2-4 交流
午後の授業が終わり、学院内に終業を知らせる鐘が鳴り響いた。
教室では生徒たちが帰り支度を始め、廊下にも少しずつ賑やかな声が広がっていく。
寮へ戻る者、友人と寄り道をする者、家路を急ぐ者。それぞれが思い思いの放課後を過ごし始めていた。
学院の正門を抜け、クロードとミアは並んで通学路を歩いていた。
周囲には同じように帰宅する生徒たちが行き交い、道沿いの店も夕方の賑わいを見せ始めている。
「今日はどうだった? 学院には少し慣れた?」
「別に。普通」
「そっか。まあ、まだ始まったばかりだしね」
クロードは穏やかに笑いながら答えた。
ミアはその隣を歩きながら、ふと前方に目を向ける。
少し先に、小柄な少女が一人で歩いていた。
少女は時折隣を向いては何かを話し、一人で頷いたり、笑ったりしている。
しかし、その隣には誰もいない。
「兄さん」
「ん?」
「あの子、さっきから何してるの?」
クロードも前方へ目を向けた。
少女は何もない空間に向かって、楽しそうに話しかけている。
「誰かと話してるのかな」
「誰もいないけど」
「そうだね」
二人がそんな会話を交わしている間も、少女の独り言は続いていた。
「ノノ、ちゃんと前を見て歩きな。さっきからよそ見ばっかりしてるよ」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。ちゃんと見てるもん」
「ほんとに? 昨日だって転びそうになってたでしょ」
「昨日はたまたまだよ!」
ノノは隣を歩く何者かに、少しだけ頬を膨らませた。
そこにいたのは、彼女にしか見えない姉のナナだった。
ナナは呆れたように笑いながらも、妹の隣を歩いている。
「もう、あんたは昔から変わらないんだから」
「えへへ……」
そのときだった。
道の端に転がっていた小石に、ノノの靴先が引っかかった。
「ひゃあっ!?」
身体が前につんのめり、抱えていた鞄が大きく揺れる。
なんとか転倒は免れたものの、鞄の留め具が外れ、中に入っていた教科書や筆記具が地面に散らばってしまった。
「あ、あわわ……!」
ノノは慌ててしゃがみ込み、散らばった物を拾い始めた。
「ほら、言ったそばから!」
ナナが腰に手を当てる。
そんな様子を、すぐ後ろまで来ていたクロードとミアが見ていた。
「何してるの?」
突然声をかけられ、ノノは肩を跳ねさせた。
「ひゃっ! あ、えっと……す、すみません!」
「別に謝らなくてもいいけど」
「そ、そうですよね……えへへ……」
ノノは困ったように笑いながら、教科書を鞄にしまう。
ミアはその様子をじっと見ていた。
「あなたみたいな人、嫌い」
「……えっ?」
ノノの手が止まる。
「周りに助けてもらわないと、まともに生きていけないような人。見てて苛々する」
「ミア、ちょっと言い過ぎだよ」
クロードが静かに口を挟む。
しかし、ミアは特に気にした様子もなく、ノノを見下ろしていた。
「あ、あはは……そう、ですよね……」
ノノは曖昧に笑い、再び落ちた物を拾い始めた。
その隣で、ナナが眉をひそめる。
「ちょっと、何あの言い方。ノノ、もうちょっと言い返しな」
「お、お姉ちゃん……大丈夫だよ……」
「大丈夫じゃないでしょ。あんた、何も悪いことしてないじゃない」
「で、でも……」
小さな声で答えるノノを、ミアが不思議そうに見つめた。
「さっきから誰と話してるの?」
「えっ!? あ、いや、その……!」
ノノは慌てて口を押さえた。
しかし、ナナの方はまだ納得していない。
「まったく。あんたはすぐそうやって笑って済ませるんだから」
ナナは小さく息を吐いた。
次の瞬間、その姿がノノの身体へと重なる。
ノノの手から、拾いかけていた教科書が滑り落ちた。
俯いたまま動かなくなった少女を見て、クロードが一歩近づこうとする。
だが、その前に少女はゆっくりと顔を上げた。
「ねえ、あなた」
先ほどまでのおどおどした声とは、明らかに違っていた。
ミアが僅かに目を細める。
「何?」
