プロローグ
これはとある過去のできごと……
忘れることのできない思い出である。
注意
この物語はフィクションです。
縦読みを推奨しています。
秋空を鮮やかに染める夕焼けが窓から差し込み、人気のない放課後の教室を赤く染めあげる。
その夕焼けに照らされたあいつの横顔に俺は形容しがたい不安を覚えた。
短く切り揃えられた茶髪に優しい印象を与える柔らかい目元、鼻筋はすっとしている爽やかなイケメン、蒼井楓。
俺と同じ野球部に所属しているもう一人のエース。所謂ライバルって奴だ。
「よぉ、来てくれたのか」
「そりゃあ、呼び出されたからな」
窓から夕日を眺めていた楓が教室に入ってきた俺に気づく。
俺へと顔を向けた楓の表情を見た瞬間、俺は心臓を強く握りしめられたような強い痛みと息苦しさを感じた。
教室に入る前に捩じ伏せたはずの不安が胸の奥から溢れ出す。
いや、まさか楓に限ってそんなはずはないと自分に言い聞かせながら、ゆっくりと楓に近づいていく。楓に向かって一歩踏み出すたびに足取りが重くなっていくのがわかる。
でもあるはずがない。自分の不安は杞憂なのだと、必死に自分を奮い立たせる。
「話しってなんだよ? くだらない相談だったら怒るぞ」
「俺、野球やめる」
「はっ?」
嫌な予感が当たった。当たってしまった。
本当は気づいていた。教室に入って楓の横顔を見た瞬間、理解してしまった。
それでも認めたくなかった。
……俺はずっと楓の背中を追いかけてきたから。
「聞こえなかったか?」
楓の顔を真っ直ぐに見ることができない。唇が、握りしめた拳が震えはじめる。
そんな俺を真剣に見つめ、楓はもう一度口を開いた。
「野球をやめる。プロになるのは諦める」
世界がぐらつく。
脳が楓の言葉を必死に拒否しようとする。
全身から血が抜けるような寒気を感じ、まるで世界にただ独り取り残されたかのような絶望感を覚えた。
信じたくなかった。信じられなかった。
けれど、楓の口から告げられたのは夢を諦めるという言葉だった。
脳が徐々に現実を受け止め、俺は体の震えに負けないように制服のズボンを握りしめる。
「諦めるってなんだよ」
体の震えが止まらない。
それと同時に、胸の奥でダムが決壊するかの如く激しい感情の波が沸き起こる。
さっき感じたものとは違う。これは……なんだ?
よく知っているもの。
――怒りだ。
俺は勢いよく楓に近づき、その胸ぐらを両手で掴みあげた。さっきまで冷えきっていた体に溢れるように熱が込みあげる。
そして俺は楓を睨みつけた。楓の真意を問いただすために。
「お前の夢はそんな簡単に捨てられるもんなのかよ!」
「…………」
楓は俺から目を逸らして口を噤む。もう何も言うことはないと、そう示すように。
「なんで何も言わないんだよ! 辛いことも苦しいこともいつだって一緒に乗り越えてきたはずだろ!? なぁっ!!」
俺の叫びに楓の顔が歪む。
それは些細な変化で一瞬のことだったけれど、ずっと一緒にいた俺が見逃すはずがない。楓も苦しんでいる。
そんな楓を見て少しずつ頭が冷えていく。
すると怒りが渦巻いていた胸中に別の感情が顔を出しはじめた。悲しみとか寂しさとか、たぶんそんなのだ。
自分の感情がわからなくなるほど心がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
それでも俺には言わなきゃいけないことがある。楓に伝えたいことが。
「俺は知ってる。お前が誰よりも努力していたことを」
楓と視線があった。涙が溢れてこぼれそうになる。
まだだ。まだ言いたいことは終わってない!
「そんなお前だから、俺は負けたくないって思ったんだ!!」
どうしようもないほど楓に憧れていたから。
言いきった。俺の手から力が抜ける。もう楓の顔を見ることができなかった。
「ごめん」
楓は俯きながら申し訳なさそうにそう言って、項垂れる俺の横を通り過ぎていく。
振り返ることもできず、立ち竦んでいた俺を置き去りにして教室の扉が閉まる。
信じたくない。悪い夢だと思いたい。
でも、頬を伝う雫がこれは現実なのだと強く主張する。
そして走馬灯のように、楓との練習風景や試合の光景が俺の脳裏を駆け巡った。
そこで気づく。俺が野球を続けていた理由に。
「もう依存なんてしてないつもりだったのに。いや、気づかないふりをしていただけか」
ぼんやりと窓の外を眺める。
色鮮やかな夕焼けが夜の訪れを告げようとしていた。
その光景が俺と楓の関係を表しているようで。瞳から溢れた涙が頬を伝い、俺だけが残る教室の床へと落ちる。
もうすぐ夜が来る。暗くて冷たい夜が。
週が明けた月曜日、楓は学校に来なかった。
どうやら親の都合で海外に引っ越したらしい。
楓ともう会えない。そんな気がして涙が溢れそうになる。
授業にも身が入らず、放課後になっても元気のない俺にクラスのみんなが心配して声をかけてくれる。
そんなみんなに俺は愛想笑いを返すのが精一杯だった。
俺は荷物をまとめ、足早に教室から出て職員室へと向かう。
くしゃくしゃになった退部届けをお世話になった先生に手渡すために。
ドアをノックして職員室に入ると、顧問の先生は直ぐに見つかった。先生に声をかけ退部届けを手渡す。
先生は何も言わずに退部届けを受け取ってくれた。きっと俺の表情を見て察してくれたのだろう。何も聞かれなかったことが、ただ有難かった。
先生に頭を下げ、職員室をあとにする。
……俺はもう二度と野球をすることはないだろう。楓のいないグラウンドは、俺にとって何の意味も持たないのだから。
最後まで閲覧ありがとうございます。
小説を書き始めたばかりの素人ですが、少しでも楽しんで頂けたら幸いです。




