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豪雨のために駅のどこにも人の姿はなく、眞一郎の背中は、すぐに見つけることができた。
「橘さん!」
乱暴に傘を畳み、地下鉄への入り口を抜けて階段を降りた晴太は、今まさに改札をくぐろうとしていた眞一郎の名前を叫んだ。その声は壁に反響し、眞一郎の耳に届いたらしく、彼が自分へと振り返る。遠目だけれど、彼の表情が、とても驚いたものへと変化したことが分かった。
驚きのあまりその場で立ち止まった眞一郎に、晴太は急いで駆け寄る。眞一郎がまだ改札を抜けていなかったために、そのまま彼の手を引き、自分が入ってきた出入り口へと歩を進めた。
「せ、晴太、なんで……っ」
「追いかけてきた」
階段まで残り半分ほどの距離で、眞一郎が立ち止まる。さすがに大の男を無理やり引っ張って行くことはできなくて、晴太もそこで足を止め、眞一郎へと顔を向けた。
ふと彼の左手を見れば、その手には折り畳みの傘が握られていた。晴太の家のものではない。最初から用意していたのだろうか。
「そんなこと、分かってる。そうじゃなくて、なんで……」
眞一郎は言葉を続け、しかし最後まで言わずに言葉を濁す。その声は、微かに震えていた。
すぐに晴太は、眞一郎が、何故自分を追いかけてきたのか知りたいのだと理解する。
「このまま義父さんと橘さんが別れたら、俺が後悔する気がしたんだ」
「え……?」
「俺別に、義父さんと橘さんのこと、反対する気はないんだ」
先ほど優人に伝えた言葉を、再度口にする。すると眞一郎は、信じられないとでもいうように、瞳を大きく見開いた。
自分を見つめてくる彼の視線に耐えかねて、晴太は一度俯き、大きく息を吸った。自分を落ち着かるように深呼吸を何度か繰り返し、頭の中で次の言葉を探す。
ゆっくりと、顔を上げた。
「だから……」
一緒に帰ろう、と。瞳でそう告げれば、眞一郎の瞳が困惑に揺れる。晴太の言葉を信じていいのか、悩んでいるらしい。
「で、も……」
「何?」
「でもやっぱ、嫌だろ?」
「嫌じゃないってば」
「だって、父親が二人になるんだぞ?」
「気にしないし」
もしここに他人がい、二人の会話を聞いていたら、一体どういうことかと目を剥いたことだろう。だがここには、駅員の姿も見当たらない。雨のせいで全く人がいないから、なんて、油断でもしているのだろうか。まあそれは、今の自分達にはありがたい。
「お前に悪影響、とか」
「俺もう十七だよ? 別にないって」
「だけど……やっぱ、気持ち悪い、だろ?」
小さく、悲痛な面持ちで呟かれた言葉に、晴太は唇を噛んだ。
眞一郎へ背を向け、晴太はまた、歩き出した。動こうとしない彼の手を強く引き、無理やりにでも歩を進めさせる。
「お、おい!」
強引に歩きだした晴太に、眞一郎が声を上げる。
「そんなの気にしなかったらいいじゃん。好きなんだったら好きで、一緒にいたらいいだろ。他人なんか気にせずにさ!」
「っ!」
自分の意見をぶつけるために叫んだ途端、勢いよく、手首を掴んでいた手を振り払われた。手から消えた感触に驚き、思わず眞一郎へと振り返る。
「簡単に言うな! そういうわけにもいかないんだよ!」
叫ぶ眞一郎の声は、晴太が初めて聞くような、暗い響きを持つようなものだった。このまま泣き出してしまうのではと勘違いしそうになるほど、ひどく掠れている。
「好きなだけで一緒にいれたら苦労しないんだよ! あいつにとってお前は大事で……。オレは他のやつに何を言われたって我慢できる自信はある。けど、お前が嫌だって思うなら、気にしないわけにはいかないだろ!」
大事なあいつの、大事な人なんだから。
眞一郎の言いたいことは、なんとなく晴太にも理解できた。大事な人を傷付けたくないという心理は分かる。
しかしそれでも、無性にイライラが募った。
どうして分かってくれないんだ。自分はさっきから、こんなにも言っているのに!
晴太は右足を振り上げた。そのまま、眞一郎の足を蹴り飛ばす。靴越しに、固い感触が、響いた。
「だから俺は、嫌じゃねえっつってんだろ!」
蹴られた痛みにひるんだ眞一郎の襟を掴み、晴太はぐいと顔を近付けた。睨むように眞一郎を見、感情のままに唇を開く。
「好きなんだったら一緒にいるべきなんだよ! 今ここであんたがいなくなったら、絶対に後悔する! あんたも義父さんも――俺もッ!」
もう自分は見たくないのだ。大切な人を失くして悲しむ人の姿を。それでも懸命に笑う、大切な人の姿を。
今ここで眞一郎を引き止めなければ、きっと自分は、優人の悲しむ姿を見てしまう。
それに知ってしまったのだ。眞一郎がいい人だと。もうきっと、嫌いにはなれないと。
だから、絶対に。
「行こ……?」
眞一郎の襟首を掴んでいた手を離す。呆然としたように自分を見つめる眞一郎を見上げ、何か言いたげに、しかし言葉を発さない彼に、笑む。
なんだか体がふわふわしていた。興奮が限界でも超えてしまったのだろうか。
「俺、二人の関係認めてるんだよ。だから今さら、別れないでよ」
眞一郎が目を大きく見開くのが、ぼんやりとする視界に映った。体がだるくて、立っているのもしんどい。ぐらりと体が、揺れる――……。
「! 晴太!」
近くにいるはずの眞一郎の声が、やけに遠くから聞こえてきたような気が、した。
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