「さっきから聞いてれば、随分な言い方じゃない?」
「事実を言っただけ」
「そう。じゃあ一つ聞くけど、この子があなたに何か迷惑をかけた?」
「別に」
「だったら、そこまで言う必要ないでしょ。苦手な相手がいるのは仕方ないけど、わざわざ傷つけることはないんじゃない?」
ミアは目の前の少女をじっと見つめた。
先ほどまで何を言われても笑っていた少女が、今は堂々と自分を見据えている。
「さっきと別人みたい」
「そう、別人だから」
「……は?」
ナナは腰に手を当て、二人へ向き直った。
「私はナナ。この子、ノノの姉よ」
「姉?」
「そう。事情があって、今はこの子の身体を借りてるの」
「なるほど。魔法による憑依ってことかな」
クロードが興味深そうに口を開く。
ナナは頷いた。
「うん。簡単に言えばそんなところ」
「へえ、随分珍しい能力だね」
「そう?」
クロードは少女の様子を観察していた。
姿も声も同じはずなのに、話し方や表情、立ち振る舞いまで別人のように変わっている。
一方、ミアは腕を組んだまま、興味のなさそうな顔をしていた。
「それで、わざわざ出てきて文句を言いに来たの?」
「そう。うちの妹が馬鹿にされてるんだもの。黙ってられないでしょ」
「そう」
ナナは最後にもう一度ミアを見た。
「とにかく、もう少し言い方を考えてよ。ノノはああいう子だから、何を言われても笑って済ませちゃうんだから」
そう言うと、ナナは足元に残っていた教科書を拾い、鞄へしまった。
そして再び俯くと、ほんの一瞬、少女の身体から力が抜ける。
次の瞬間には、何事もなかったかのように顔を上げていた。
「……あれ?」
ノノは不思議そうに辺りを見回した。
先ほどまで拾っていたはずの教科書が、いつの間にか鞄の中に収まっている。
「……あれ? 私……」
「戻ったの?」
ミアの問いかけに、ノノはきょとんとした。
「えっ?」
「お姉さん」
「あっ……!」
ノノは何かを察したように、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! お姉ちゃん、何か失礼なこと言いませんでしたか……?」
「別に」
「そ、そうですか……よかったぁ……」
ノノはほっと胸を撫で下ろした。
クロードが少し不思議そうに尋ねる。
「もしかして、さっきのことは覚えてないの?」
「は、はい……。お姉ちゃんに身体を貸してる間は、私、何も分からなくなっちゃうんです……」
「そうなんだ。不思議な魔法だね」
ノノは照れくさそうに笑った。
「えへへ……でも、お姉ちゃんがいてくれるので……」
ミアはその言葉に僅かに眉を動かした。
「つまり、あなたの魔法はお姉さんに助けてもらうためのもの?」
「えっ? あ、いえ……他の人も呼べるんですけど……」
「結局、自分では何もできないんだ」
「そ、それは……」
ノノは言葉を詰まらせた。
ミアは小さく息を吐く。
「そんな魔法、ただの飾りじゃない」
その瞬間、ノノの表情が変わった。
俯きかけていた顔を、ゆっくりと上げる。
「……飾りじゃ、ないです」
小さな声だった。
それでも、先ほどまでの曖昧な返事とは明らかに違っていた。
ミアがノノを見る。
「この魔法がなかったら、私はお姉ちゃんとお話しできません」
ノノは胸元でぎゅっと手を握りしめた。
「私、一人じゃ何もできないことが多いですし……お姉ちゃんに助けてもらってばっかりです。でも……」
一度だけ言葉を詰まらせ、それでも目を逸らさずに続ける。
「この魔法は、私とお姉ちゃんを繋いでくれる大切なものなんです。だから……飾りなんかじゃ、ありません」
言い終えると、ノノは緊張したように唇を結んだ。
隣ではナナが少し驚いた顔をしていた。
しかし、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべる。
「そうよ。それでいいのよ、ノノ」
その声に、ノノは少しだけ表情を和らげた。
ミアはすぐには返事をしなかった。
