死神の手
「……ハァハァハァ」
「マスター」
「平気だよ。平気さ。だから、歩こう」
地下の暗闇を、私とマスターはランタンの明かりを頼りに歩いていきます。
ランタンを持つマスターが前を照らしながら進み、私がその後ろをついていく形です。
ですが、マスターの呼吸がだんだん乱れていくのが後ろから見ていてわかりました。
無理もありません。ここ連日は私の修理に付きっ切りでろくに休めていないでしょうし、そうでなくても軽くない怪我もしているんです。その上で地下道を慎重に進んでいるのですから、その負担は計り知れません。
「少し休みましょう」
「そんな暇はないよ。僕たちが隠し通路から逃げたってことはすぐに気付かれる。追いつめられる前に、逃げないと」
さっきからこんなやり取りが何度も行われていますが、マスターは自分の意見を変える気は一切無いようでした。もう、体は限界だというのに。
「っと」
マスターが立ち止ります。明かりを照らした先には道が二本に分かれていました。
「次だ」
言うと、マスターは懐から一枚の紙を取り出して、何かを確認しています。
紙に描かれているのは地図のような図形ではなく文字列です。なんでも、暗号のようなものになっていて、書いてある通りに進まなければ出口には着かないんだとか。
技師であれば簡単に読み解けるそうなのですが、知識のない私では理解することができません。なので、疲労しているマスターの横で、ただそれを見ているだけという歯がゆい思いをしています。
「よし、こっちだ。この暗号によれば、もうすぐ鉱山の方に出られるはずだよ」
そう言うマスターの顔は疲労の色が濃く出ていました。いざとなれば、私は持っている荷物を全て捨ててでも、マスターがどれだけ拒もうとも、マスターを背負って歩くことを覚悟したのです。
あの工房は、元々はマスターのお師匠さんがいざというときのために用意した隠れ家のうちの一つだったそうです。身分を偽るための表の工房と秘密裏に研究を進められる地下の工房が別々に用意され、その地下の工房には緊急時用の仕掛けがいくつも施されていました。
そのうちの二つが、工房内で鳴りだしたあの警報と今歩いているこの脱出用の地下通路です。
警報が鳴ったあの後、私たちは急いでこの地下の通路に逃げ込みました。幸い、夜逃げの準備は済ませてありましたので、時間はほとんどかけずに済みました。そのあと、工房の方がどうなったのかは分かりません。今頃例の敵意を持った誰かに占領されてしまったのか、はたまたまだ踏み込まれていないのか、それすらも。
ですが、少なくとも。
(もう、あそこに帰ることはできないのでしょうね)
それだけが心残りです。
「あった、ここだ」
ランタンの掲げられた先は行き止まりになっていて、代わりに梯子がかけられていました。
「ここを昇って行けば鉱山に繋がっているはずだ」
マスターはそれを見上げて一瞬よろめきましたが、すぐに体勢を立て直して梯子に手をかけます。
「さあ、行こう。鉱山さえ抜ければ後はどうとでもなる」
荒い息遣いに、時々止まる手足。これまでの急な進行に加えてこの梯子の昇りはマスターに軽くない負担をかけています。私はマスターを支えられるように、あるいは落ちても受け止められるようにマスターの下についていますがその様子があまりにも痛々しくて見ていられません。
私は、役立たずです。
それを、実感させられました。
それでもマスターはなんとか梯子を昇りきってその切れ目に到達します、ですが、その先に出口となる穴は無く、天井にたどり着いてしまいました。
マスターは慌てることなく天井の一部に手をついて、なにやら唱えています。
それが起動のキーだったのか、天井の一部が開き、出口になります。
マスターがそこから出ていくのを見送ってから、私も後を追いました。
私が穴から出たのを確認して、マスターはその穴に向かってもう一度何かを唱えます。すると、穴はすぐにその口を閉じて、後にはなにも無かったように平らな地面だけが残りました。
この出口は一度しか使えないそうなので、これで工房から追われていたとしても追いつかれる心配はもうありません。
その作業が終わると同時に、マスターの体がふらつき、そのまま地面に倒れこみそうになります。
私は慌てて駆け寄ってマスターの体を支えました。
「マスター、もう限界です。一旦休みましょう」
「……すま、ない」
もう、返事もおぼつかない程消耗しています。
マスターをゆっくり地面に座らせて、私は荷物を降ろします。
きっと一番の難所を抜けて気が緩んだのでしょう。荷物から水の入った水筒を取り出してマスターにお渡しします。
「ここまでくれば、きっともう平気ですよ」
「……いや、ここを出るまでは、油断できないよ」
マスターは少しの水を飲みましたが、それで回復できるほどの疲労ではありません。
「なるべく早く移動を再開しよう。休むのは、ほんの少しだけ……」
不意に、マスターが言葉を止めます。
「マ、」
私が呼びかけようとすると、マスターは手で私を制して、口の前に人差し指を立てます。
静かに、ということでしょう。
不思議に思いつつも口を閉じると、その意味が分かりました。
遠く、この坑道のどこかから、カツン、カツンと足音が聞こえてきたのです。
それは、徐々に近づいてくるようで、私は恐怖で足が竦みました。
マスターは冷静に、梯子を昇るために腰に下げていたランタンの明かりを消して息を殺しています。
辺りは暗闇に包まれ、坑道を反響するその足音だけがやけに大きく響いて聞こえてきました。
私はぶるぶる震えてその音を聞いていました。荒くなってしまいそうな呼吸を必死で抑え、こっちに来ないでと、必死に祈って。
けれど祈りは虚しく、足音はどんどん大きくなっていきます。
それと同時に、向こうのランタンかなにかでしょうか、小さな光が段々と強くなってきて、その影が徐々に迫ってきて。
そして。
「おい」
その声を聴いた瞬間、私はなぜか安心してしまいました。
理由も分からずに、けれどもう大丈夫だと思ってしまって。
「そこにいるのは分かってる。おとなしく投降しろ」
そんなものは勿論ただの、勘違いで。
私達は、その死神に足を掴まれてしまったのです。