3.雪解けの日
ゲオルグが王都への視察に旅立ってから、三週間が過ぎた。
辺境伯領の城内は、いつものように騒がしく、そして平和だった。
中庭からは、リオニアの怒号と、フリードリヒやヒルダの悲鳴が混じった訓練の声が聞こえてくる。
厨房からは、夕食の仕込みをする活気ある音が響く。
そして行政棟の奥、特別財務顧問室では。
「……静かすぎますわ」
アマンダは、羽ペンを置いて小さく呟いた。
執務室は、完璧に整頓されている。
書類の山は片付き、インク壺の位置も定位置からミリ単位でズレていない。
ノイズがない。邪魔が入らない。
本来なら、最も集中でき、生産性が向上するはずの環境だ。
それなのに、なぜか筆が進まない。
まるで、計算式の一部が欠落したまま、強引に答えを出そうとしているような、気持ちの悪い違和感が拭えないのだ。
(効率が落ちていますわね。……原因は明白。優秀な助手が不在だからですわ)
アマンダは自分にそう言い聞かせた。
ゲオルグがいない。ただそれだけのことだ。
彼がいれば、膨大な資料の整理も、複雑な計算の検算も、阿吽の呼吸でこなしてくれた。
彼が淹れる紅茶は、アマンダの好みの濃さを完璧に把握していた。
彼が部屋にいるだけで、張り詰めた空気が少しだけ柔らかくなるような気がしていた。
「……優秀な『部下』がいなくなるというのは、これほど不便なものなのですわね」
誰に言い訳をしているのか。
アマンダは眉間を揉みほぐし、再びペンを執った。
その時、コンコン、と軽快なノックの音がした。
「失礼します、アマンダ先生」
入ってきたのは、次男のフリードリヒだった。
手には書類の束を抱え、相変わらずの優男風の笑みを浮かべている。
「あら、フリードリヒ様。予算委員会への提出資料なら、もうできておりますわよ」
「さすが仕事が早い。……ですが今日は、それとは別に兄上からの定期報告書も預かってきました」
フリードリヒは封蝋された手紙をアマンダの机に置いた。
『定期報告』。
ゲオルグは旅先からも、数日おきに交渉の進捗や王都の情勢を詳細に記した手紙を送ってきていた。
アマンダはそれを、あくまで業務報告として受け取り、事務的に処理していた……つもりだ。
「……拝見します」
アマンダはペーパーナイフで封を切る。
中には、几帳面な文字でびっしりと書かれた報告書が入っていた。
商会との交渉は、難航しつつも着実に進んでいるようだ。
彼独自の視点――アマンダが教え込んだ論理だけでなく、相手の感情や立場を慮る嗅覚――が、功を奏しているらしい。
「兄上、頑張っているようですね」
フリードリヒが、机の向こうから覗き込むように言った。
「ええ。予想以上の成果ですわ。これなら、こちらの要求の八割は通るでしょう」
「八割、ですか。兄上は十割、いや十二割を目指しているようですが」
「……十二割?」
「ええ。『必ず証明してみせる』と意気込んでいましたからね。……何を証明するのかは、知りませんが」
フリードリヒは、意味ありげにニヤリと笑った。
この兄弟は、揃いも揃って人を試すような目をする。
「……財務顧問として、彼の成果を正当に評価するだけですわ」
「評価、ですか。アマンダ先生の採点基準は厳しいですからねぇ。兄上も大変だ」
フリードリヒは肩をすくめた。
「でも、先生。兄上は本気ですよ」
「……何の話ですの?」
「とぼけないでください。兄上が何のために王都へ単身乗り込んだのか。……ただの視察なら、僕や補佐官でも務まります。でも兄上は自ら志願した」
フリードリヒの声のトーンが、少しだけ真面目なものに変わった。
「兄上は、自分を変えたかったんです。……先生の背中を追いかけるだけの生徒じゃなく、貴女の隣に並び立つ、一人前の男になるために」
「……」
「弟の僕が言うのもなんですが、兄上は一度噛みついたら離さないですよ。先生がいくら氷の壁を作っても、きっと砕かれます」
アマンダは報告書を持つ手に力を込めた。
紙がカサリと音を立てる。
「……わたくしは、ただの教師。彼は次期領主。その線引きを超えることは、領地の秩序に関わります」
「秩序、ねえ。……レオニス先生と一緒にいて、よくそんなことが言えますね」
フリードリヒは笑いながら出口へと向かった。
「ま、外野は黙って立ち去りますね。頑張ってください」
パタン、と扉が閉まる。
アマンダは、残された手紙に視線を落とした。
報告書の最後には、業務とは関係のない一文が添えられていた。
『追伸。王都の店で、貴女に似合いそうな万年筆を見つけました。……土産話と一緒に、持ち帰ります』
たったそれだけの一文。
それなのに、文字から彼の体温が伝わってくるようで、アマンダは慌てて手紙を裏返した。
(……調子が狂いますわ)
アマンダは深く椅子に沈み込んだ。
認めたくないけれど、フリードリヒの言う通りなのかもしれない。
自分は、彼が帰ってくるのを待っている。
審査員として? 上司として?
