2.春風は予感を運ぶ
バタン、と重厚な樫の扉が閉まる音がした。
ゲオルグが出て行った後の執務室には、再び静寂が戻ってきた。
窓から差し込む春の日差しの中で、彼が淹れてくれた紅茶の湯気だけが、ゆらゆらと立ち上っている。
アマンダ・ヴァインベルクは、その扉を無表情で見つめていた。
瞬き一つせず、微動だにせず。
まるで、今しがた起きた出来事を脳内で再生し、検算しているかのように。
『貴女にそう言っていただけるのが、俺にとって一番の誉れです』
その言葉が、耳の奥で再生される。
熱を帯びた低い声。真っ直ぐに自分を射抜くような視線。
そして、紅茶を受け渡す際に触れた、大きく無骨な手の感触。
「……は?」
アマンダの口から漏れたのは、色っぽい吐息でもなければ、恥じらいの悲鳴でもなかった。
純粋な困惑と、理解不能な事象に対する拒絶を含んだ、極めて低い声だった。
彼女はゆっくりと椅子に座り直し、冷めかけた紅茶を一口啜った。
そして、眼鏡の位置を指先でクイッと押し上げると、誰に聞かせるわけでもなく呟いた。
「……あの子、疲れているのかしら」
そう、疲労だ。
連日の厳しい剣術訓練。次期領主としての重圧。そして弟フリードリヒの奇行への心労。
それらが重なり、一時的に判断能力が低下しているに違いない。
そうでなければ、十九歳の青年が、五つも年上の、しかも財務と数字のことしか頭にない堅物の女に向かって、あんな熱烈な……まるで愛の告白とも取れるような台詞を吐くはずがない。
(ええ、そうですわ。師に対する敬愛の念を、若さゆえの過剰な情熱で出力してしまったようなもの……危ないところでしたわ)
アマンダは、来期の予算案に視線を落とした。
もし自分が、王都の物語に出てくるような夢見がちな令嬢だったら。今の言葉を真に受けて、「まあ、ゲオルグ様ったら!」と頬を染めていたかもしれない。
だが、あいにくと自分は財務顧問。数字と論理しか信じない。
十九歳の少年の、一時の気の迷いに絆されるほど、安くはないのだ。
アマンダは羽ペンをインク壺に浸した。
ペン先が紙の上を走る音だけが、部屋に響く。
カリカリ、カリカリ。
いつもより筆圧が強く、書くスピードが速いのは、決して動揺しているからではない。
仕事が山積みだからだ。そうに決まっている。
(誉れ、ですって? ……生意気な。誰に口説き文句を習ったのかしら。まさかジークハルト団長ではないでしょうし……)
ふと、思考にノイズが走る。
アマンダは眉間にシワを寄せ、首を振った。
「集中なさい、アマンダ。相手は子供よ。……可愛い、ただの教え子」
彼女は自分に言い聞かせるように呟くと、再び数字の海へと意識を没入させた。
だが、その耳朶がほんのりと赤く染まっていることに、彼女自身は気づいていなかった。
*
その日以来、アマンダの執務室における空気は、氷点下まで下がったと言っても過言ではなかった。
もちろん、仕事の手を抜くようなことはない。
だが、ゲオルグが部屋に入ってくると、彼女は目に見えない要塞を展開するようになった。
「アマンダ先生、ここの計算ですが……」
「あらゲオルグ様。そこは前回の講義でやりましたわよね? ご自分で導き出せなくては困りますわ」
視線を合わせず、書類を見たまま冷たく返す。
「……はい。すみません」
「謝る暇があったら手を動かしてくださいまし。時間は金貨よりも重いのですから」
徹底的な先生と生徒の線引き。あるいは、上司と部下の壁。
アマンダは、ゲオルグが何か個人的な言葉を発しようとする隙を、事務的な会話で埋め尽くして封殺した。
そうして一週間が過ぎたある日の午後。
アマンダは城の裏手にある温室で、ハーブの手入れをしていた。
ここは彼女が唯一、数字から離れて無心になれる場所だ。
ジョウロで水をやりながら、彼女は深い溜息をついた。
「……はやいところ、お嫁さんでも見つけてくれませんこと?」
独り言の矛先は、もちろんゲオルグだ。
あの子がまともな令嬢と恋仲になってくれれば、自分に向けられた勘違いの熱も冷めるはずだ。そうすれば、また以前のように、優秀な相棒として仕事ができる。
今の状況は、効率が悪すぎる。
(なぜわたくしが、あの子が入室してくるたびに身構えなければなりませんの? まるで、わたくしが意識しているみたいですわ)
それが腹立たしい。
自分のペースを乱されるのが、何よりも嫌いなのに。
「あら、珍しく眉間のシワが深いわよ、アマンダさん」
不意にかけられた声に、アマンダはジョウロを取り落としそうになった。
振り返ると、バスケットを持ったリオニアが、温室の入り口でニヤニヤと笑っている。
「……リオニアさん。ノックくらいしてくださいまし」
「ここは温室よ? ドアなんて開けっ放しじゃない」