さっきまで謝ってばかりだった少女が、初めて、まっすぐ言い返してきた。
ミアはノノの目から視線を外さなかった。
「そう」
ミアは短く答えた。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「さっきは、言い過ぎた」
「えっ?」
思いがけない言葉に、ノノが目を丸くした。
「それだけ」
「あっ……い、いえ! 私も、急に大きな声を出しちゃって……!」
ノノは慌てて頭を下げる。
その様子を見て、クロードが小さく笑った。
「ははっ。二人とも、もう謝らなくていいんじゃないかな」
ミアはクロードを一瞥すると、再びノノへ視線を向けた。
「名前は?」
「えっ? あ、ノノです。ノノ・エルミナ……」
「ミア」
「え?」
「私の名前。ミア」
「あっ、は、はい! ミアさん!」
ノノが嬉しそうに笑う。
ミアはそれ以上何も言わず、歩き出した。
「じゃあ、僕たちはこれで。また学院でね」
クロードが軽く手を振り、ミアの後を追う。
「は、はい! さようなら!」
ノノも小さく手を振った。
二人の背中が遠ざかるのを見送りながら、ほっと息を吐く。
その隣で、ナナが満足そうに笑っていた。
「やればできるじゃない、ノノ」
「えへへ……ちょっと怖かったけど……」
「よく頑張ったね。ちゃんと言えたじゃない」
ノノは嬉しそうに頷いた。
少し先を歩くミアは、ふと後ろを振り返った。
ノノは相変わらず、誰もいない場所に向かって楽しそうに話している。
「変な子」
そう呟いたミアの表情には、先ほどまでの冷たさはなかった。
「ん? 何か言った?」
「何でもない、兄さん」
ミアは再び前を向き、クロードの隣へと歩み寄った。
一方、男子寮では、授業を終えた生徒たちがそれぞれの部屋へと戻っていた。
学院の敷地内に建てられた男子寮は、何階にもわたって個室が並ぶ大きな建物だ。各階には談話用の共用スペースが設けられており、廊下では生徒同士が立ち話をする姿も見られる。
ユエルとソウタも、並んで廊下を歩いていた。
その途中、ソウタがふと足を止めた。
「なあ、ユエル。あれって何?」
ソウタが指差したのは、廊下の壁に取り付けられた小さな水晶だった。淡い光を放つそれは、一定の間隔で壁に並んでいる。
「魔法灯だが」
「まほうとう?」
「照明だ。暗くなると光が強くなる」
「へえ、これが照明なのか。電気とかいらないんだね」
「電気? 魔法を使ってるからな」
ソウタは興味深そうに水晶を覗き込んだ。
触れてみようと手を伸ばすが、途中で思い直して引っ込める。
「すごいな。こんなの初めて見たよ」
「そんなに珍しいものでもないぞ」
「そうなんだ」
ユエルは不思議そうにソウタを見た。
ソウタは慌てて笑ってみせる。
「いや、ほら。俺、あんまりこういうのに詳しくなくてさ」
「そういえば、入学したときも色々知らなかったな」
「はは……まあ、色々あって」
ソウタは曖昧に笑いながら歩き出した。
ユエルもそれ以上は追及せず、その隣を歩く。
やがて二人が談話室の前を通りかかると、中から声が聞こえてきた。
「あれ、君たちも寮生?」
声をかけてきたのは、談話室の椅子に腰を下ろしていた男子生徒だった。
柔らかな笑みを浮かべた彼は、二人を見ると立ち上がった。
「俺はカイル。二組なんだ。よろしく」
「ユエル。一組だ」
「俺はソウタ。同じく一組。よろしく!」
カイルは二人と軽く挨拶を交わすと、談話室の空いている椅子を指差した。
「二人とも、よかったら少し話していかない?」
「どうする、ユエル?」
「まあ、少しなら」
二人は談話室に入り、カイルの近くに腰を下ろした。
窓の外には学院の校舎が見え、夕日に照らされた中庭を生徒たちが歩いている。
「二人はもう学院には慣れた?」
カイルが尋ねる。
「俺はまだかな。覚えることが多くてさ」
「そうだよな。授業も結構難しいし」
「俺はうるさい奴が多くて、少し困ってる」
ユエルが何気なく答えると、ソウタが笑った。
「それ、アルレアのこと?」
