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 部屋の中には、テレビから流れるバラエティ番組の音が響いていた。その音と混ざって微かに聞こえてくる包丁の音は、キッチンで作業をしている優人のものだろう。

「……」

 テレビに集中することができず、晴太は横目で、テーブルを挟んで自分の前のイスに腰掛けている眞一郎を盗み見た。四人掛けであるテーブルは、二人でしか使わないもののため小さく、彼と自分の距離が近い。

 眞一郎はタバコを吸いながら、少しだけ居心地の悪そうな顔で、タバコを吸っていた。いつも持ち歩いているのか、持参した携帯用灰皿の中に灰を落としている。晴太はまだ未成年だし、優人もタバコを吸わないため、この家に灰皿は置いていないのだ。

 テレビから流れる音を忘れ、晴太は無意識のうちに、眞一郎の顔を凝視していた。

 優人は眞一郎のことを二十七といったが、耳より少し上で切られた黒髪や、切れ長の瞳と、最近の流行を取り入れている私服を見ると、実際の年齢よりも、もう少しだけ若く見える。優人も若く見られることが多いが、それとはまた違った意味で、眞一郎はまだ若々しい。

 じっと眞一郎を見つめていた晴太は、ふと、いきなり彼と視線が合い、慌てて顔を背けた。相手に失礼な態度をとってしまったと分かっているのだが、だからといって何を話せばいいのかも分からず、目を合わすことすらままならない。

 どうしよう。気まずい。

 互いの間に落ちる沈黙に、内心冷や汗が流れるのを自覚しながら、これからどうすればいいのかと、晴太は頭を回転させる。

「……あの、さ」

「は、はい!」

 不意に話しかけられ、声が上擦った。話しかけられれば顔を向けないわけにもいかず、晴太は眞一郎と目を合わせる形になる。

「晴太、で、よかったよな?」

 ぎこちなく問われ、晴太はゆっくりと首を縦に振った。

「えっと、その、……――あ、あいつ、さ」

 彼も同様のことを感じていたらしく、少しの間視線を彷徨わせ、それから、話題を思い付いたらしく、口を開く。

 あいつとは一体誰のことだろうと疑問に思いかけ、しかし晴太はすぐに、それが優人のことであると思い至った。

「オレと会うたびに、いつもお前のこと話してたぜ」

「え?」

「あいつから全部聞いた。優人が二十歳でお前が五歳のときに、お前の母さんと優人が結婚したんだろ?」

「うん。一歳のときに父さんが死んだから」「で、五年前に……」

「母さんが死んで、ずっと義父……優人、さんと、一緒で」

「そっか」

「うん」

「……」

「…………あ、え、えっと」

「あ、な、何?」

「た、橘さん……は、いつから……優人さんと……?」

「え? あ、えーっと、さ、三年くらい、かな」

「そ、そうなんだ」

「うん……」

「…………」

 それきりまた、沈黙が下りた。しかも会話の内容が内容で、互いにこれ以上の言葉も見つからない。さらに気まずくなった空気を感じ、晴太は緩く視線を揺らした。

「――ごめん、話題間違えたな」

「あ、いえ」

 ふと呟かれた眞一郎の言葉に、晴太は、いつの間にか俯き加減になっていた顔を上げた。見れば眞一郎は頭をがしがしと掻きながら、苦渋に近い表情を浮かばせている。どうやら自分が晴太へ持ち出した話題で、晴太の機嫌を損ねたのではないかと不安になっているらしい。

「俺、全然気にしてないですよ。慣れっこになったのもあるし、優人さんがいてくれてるし……」

 父親が死んだとき、自分はまだ一歳で、正直、父親に関しての記憶は全くない。十二歳のときに母親が死に、それに対して悲しいという思いはあるが、血が繋がっていないにもかかわらず、それ以降も自分を優しく育ててくれた優人のおかげで、こうやって明るく人生を過ごすことができている。

 実の両親が亡くなり、それでも自分が明るく、楽しく学校生活を送れているのは、ひとえに、優人が側にいてくれたからだろう。

「だから、気にしないでください」

 本心からそう言って笑むと、晴太の言葉を信じていいのか分からずに困惑したような表情を見せながら、眞一郎は頷いた。

「晩ご飯、できたよ」

 と、途端、聞き慣れた声が部屋に響く。振り返れば、お盆に、茶碗やらの食器を乗せた優人が、キッチンの奥から現れた。

「今日は、ハンバーグにしてみました」

 テーブルの上にお盆を置き、そこに乗せたものをテーブルへ並べていく優人に、内心助かったと思いながら、晴太は腰を上げる。眞一郎には申し訳ないが、優人が現れたことによって、この居心地の悪い沈黙から逃れることができる。