リオニアはズカズカと入ってくると、作業用のベンチに腰掛けた。
バスケットから取り出したのは、焼きたてのクッキーと水筒だ。
「はい、休憩。……で? 何をそんなにカリカリしてるの?」
「カリカリなどしておりません。これはいわゆる、業務上の懸念事項に対する思索ですわ」
「ふーん。その懸念事項の名前は、ゲオルグって言うのかしら?」
アマンダは、ぐっと言葉に詰まった。
この親友には、相変わらず何も隠せない。
彼女は観念して、ベンチの向かい側に座った。
「……あの子、最近おかしいんですの」
「おかしい?」
「ええ。妙に……その、距離が近いと言いますか。視線が熱いと言いますか。わたくしを『先生』としてではなく、まるで……」
「一人の女として見てる?」
「……っ!」
アマンダは絶句した。
リオニアは面白そうにクッキーをかじる。
「いいじゃない。ゲオルグももう十九歳。立派な男よ? アマンダさんみたいな美人が近くにいたら、惚れるなって方が無理でしょ」
「何をバカなことを! わたくしは二十四ですのよ!? 五つも年上ですわ! しかも彼にとっては財務の師! あり得ません!」
「いい加減その『常識』ってやつを窓から投げ捨てなさいよ。私たちがやってきたこと、全部非常識じゃない」
リオニアは呆れたように肩をすくめた。
「で? アマンダさんはどうなのよ。まんざらでもないんでしょ?」
「はあ!? どこをどう見たらそう見えますの!?」
「そう?」
「迷惑ですわ! わたくしは仕事が恋人ですの。あの子の勘違いに付き合っている暇はありません!」
アマンダは声を荒げた。
図星を突かれたからではない。断じてない。
ただ、自分の崇高な職業意識を、浮ついた色恋沙汰と一緒にされたことが心外なだけだ。
「勘違い、ねえ……」
リオニアは、じっとアマンダの目を見つめた。
その瞳は、すべてを見透かすように澄んでいる。
「本当に勘違いだと思ってるの?」
「……どういう意味です?」
「ゲオルグの目は、憧れなんて生易しいものじゃないわよ。あれは、獲物を狙う目だわ。……アマンダさんも、本能ではそれに気づいてるから、そうやって避けてるんじゃないの?」
アマンダは、ハッとして息を飲んだ。
避けて……逃げている。自分が? あの子から?
「……まさか。わたくしが、恐れていると?」
「ええ。傷つくのをね」
リオニアの声が、少しだけ優しくなった。
「一度、酷い裏切りにあったものね。婚約者に、公衆の面前で……だから、もう誰も心のテリトリーに入れたくない。自分を『仕事人間』という鎧で守って、安全地帯から出たくない」
「……」
「でもね、アマンダさん。ゲオルグはレグルスとは違うわ。あの子は、私とアマンダさんが育てた男よ? 貴女が一番、あの子の誠実さを知ってるんじゃない?」
アマンダは、膝の上で拳を握りしめた。
痛いところを突く。
リオニアはいつもそうだ。土足で人の心に踏み込んできて、散らかっている感情を強引に整理していく。
「……わかっていますわ。あの子が良い子だということは」
アマンダは、絞り出すように言った。
「だからこそ、困るのです。あの子は次期辺境伯。将来、有力な貴族の娘と結婚して、領地を盤石にしなければならない。……わたくしのような、行き遅れで、傷物の女なんかにうつつを抜かしている場合ではありませんのよ」
「出た出た、自己評価の低さ」
「事実ですわ!」
「事実なもんですか。アマンダさんは誰よりも魅力的よ。それは私が一番知ってるわ。あの日、馬車に一緒に乗ってくれて、私がどれほど嬉しかったと思う?」
「リオニアさん……」
「それにアマンダさんは今やこの領地の心臓よ。誰よりも賢くて、強くて、美しい。ゲオルグが選ぶ相手として、これ以上の適任がいる?」
リオニアはニカっと笑った。
「もしゲオルグが本気なら、理屈なんて、力技でねじ伏せてくるはずよ。……それとも、試してみる?」
「試す……?」
「そう。あの子の覚悟が本物かどうか。その面倒くさい理屈攻めに、あの子がどこまで耐えられるか」
リオニアは楽しそうに、悪魔の囁きをした。
「逆に受けて立つのよ。『私を落としたければ、相応の覚悟を見せなさい』ってね。……氷の財務顧問らしく」
アマンダは、ハーブティーを一気に飲み干した。
熱い液体が喉を通り、胃の腑に落ちる。
それが、妙な闘争心に火をつけた。
(……そうですわね)
逃げ回るのは性に合わない。
相手がその気なら、完膚なきまでに論破して、その淡い恋心を粉砕してやる。
それが大人の、そして師としての責任だ。
「……わかりましたわ。そこまでおっしゃるなら、あの子の勘違いを、わたくしが正して差し上げます」
「くくっ、そうこなくっちゃ」