「まあ、あいつもそうだな」
「アルレア?」
「同じクラスの女の子だよ。明るくて、よく喋るんだ」
「へえ、そうなんだ」
「昔からあんな調子だからな」
ユエルがそう付け加えると、カイルは興味深そうに頷いた。
「昔からの知り合いなんだ」
「ああ」
「いいな。知ってる人が一緒だと心強そうだね」
ソウタが笑って言うと、ユエルは小さく肩をすくめた。
「静かにしてくれればな」
その返事に、二人が笑った。
初めてまともに話す相手だというのに、会話は不思議と途切れなかった。カイルは二人の話をよく聞き、時折自分の話も交えながら、自然と会話を広げていく。
「せっかく同じ寮なんだし、これからも気軽に話そうぜ」
「うん。俺もまだ知り合いが少ないから、助かるよ」
「ユエルもどう?」
「構わない」
「よかった。じゃあ、今度は他の奴らも誘ってみるか」
ソウタは笑って頷いた。
ユエルも特に異論はないようで、椅子の背もたれに身体を預けている。
窓の外では、夕日が学院の建物をゆっくりと茜色に染め始めていた。
三人の会話は、その後もしばらく続いた。
同じ頃、女子寮ではアルレアがニーアの部屋を訪ねていた。
扉を軽く叩くと、中から聞き慣れた声が返ってくる。
「どうぞ」
扉を開けたアルレアは、明るい声を上げた。
「ニーア! 遊びに来たよ!」
ニーアは机から顔を上げ、アルレアを見ると少しだけ表情を緩めた。
机には整理途中のノートと、二つのカップが置かれている。
アルレアはそれに気づき、不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 誰か来てたの?」
「ううん。アルレアの分」
「えっ、なんで分かったの?」
「昨日も来たでしょ」
「あはは、そっか!」
ニーアは小さく笑い、片方のカップを差し出した。
「ありがと!」
アルレアは嬉しそうにカップを受け取り、椅子に腰を下ろした。
孤児院にいた頃から、こうしてニーアのそばで過ごす時間は珍しくなかった。ただ、今はそれぞれに自分の部屋がある。
アルレアはお茶を一口飲み、部屋を見回した。
「それにしても、ニーアの部屋って綺麗だね~」
「まだ物が少ないから」
「私の部屋、もうちょっと散らかってるかも」
「後で片づけようか?」
「ほんと!? ありがと!」
ニーアは頷き、カップに口をつけた。
アルレアは椅子の背もたれに身体を預け、満足そうに息を吐く。
「なんか、いいね。こういうの」
「そう」
「一人部屋って初めてだから、ちょっと新鮮なんだよね。自分だけの部屋って感じがして!」
ニーアは小さく頷いて、湯気の立つカップを両手で包んだ。
窓から差し込む夕日が、部屋の床を淡く照らしていた。
しばらく静かな時間が流れ、アルレアがふと口を開いた。
「でもさ、ちょっと静かすぎるかも」
「そう?」
「うん。孤児院にいた頃って、いつも誰かの声が聞こえてたじゃん?」
「うん。朝から賑やかだったし」
「そうそう! 誰かが寝坊したり、喧嘩したり!」
懐かしい日々を思い出し、二人は顔を見合わせて笑った。
やがてアルレアは窓の外へ目を向け、ぽつりと言った。
「でも、ニーアが一緒でよかった」
ニーアがアルレアを見る。
「一人だったら、ちょっと寂しかったかもしれないし」
アルレアはそう言って、いつものように笑った。
ニーアは少しだけ目を細める。
「私も」
短い返事だったが、アルレアにはそれだけで十分だった。
「へへっ。じゃあ、これからもいっぱい遊びに来るね!」
「うん。いつでも来て」
アルレアは嬉しそうに頷き、再びカップを手に取った。
「そうだ! 明日、授業終わったら一緒に食堂行こうよ!」
「いいよ」
「あ、ユエルたちも誘おっか!」
「またいつものメンバーね」
「その方が楽しいじゃん!」
ニーアは小さく笑い、頷いた。
「うん」
ニーアは楽しそうに話すアルレアを、穏やかな表情で眺めていた。
窓の外では夕日がゆっくりと沈み始め、学院の一日が終わろうとしていた。