いや、もっと別の、名前をつけるのが怖い感情で?
*
そして、その日は突然やってきた。
予定よりも三日早い、夕暮れ時のことだった。
城門の方から、大きな歓声と角笛の音が響いた。
執務室にいたアマンダは、弾かれたように顔を上げた。
廊下が騒がしくなる。
「若様がお戻りだ!」
「ゲオルグ様のご帰還だぞ!」
アマンダは立ち上がり、窓から下を覗き込んだ。
夕日を背に、砂埃を上げて帰還する騎士団の一行。
その先頭で、愛馬の手綱を握る青年の姿。
長旅の疲れも見せず、出迎える領民たちに手を振る姿は、出発した時よりも一回り大きく、そして堂々として見えた。
(……帰ってきた)
胸の奥が、ドクリと大きく鳴った。
アマンダは無意識のうちに鏡の前に行き、髪の乱れを直し、襟元を整えていた。
ハッとして手を止める。
何をしているの、わたくしは。
ただの業務報告を受けるだけでしょう?
深呼吸をして、表情筋を固定する。
「……冷静に、アマンダ。いつも通りに」
アマンダはエントランスホールへと向かわなかった。
彼が真っ先に向かうのは、辺境伯への報告だ。
自分は、この部屋で待っていればいい。
それが財務顧問としての正しい立ち位置だ。
しかし。
十分経ち、二十分経っても、ゲオルグは現れなかった。
辺境伯への報告が長引いているのだろうか。
それとも、旅の疲れで休んでいるのか。
(……自惚れていましたわね)
アマンダは自嘲した。
真っ先に自分のところへ来るなんて、そんなことを予想して。
彼は次期領主。優先すべきは公務だ。
そう自分を納得させて、再び書類に向かおうとした時。
ノックもなしに、扉が開かれた。
「――ただいま帰りました、アマンダ先生」
勢いよく入ってきたのは、ゲオルグだった。
まだ旅装束のままだ。マントには砂埃がつき、髪も少し乱れている。
息を切らせているところを見ると、走ってきたのだろうか。
「……ゲオルグ様」
アマンダは椅子から立ち上がった。
努めて冷静な声を出す。
「お帰りなさいませ。……ノックくらい、なさってください」
「すみません。逸る気持ちを、抑えられなくて」
彼は悪びれもせず、扉を閉めて鍵をかけた。
カチャリ、という金属音が、逃げ道を塞がれた合図のように響く。
「……辺境伯様へのご報告は?」
「済ませてきました。簡潔に、最優先事項だけを」
「そうですか。では、財務顧問としての報告を伺いますわ。……座ってくださいまし」
アマンダは対面の椅子を勧めた。
いつもの定位置。教師と生徒の距離。
だがゲオルグは座らなかった。
彼はツカツカと歩み寄り、アマンダの机の前に立った。
そして、一通の分厚い羊皮紙の束を、ドン、と置いた。
「これが、王都商会との新たな通商条約書です」
アマンダは書類を手に取った。
素早く目を通す。
……信じられない。
アマンダが作成した原案よりも、さらに有利な条件。
関税の撤廃だけでなく、王都における優先的な販売権、さらには向こう十年間の価格保証まで取り付けられている。
「……どうやって? あの強欲な商会長が、こんな条件を飲むはずが……」
「彼らが裏で抱えていた在庫リスクと、王都貴族との癒着の証拠。……それらを材料に、少し『話し合い』をしました」
「……脅迫、なさいましたの?」
「交渉、と言ってください。……アマンダ先生の教え通り、数字という武器と、少しばかりのハッタリを使って」
ゲオルグはニヤリと笑った。
その笑顔は、もはや少年のものではない。
狡猾で、頼もしく、そして危険な香りを纏った大人の男の顔だった。
「……完璧ですわ」
アマンダは認めざるを得なかった。
財務顧問として、これ以上の成果はない。百点満点どころか、百二十点だ。
「これなら、文句なしに合格でしょう」
「財務の試験としては、ね」
ゲオルグは、机に両手をついて身を乗り出した。
顔が近い。
アマンダは思わず背もたれに体を押し付ける。
「約束通り、個人的な時間をいただきます」
「……お疲れでしょう。今日はもう休んで、また後日……」