「俺、何か手伝おうか?」

 イスから立ち上がり、何か持ってくるものがあるかと問うと、優人はにこりと晴太に笑った。

「ありがとう。けど、もう全部持って来たから大丈夫だよ」

「分かった」

 そう言われてしまうと何もすることがなくなり、晴太はまた、同じ場所へと座る。同時に視界に入った眞一郎も、どうやら晴太と同じことを考えていたらしいが、結局は少しだけ浮かした腰を、元のように戻していた。

 優人は慣れた様子でご飯やらおかずやらをテーブルに並べる。すべてを並べ終えると、晴太の隣に腰掛けた。

「じゃあ、いただきます」

「あ、いただきます」

 優人が手を合わせるのを見、晴太もそれに倣った。ほぼ同時に、三人は食事に手をつける。

 ハンバーグは優人の得意料理のひとつで、ソースも手作りだ。慣れた味は舌の上で柔らかく溶け、美味しい。

 しかしそんな食事とは裏腹に、部屋は静けさに包まれている。申し分程度に流れるテレビの音も、ただ流れているだけでは、ただの雑音にすぎない。

 この沈黙が嫌で、どうにかしてテレビに集中しようと思うのだが、思考はどうしても目の前にいる眞一郎へと向いてしまい、晴太は黙々と箸を動かした。

 さっき眞一郎は、優人との付き合いは三年だと言った。ということは二人が付き合いだしたのは、優人が二十九、眞一郎が二十四のときということになる。二十九のときといえば、優人はもう食品会社での営業部としての仕事をしていた。もしその当時に二人が出会ったとするならば、眞一郎は同じ会社の社員なのだろうか。それともそれより前に、会社とは違う縁で二人は知り合っていたのだろうか。優人に新しい恋人がいるというのは、隠し事が苦手な彼の態度で気付いていたが、直接彼から、その類の話を聞かされたことはない。

 様々な疑問が頭の中を駆け巡るが、結局答えは出ず、消化不良のまま消えていく。

「……美味しくなかった?」

「え?」

 優人の声に我に返った晴太は、思考を中断し、優人へと顔を向けた。

 眉尻を下げ、不安そうな表情をする彼から察するに、今食卓に降りる沈黙が、自分に原因があるのではないかと思っているらしい。

「そんなことないよ! すっげー美味い!」

「本当?」

「うん!」

 勢いよく首を縦に振ると、優人は安心したように顔を綻ばせた。

「ね、橘さん」

「え? あ、ああ」

「ならよかった」

 この調子で会話を繋げようと、晴太は眞一郎に同意を振る。いきなり話しかけられたのが予想外だったらしく、少しだけ間を置いたが、眞一郎も当たり前だというように頷いた。その証拠に、彼のご飯の減りは早い。

「そういえばこの前……」

 安心して気が緩んだのか、にこにことした笑顔で優人が口を開く。晴太と眞一郎どちらにも向けた話題のおかげで、先ほどのような沈黙はなくなった。ただしそれは、優人を中間に挟んでの話で、優人が何も言わなければ、また元のように沈黙が下りてくるのだが。

 夕食を食べ終えるまでそんな他愛のない会話が続き、全員が食事を終えた頃には、もう八時を回っていた。

「じゃあオレ、もう帰るわ」

「え、もう?」

 時計を一瞥した眞一郎は、時刻を確認すると、座っていたイスから立ち上がり、空になった食器を持って立ち上がった。それを流しに置くと、鞄を手に持つ。

 そんな彼に、驚くような声を上げた優人は、自分も同じように時間を見た。

「あ、じゃあ途中まで送ってくよ」

「いいって、別に」

「でも……」

 二人はそんな会話をしながら、玄関の方へと姿を消す。二人の後ろ姿を見送った晴太は、溜め息に似た息を吐き出しながら、苦笑に近い、だがなんともいえないような曖昧な表情を浮かべていた。

「…………」

 まだ夢の中にいる気分だ。紹介したい人がいると言われて、それが自分や優人と同じ男だなんて。信じろという方が難しい。けれど優人が嘘をつくような人間ではないと知っているし、眞一郎の様子からしても、自分に嘘をついているようには思えない。自分が見ている夢だろうかと疑い、頬をつねってみれば、やはり痛かった。

