかった。
実際、今日の日を迎えると──洋巳は、自分ではどうにも抑えられない感情が、自分の内で醜く塒を巻いているのを感じていた。
──私の奨弥様!
対となり、一緒に穢と戦ううち、奨弥に自分自身を、命さえも預けていた。そして、洋巳は自分でも気がつかないほど、心まで預けてしまっていた。
だが、重くのしかかる『しきたり』にはかなわない。
いけない、いけないと思いつつも、洋巳は誰も近寄ってはいけない、儀式が行われる離れへと来てしまっていた。
そこで、御子姫と奨弥との儀式を、ついつい覗き見てしまったのだった。
離れの白木の板張りには、薄っすらと隙間ができていた。
漂う香にあてられたように、体の奥がざわつく。理性とは別のところで、何かが揺さぶられていた。
奨弥のことを思えば思うほど、それを抑えることは、もう自分ではどうにもならなかった。
明日からは一緒に戦えない。戦うということは、まるで激しく求めあうようなものだった。
ただ、御子姫の凛とした声で我に返って、その場を足早に去ろうとしていた。
ところが、皮肉なもので慌てたせいか、向かう方向を少し誤ってしまった。
暗闇から、洋巳の腕を引っ張る者がいた。暗くても、それが男の手であることはすぐにわかった。洋巳は一度は抗ったが、顔を見て思わず、その影に縋りついた。男はそれを受け止め、そのまま小屋へと引き入れた。
「あぁ……奨……!」
洋巳は、男を奨弥だと信じて疑わなかった。
それもそのはず、男は奨弥の従兄弟の将吾だった。顔も似ていれば、体格も似ていた。それに洋巳は香の力で正常な判断力を失っていた。
洋巳は、まだ誰とも血の契りを交わしたことがなかった。二十四にもなるのに、肉体だけは弾けるような大人の色香を放ちつつ、まだ一度も男を受け入れたことがない。
しかし、それさえも、今自分は奨弥とともにいるのだと、ただただ夢見心地であった。何が起きているのかも曖昧なまま、意識はただ流されていく。
二人がいたのは、この日響家が、奏家の対を持たない、独り者の輪紋衆のために用意した場であった。響家側も元々戦向きではない女達を幾人も、もてなし女として揃えていた。
洋巳と将吾は、外の様子などお構いなしとでもいうように、何かが外れてしまったようだった。
小屋の中の気配は、外にも漏れていた。
外が騒がしくなったかと思うと、戸が乱暴に開いた。
人の気配が一気に流れ込み、場の空気が変わる。何が起きたのか、洋巳にはもう判別がつかなかった。
将吾は己が身分が知れるとまずいので、洋巳を置いて小屋の外へ出た。
──あの女、正気じゃねぇ。
洋巳は、もてなし女に間違えられ、その場の流れに呑まれていった。
小屋の中は暗い上、男達は結構酒も入っていた。
まさか、その部屋に、洋巳のような戦強者の経紋衆が紛れ込んでいるとは思いもしない。それは、もてなし女達にしても同じだった。
ちょうどその頃、湯を浴びて小ざっぱりとした奨弥と、少し遅れて御子姫が宴席へ揃って姿を現した。
宴は対の者達は対で集まって祝盃を上げていた。対がいない輪紋衆の男達にはもてなし女が酌などお世話していた。
経紋衆は、ほとんどが二十歳前後の若い女達だったので、酒席に出ることはできなかった。これも血の契りを交わす前に間違いが起きないための、しきたりの一つだった。
だからこそ、誰一人として、まさか洋巳があのようなことになっていようとは思いもしなかった。
将吾は、いつでも湯浴みができると聞いていたので、わざわざゆっくりくつろいでいた。ちらほらと男達が湯浴みに来た頃合いを見計らい、同じように宴席へ戻っていった。
服も着替えていた。着物には、洋巳の香の匂いが付いている気がした。
将吾は自分の野心のために、洋巳を狙っていた計算高さがあった。だが生来、小心者の将吾には後ろめたさもあった。
将吾は盃を持ち、奨弥と御子姫が並ぶ席まで行き祝辞を述べた。
奨弥と将吾が盃を交わす様子を見つめながら、御子姫は、ほう……と驚いたふうに呟いた。
「こうして並べば違いもわかろうが、少し離れたらわからぬかも知れんのう」
そう言って、ほほ……と小さく笑っていた。
「よくそう言われます。歳も一つ違いですので」
将吾は御子姫に向かって、人懐こく笑いかけた。
「そうか、もしも万が一、入れ替わりでもして、私の元へ来るようなことあれば」
御子姫は、クク……ッと笑うと、一瞬で血の気が引くような笑みを浮かべた。
「そうよなぁ、その大事な物を切り落としてくれようか」
まるで、洋巳のことが見透かされでもしているようで、将吾は背筋が凍りついた。