リオニアは、これから始まる面白い見世物を想像するように、意地悪く笑った。
*
数日後の早朝。その機会は、すぐに訪れた。
城のエントランスホールは、いつもと違う緊張感に包まれていた。
ゲオルグが、王都の商会との直接交渉のため、視察団を率いて出発する日だ。
アマンダは、財務顧問として見送りの列に加わっていた。
表情は引き締まり、服装も、隙のない濃紺の執務服。
どこからどう見ても、仕事相手を見送る態度だ。
(さあ、いらっしゃいゲオルグ様。上司として、激励の言葉をかけて差し上げますわ)
アマンダは心の中でリハーサルをした。
『道中お気をつけて。成果を期待しております』
これだ。これ以外の言葉は必要ない。
旅装束に身を包んだゲオルグが、父やジークハルトとの挨拶を終え、こちらに向かってくる。
アマンダは背筋を伸ばした。
「アマンダ先生」
彼の声は、いつものように落ち着いていた。
だが、その瞳は燃えている。
周囲の視線など気にも留めず、真っ直ぐにアマンダだけを見ている。
「ご出発ですね、ゲオルグ様」
アマンダは先手必勝とばかりに、事務的な口調で切り出した。
「今回の交渉は難航が予想されます。資料はすべて馬車に積んでおきました。移動中に必ず目を通してくださいまし。特に第三条項の……」
「アマンダさん」
ゲオルグが、名前を呼んだ。
「先生」という敬称なしで。
それだけで、アマンダの展開していた上司と部下という関係性にヒビが入る。
「……公の場ですわ、ゲオルグ様。礼節を」
「形式的な話はもう十分です」
ゲオルグは、一歩踏み込んできた。
近い。
アマンダは思わず後ずさりそうになる足を、意志の力で縫い止める。
「俺がいない間、貴女に無理をさせないか、それだけが心配です」
「ご心配には及びません。わたくしは自分の管理くらい完璧にできますわ」
「嘘ですね。貴女は仕事に熱中すると食事も睡眠も忘れる」
彼は、苦笑しながらも、その瞳から熱を消さない。
「……王都での交渉、必ず成功させてきます。俺が、次期辺境伯として、そして貴女に相応しい男だと証明するために」
「……職務上の、という意味ですわね?」
「それも含みますが、それだけではありません」
ゲオルグは、逃がさないと言わんばかりに、さらに一歩踏み込んだ。
周囲の騎士たちが、何事かとこちらをチラチラ見ている。
まずい。このままでは外堀を埋められる。
「ゲオルグ様。戯れ言はそのくらいに……」
「戻ったら、時間をください」
彼はアマンダの言葉を遮り、はっきりと言った。
「財務の報告だけではありません。……俺は、貴女という女性に、一人の男として挑みたい」
「……は?」
「俺の覚悟を、貴女に伝えるための時間をください」
アマンダは口をパクパクさせた。
リオニアに入れ知恵されたのか? いや、この子の性格だ、きっと聞いていたのだ。
この子は、宣戦布告をしている。
財務の師である自分に、男として勝負を挑むと。
「……生意気ですわよ」
アマンダは、精一杯の虚勢を張って、冷たく言い放った。
「わたくしを口説こうだなんて、百年早いですわ。貴方のような子供に、この私が靡くとでも?」
「子供かどうか、戻ったら確かめてください」
ゲオルグは、アマンダの拒絶を、まるで心地よい春風のように受け流して笑った。
その笑顔は、かつての可愛い少年のものでも、将来を不安に思う青年のものでもない。
自信に満ちた、不敵な笑みだった。
「逃げないでくださいね、先生」
彼は最後にそう囁くと、さっと身を翻し、馬上の人となった。
「出発!」
号令と共に、馬列が動き出す。
アマンダは、その場に立ち尽くしていた。
心臓が、早鐘を打っている。
顔が熱い。悔しいけれど、どうしようもなく熱い。
(……なんですの、あれ)
全然、論破できていない。
むしろ、言質を取られたのはこちらではないか。
「逃げないでくださいね」だなんて。
逃げる? このアマンダ・ヴァインベルクが?
「……上等ですわ」
アマンダは、遠ざかるゲオルグの背中を睨みつけた。
その瞳には、かつて王都で王子を見限った時と同じ、強い光が宿っていた。
ただし今回は、怒りではなく、受けて立つ覚悟の光だ。
「そこまで言うなら、見せてごらんなさい。……貴方の『覚悟』とやらを」
ただでは落とされない。
徹底的に検分し、査定し、審査してやる。
もし少しでも期待外れだったら、即座に不合格の烙印を押してやる。
アマンダは、拳を握りしめた。
これはアマンダの理性と、ゲオルグの熱情の、負けられない戦いだ。
遠くで見守っていたリオニアが、満足そうにニヤリと笑ったのが見えた気がした。
春の風が、アマンダの頬を撫でていく。
それは、嵐の予感を含んだ、激しくも甘美な風だった。