「今です。……一ヶ月、待ったんです。これ以上は、一瞬だって待てません」
彼の瞳が、アマンダを捕らえて離さない。
逃げられない。
「アマンダさん。……俺は、証明してきました。貴女の隣に立つ資格がある男だと」
「……仕事の成果と、それは別問題ですわ」
「同じです。貴女は仕事が恋人だと言った。なら、その仕事で貴女を上回る成果を出せば、俺を見る目も変わるはずだ」
なんて強引な論理。
でも、反論できない。
「……ゲオルグ様。冷静になってくださいまし」
アマンダは最後の理性を総動員して、言葉を紡いだ。
「わたくしは二十四です。貴方は十九。五つも違います。貴方は次期辺境伯。これからもっと相応しい、若くて家柄の良い令嬢と出会うはずです」
「年齢がなんだと言うんです。家柄? 貴女は公爵令嬢だ。それに……」
「わたくしは!」
アマンダは声を張り上げた。
そうでもしないと、流されてしまいそうだったから。
「わたくしは、一度捨てられた女ですわ! 見世物のように婚約破棄され、逃げるように王都を去ってここまで来ました。……もう、あんな思いはしたくないのです。誰かに期待して、裏切られて、惨めな思いをするのは……!」
言ってしまった。
心の奥底に隠していた、弱音。
リオニアにすら見せなかった、臆病な本音。
沈黙が落ちる。
アマンダは俯いた。
これでいい。
こんな面倒くさい、傷ついた年増の女なんて、幻滅して離れていくはずだ。
しかし。
次に聞こえたのは、ため息でも、失望の言葉でもなかった。
カツ、カツ、と机を回り込む足音。
そして。
ふわ、と温かいものに包まれた。
「……え?」
アマンダは目を見開いた。
ゲオルグが、椅子に座ったままのアマンダを、背後から抱きしめていた。
力強く、でも壊れ物を扱うように優しく。
「……誰が、貴女を裏切ると?」
耳元で、低い声が響く。
「俺を、他の男と一緒にするんですか?」
「……っ」
「俺はずっと見てきました。貴女が七年間、この領地のためにどれだけ尽くしてくれたか。どれだけ誠実に、戦ってきたか。……俺が惚れたのは、貴女のその誇り高い魂です」
「……」
「傷ついたなら、俺が癒やします。守りが堅いなら、何度でも挑んでこじ開けます。……貴女が言ったんですよ。俺は狼だって。一度噛みついた獲物は、死んでも離さない」
アマンダの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
計算外だ。
こんなに真っ直ぐで、熱くて、理屈なんて通用しない感情をぶつけられるなんて。
「生意気、ですわ……」
アマンダは震える声で呟いた。
「年下のくせに……教え子のくせに……」
「ええ、生意気な生徒です。……それで? 先生の採点は?」
ゲオルグは腕の力を少し緩め、アマンダの顔を覗き込んだ。
その瞳は、自信と、不安と、そして溢れんばかりの愛おしさに揺れていた。
アマンダは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠そうともせず、彼を見つめ返した。
もう、理屈の壁は粉々だった。
氷は溶け、春の洪水となって溢れ出していた。
「……不合格、と言ったら?」
「諦めません。合格をもらえるまで、一生かけて口説き続けます」
「……はぁ」
アマンダは、大きく息を吐き、そして観念したように笑った。
それは、七年前にリオニアに見せた笑顔と同じ、すべてから解放されたような、心からの笑顔だった。
「……計算外ですわ。根負けです」
「それは……」
「合格よ。……この、生意気な狼さん」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アマンダの唇は塞がれていた。
紅茶の香りと、春の風の匂いがした。
北の辺境に、今日も春風が吹いている。
氷の才女と若き狼の物語は、これからも騒がしく、そして温かく続いていくのだ。
氷の才女と若き狼 了