 このままただイスに座っているだけでは延々と考え込んでしまいそうだと思い、晴太はとりあえず、自分が使っていた食器を流しへと置きに行く。優人や眞一郎が使っていた食器と重ね、ついでに洗っておこうとスポンジを泡立てた。数回手の中で動かすと、すぐに白い泡が手の平を包む。

 皿を洗いながら、ちらりと晴太は玄関とリビングを繋ぐ扉に視線を向けた。ガラスの向こうにぼんやりと映るのは、何かを話しているらしい優人と眞一郎の姿。会話内容までは分からないが、何かを話し込んでいるらしく、ぼそぼそとした声だけが聞こえていた。

 きっと自分のことで何か話しているんだろうなぁ、などと、ぼんやりと晴太は考える。

 一通りの食器を泡で包むと、晴太は水道の蛇口を捻った。流れる水に任せ、食器の泡を洗い流す。しかしすぐに、思考が優人と眞一郎のことばかり考え出した。

 自分は、これからどうすればいいのだろう。別に今のところ、優人に眞一郎を紹介されたからといって、偏見などを感じたわけではない。優人が選んだ相手なのだから、自分が反対をする理由はないはずだ。

 だが、では仮に、自分が眞一郎のことを認めたとしよう。しかしそうなれば、自分には父親が、優人と眞一郎の二人……?

「っ」

 思わず晴太は、首を勢いよく左右に振った。違う。論点がずれている。自分が考えたいのは、父親が二人になるとかそういうことではなくて、優人の恋人を眞一郎と認めるということだ。いや、しかし、別に優人が選んだ相手を自分は全く否定する気はないわけで。ということは結局父親が二人に――。

「…………」

「晴太?」

「え? あ、わ!」

 自分の思考にめり込んでいた晴太は、背後からいきなり名前を呼ばれ、心臓が飛び出るのではないかと思うくらい驚いた。反射的に振り返れば、いつの間に戻ってきていたのか、自分のすぐ後ろに優人が立っている。

「だ、大丈夫?」

「あ、ああ、うん……」

 驚いたせいと、泡のために滑りやすくなっていたせいで、晴太は一瞬持っていた皿を落としかけた。慌てて持ち直し、落とさないで済んで安堵の息を吐く。

「洗ってくれたんだね、ありがと。あとはおれがやるから休んでていいよ」

「ん、平気。もうすぐ終わるし」

 手元を覗き込む優人に笑いかけ、晴太は作業を再開させた。初めは躊躇した優人も、晴太の言う通り食器の残りが少ないと知ると、分かったと呟きながら頷く。

「……あのさ、晴太」

「何?」

 優人が、晴太の隣に移動する。自分の隣に立つ優人に、居心地が悪いような変な気分になるが、錯覚だと自分に言い聞かせ、晴太はなるべく平静を保ちながら口を開いた。

「やっぱり、驚いた?」

「え、あ、い、いや、えっと……」

「いいよ、はっきり言ってくれて」

「……――驚き、ました」

「だよね」

 ぼそぼそと、言葉を濁すように答えると、優人は苦笑のような笑みを浮かべる。

「でもおれ、晴太にはきちんと知っていてほしかったんだ。血は繋がってなくても、晴太を自分の息子だと思ってる。結のことも愛してる」

 結とは晴太の母親、つまり優人の妻のことである。今は亡くなった母とはいえ、肉親への告白を聞いた晴太は、自分の頬に熱が集まるのを感じた。

「でも、ね」

 優人は一度、そこで言葉を切った。俯くように視線を下へと向け、しかしすぐに顔を上げ、晴太へと向き直る。晴太もそんな優人につられ、食器を洗う手が止まっていた。

「それでも、眞一郎を好きになった。――同じ男、だけど」

「…………」

 真剣な、優人の瞳。真正面から向けられたその光に、晴太は何も答えることができない。

「気持ち悪いとか、思ってくれていいよ。受け入れてくれなくてもいい。ただ……晴太には本当のこととか、知っててほしかったから」

 優人はそう言うと、弱々しく笑んだ。自嘲のような、悲しげなような、それでいて、何かを成し遂げたような、そんな、様々な感情が入り混じった、笑み。

「じゃあおれ、先に風呂入ってくる」

「……うん」

 それ以上、晴太は何も言わなかった。いや、言えなかった。自分に背を向けて風呂場へ向かう優人の姿を、真っ直ぐに見ることができない。

 無言のまま唇を噛んだ晴太は、洗い終わった皿を水切りの籠に入れ、勢いをつけて蛇口の水を、止めた。


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