序章 まだ名もなき闇
穢──それは、ある日突然現れた。
一族が住まう集落の前、大海と呼ばれる湖のほとりに、ぽっかりと空間が開いた。
その向こうに広がっていたのは、常世そのものだった。どこまでも続く薄闇の空、そしてそれ以上に暗い、水底の見えぬ河。
そこから現れたのは、かつて湖から上がってきた魑魅に似たもの──穢だった。
一族とは、輪経紋衆と呼ばれる、祓いの力を持つ者たちである。彼らは、輪紋と経紋とに分かれていた。
ひとりでも祓いはできた。だが、輪紋と経紋を併せることで、その力は飛躍的に増幅された。
瘴気に満ちた常世では、その二つの紋が対となる。
それが摂理だった。
「遅れるな」
「わかってる」
短く言葉を交わし、二人は並ぶ。
ひとりで立つ者は、どこにもいない。
一族はかつて贄を担い、やがて穢を祓う者となった。
その力ゆえに、常に時の権力者に利用され翻弄され続けてきた。
やがて一族は二つに分かれる。
戦を仕切る経紋を持つ響家と、政を司る輪紋を持つ奏家。
それは生き延びるための選択だった。
常世の大河が、一族の住む集落の目前に現れたのはもはや、運命としか言いようがなかった。
時の権力者は、一族に、常世の河から湧いて出る、穢を祓うことを命じた。
常世が現れた時代から、一族の生業は常世の穢との戦へと変わった。
政を司る奏家へは御教書が届く。戦を行う響家は宣旨を直接受け取りに出向く。
やがて一族は、堤と門を築き、常世と現世を隔てる境を作った。
常世の大河へ船を出し、穢を討つ戦が始まった。
常世と現世では時の進み具合が違った。
常世では三刻──半日にも満たぬあいだに、現世では三日が過ぎる。
それを繰り返すうち、一族は年をとらぬ者として恐れられるようになった。
そして今──
一族は、失われたはずの宝を再び得た。
一族待望の姫の再誕であった。
姫に、名は与えられなかった。
代わりに、『御子姫』と称されることとなった。
御子姫は裳着、いわゆる成人式を迎えるまで、ひっそりと隠されて育つ。やがて、運命の対となる奏司と出会う。
常世の大河では、いまも穢が溢れかえっている。
「──出るぞ」
篝火が揺れ、船が動き出す。
御子姫を筆頭に、一族は穢を祓うため、今も戦を続けていた。




