神守の残響
御子姫は、ずっと泣いていた。
草履も履かず、足袋のまま。着物も崩れたまま。
神守の車の運転手は寡黙な者が多い。呼ばれて乗せるのは、ほぼ輪経紋衆である。
中でも、今夜の客は、どうやら御子姫だとすぐに察しはついた。
「響家本家まで頼む」
車を呼んだ男は行き先を告げて離れた。
車は街の中を抜けると、戦人の里へ向かって夜道を走り続けていた。その間、運転手は一言も言葉を発しなかった。
どれくらい走ったろう、やっと泣き止んだ御子姫は運転手に話しかけた。
「そなた、名はなんと言う。聞いてもよいか」
運転手は黙ったまま走り続ける。バックミラー越しにじっと、己を見据える御子姫の姿が、目の端で確認された。
普通、神守の運転手に名を聞く者はいない。名を聞くときは決まっている。
運転手は、御子姫の様子を確認しつつ、戦人の里へとゆっくり道を選んでいた。
先ほどまで泣きじゃくっていた少女が、窓の外へと顔を向ける。走っている道を確認すると、思わず笑いをこらえる様子が背中越しに見えるようだった。
「……一郎と申します」
運転手はやっと口を開いた。
こちらを向いた御子姫は、頭領の顔に戻っていた。
「そなた、元は奏家じゃろう」
一郎は、しばし答えなかった。
ただ、信号で止まった車内へ、わずかにハンドルを握り直す気配が伝わる。
御子姫はそれを見逃さなかった。
「図星か」
「神守に、奏家も響家もありません」
一郎は前を見たまま言った。
「そう言っておかねば、生き残れなかった者が多いだけです」
「ははは……っ。これは一本取られた」
御子姫は、ようやく少し笑った。一郎は、ほんの一瞬ではあったが表情を堅くした。
まるで余計なことを言ったとばかり、気を引き締めた。
「そなた、車は長いのか」
なかなか答えようとしない一郎に向かって、御子姫は続けた。
「そなたの態度が気に入った。これからそなたの車を使いたい」
一郎はやっと、御子姫とミラー越しに目を合わせた。
「よい。黙れる者の方が扱いがよい」
御子姫はにっこりと微笑んだ。扱いがよい、と来た。使う、ではなく。
「本家へ着いたら、頭領代理に連絡先を渡しておいておくれ」
一郎は軽く会釈をした。道はすぐ本家へ繋がった。到着して、一郎はドアを開けると、そこで初めて御子姫の方へ体が向く。車を降りる御子姫へ一礼したまま、足元を見守る。
「姫様! どうされましたか」
「何もない。それより、この者の車を使うことに決めた」
そう言うと、御子姫は一郎へ体ごと顔を向けた。
「返事を聞いておらなんだが……よいな?」
一郎は頭を下げたまま、御子姫が本家へ入っていくのを見送った。すぐに、代理が来て話をする。一郎は問いに答えなかった。
「私は、何も存じあげません」
代理は、ふと思い出したように、連絡先だけ受け取るとご苦労、そう言って本家へ戻っていった。
それから御子姫は、次に街まで出かけるときに一郎の車を使った。
歳の頃はどうだろう、四十を越えたあたりだろうか。夏だというのに長袖をきっちり着ているあたり、紋があるのがわかる。
一郎は、御子姫から言葉がないかぎり無言だった。
いく度目かのときであった。御子姫は、少し遠回りをさせて街まで向かわせた。
「そなた、奏家じゃろう。車の運転手には奏家の者が多いと聞いておる」
以前答えなかった問いに、運転手は黙って頷いた。御子姫の様子はバックミラーを見ればわかる。
「そこでのう、頼みがあるのじゃ。情報屋をひとり、紹介してほしい」
神守を使う。
それは、響家が長く見ぬふりをしてきた泥へ、自ら手を入れるのと同じことだった。
運転手は前を向いたまま、返事を返さなかった。そのまま、街の郊外を一周りする。
目的地が近づいてきてやっと、運転手は口を開いた。
「承知しました。しばらくお時間をいただきます」
「こういうことは、そなたらの道。頼むぞ」
運転手は一礼して、御子姫が街の雑踏へ消えていくのを見送った。
数日後、一郎から響家本家へと連絡が入った。
車は御子姫を乗せると街へ向かった。
「途中で男をひとり拾います」
「それが情報屋か」
「はい、しばらく街中を走ります。その間に、用向きをお伝えください」
御子姫は、バックミラーに映る運転手の顔を見つめた。不意に目と目が合う。
運転手は無言で、御子姫を見返した。それを見て、御子姫はクク……ッと鼻で笑った。
「そうじゃったの。先に賽を振ったのは、こちらじゃった」
一郎はミラー越しに会釈をすると、どこにでもありそうな人で賑わっている道筋で車を止めた。
ひとりの男がするりと、御子姫の隣へ乗り込んできた。 車が走り出してから、おもむろに男は挨拶をした。
「三郎と申します」
男は取り立てて特徴が見当たらない、どこにでもいそうな形をしていた。服だけはきっちりと着込んでいた。袖の縁からは経紋が見えた。
──響家の男か、ということは
「三郎とやら、眼をお持ちか?」
しばし沈黙があったのち、三郎は口の端で笑った。
「はい、大したものではございませんが。予見を少々」
「そうか。ところで、三郎とやら、名はいくつある」
そう言って、御子姫は三郎ではなく、運転する一郎を見た。一郎はバックミラーを通して御子姫の圧を感じた。
三郎の口元は一文字に変わっていた。
「無理せずともよいぞ」
御子姫は封筒を渡す。
「無理かどうかは、見てから決めます」
三郎は封筒を指先で弾いた。
「御子姫殿は、ずいぶん大きなものを相手になさる」
「怖じ気づいたか」
三郎は口元だけで笑った。
「いいえ。どこまで剥げるか、興味が湧いただけです」
横に座る御子姫を見る。その眼差しには、決意など生半可なものを通り越した静けさがあった。
三郎はふと気づいた。
御子姫は、今までの響家頭領とは違う。神守を便利な手として使うつもりでいる。
だが、使い潰す気ではない。
「で、どうじゃ」
奏家の、特に将隆の周りにいる者たちは、使う前から捨てる場所を決めている。三郎は、そうして父がすり減っていったのを知っていた。
御子姫は違う。
それだけで、賭けるには足りた。
三郎は、その場で決めた。
車に乗り込んだときから、予見はもう走っていた。
奏家の屋敷でも、響家の本家でもない。
もっと別の場所で、何かがひっくり返る気配だった。
その夜、三郎は上機嫌でウィスキーを飲んでいた。そこへ兄である一郎が来た。
「また厄介な相手に乗ったな」
「厄介なくらいじゃなきゃ、こっちに来ないさ」
一郎は呆れたとでも言うように、ため息を三郎にぶつけた。
「眼持ちは昔からそうだ。見るなと言われたものほど見たがる」
「親父みたいに?」
一郎はそれには答えなかった。三郎は、その目に不敵さを宿したままだった。
「姉さんにも話しといたほうがいい?」
一郎は少し間を置いた。
「……ああ」
神守は、誰に使われるかではなく、どう扱われるかで命運が変わる。
三郎は、ようやくその盤に手をかけた気がしていた。
三郎はグラスを傾け、そこでふと笑った。
「詰んでたよな」
「何がだ?」
「なんでもないよ、独り言」
一郎は眉一つ動かさなかった。
その堅さが、今夜は少しだけ可笑しかった。
三郎はグラスを揺らし、一口飲み下ろした。
誰より涼しい顔をして、あの姫はもう盤を読み切っている。
まだ十五の小娘が、人の戦の顔をしていた。
三郎は、それが気に入った。




