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「は?」
思わず唇から、間の抜けたような声が漏れた。右手に握った携帯の画面を覗き込みながら、晴太は怒りに自分の肩が震えるのを自覚する。
画面に映るメールには、用事で行けなくなった、ごめんと、簡潔に記されていた。時間はちょうど十二時半。晴太と友人の待ち合わせの、約束時間である。
しばらく携帯を凝視していた晴太は、不意に勢いよく携帯を閉じた。些か乱暴な仕草で、携帯をズボンのポケットへと突っ込む。
何が用事だ。何がごめんだ。断るなら断るで、何故もっと早くにメールを送って来ないのだ。待ち合わせの時間にメールを送っても、自分がもう待ち合わせ場所に着いているだろうということが分からないのか。
晴太は大きく溜め息を吐いた。深呼吸を繰り返し、怒りを落ち着かせる。
「……」
ここでぐだぐだと、誰にも言うことができない文句を並べていても仕方がない。とりあえず、家に帰ろう。
そう結論付け、晴太は駅への道を歩き出した。休日なせいか、駅へ続く通りは人が多い。
待ち合わせに指定していたこの場所が、駅からそう離れていない時計台の下でよかったと、晴太は心の底から思う。ドタキャンをされて、しかも帰りに時間がかかるなんてことになっていたら、人目もはばからず、一人で罵詈雑言を喚き散らしていたかもしれない。
「……――」
道を歩きながら晴太は、俯くと緩く唇を噛んだ。友人が来なかったことにより、考えていた予定が台無しだ。
本当は今日、晴太は友人に、優人と眞一郎のことを相談しようと思っていた。
優人と眞一郎の関係を知って一ヶ月。別段、晴太の生活に何か変化があったわけではない。優人と仲がぎくしゃくしたわけでもないし、眞一郎も仕事の関係で全然家を訪ねて来ない。一度、三人で高そうなレストランへ食事をしに行ったが、それだけだ。
しかしだからといって、自分の義父の、新しい恋人が男だったという事実を、簡単に、はいそうですかと受け入れられるはずもなくて。
優人が選んだ相手なのだから、悪い人ではない。だが同じ男なのだという事実が、晴太の胸の内に、もやもやとした感覚を呼び起こす。
自分の義父が男と付き合っているなんて軽々しく他人に言うつもりはないのだが、そろそろ一人で悩むのにも限界が来た。
晴太ははあと、溜め息を漏らした。無意識に漏れたそれは、一体何を意味しているのか。
「……晴太?」
「え?」
不意に名前を呼ばれ、晴太は足を止めると振り返った。多少低い、耳に心地よい声。……まさか。
「橘……さん……」
体ごと振り返った晴太は、人混みの中に立っている、スーツ姿の眞一郎を、簡単に見つけることができた。そう遠くない距離に立っていた彼は、晴太が小さく自分の名前を呟いたことに気が付き、小走りで晴太の元へ駆け寄ってくる。
「何やってんだ? こんなとこで」
「えっと、友達と遊びに行く約束してたんですけどドタキャンされちゃって……。橘さんは?」
「オレは昼休みだから飯食いに」
ひょいと肩を竦める眞一郎を見て、晴太は何故彼がスーツなのか納得した。
「飯、食った?」
「いえ、まだですけど……」
友人と食べる予定だったし。小さな声で付け加えると、眞一郎は一言、そっかと頷いた。
「じゃあ、一緒に食いに行くか?」
「え?」
一瞬何を言われたのか分からなくて、晴太は目を瞬いた。
眞一郎はそんな晴太の様子に気が付いていないのか、返事も聞かずに、さっさと一人歩いていく。
「え、あ、ちょ、待ってくださいよ」
「この先に美味い牛丼屋あるんだ。オススメ」
「はあ……」
スーツの背中を追いかけて、しばらくの間人混みの中を進むと、すぐに目当ての店が見えてきた。大きな看板と、キャッチコピーの書かれた旗が飾ってある。
「いらっしゃいませー」
眞一郎が迷う素振りも見せずに店の中へ入っていくため、自分も一緒に入るしかないと判断し、晴太も店の中へと足を踏み入れた。途端、若い女性店員の声が、さほど広くもない店へと響く。慣れた様子で眞一郎は、適当に空いているカウンター席へ腰掛けた。眞一郎の隣へ、晴太も座る。
「何食う?」
問われ、晴太は壁にかかっているメニューへと顔を向けた。
普通の牛丼以外にも、メニューには、定食やサイドメニュー、卵などがトッピングされているらしい牛丼の名前もいくつか書かれている。
「え、えっと……」
眞一郎はどうやら食べたい物が決まっているらしく、余裕の表情を浮かべ、ポケットからタバコを取り出していた。その様子に、少しばかり晴太の気が焦る。
「普通の牛丼で」
「ん」
了解というように眞一郎は頷き、水を運んできた店員に、牛丼を二つと注文した。
「タバコ、いいか?」
「あ、はい」
運ばれてきた水を飲んでいると、眞一郎が尋ねてくる。タバコが苦手というわけでもないので、晴太は首を縦へと振った。それに、自分達が座っている場所は喫煙席であるらしく、周りの大人達もタバコを吸っている。
眞一郎はタバコを一本箱から取り出すと、慣れた手つきで火を付け、唇へと咥えた。
「お前、よくここら辺来るのか?」
「あ、はい。たまに。服屋とか多いし」
「ふーん」
本当は今日も、友人と適当に買い物をするつもりだったのだ。それなのに、いきなりドタキャンなんかして。
メールの内容を思い出し、晴太はむっと唇を尖らせた。せっかく忘れていたのに、また怒りがふつふつと湧いてくる。
「橘さんは、どんな仕事をしているんですか?」
その怒りを、関係のない眞一郎の前で露わにするわけにもいかず、忘れようと晴太は、眞一郎へ疑問を投げかけた。だが、晴太は軽い気持ちでその言葉を口にしたのに、途端、眞一郎の眉が微かに寄る。
あれ、と思った。もしかして、いけないことを聞いてしまったのだろうか。
「……あいつ、言ってない?」
「義父……優人さんですか? はい、言ってないです」
「そうか。……まあそうだよな。わざわざオレの仕事の話なんかしないか」
溜め息を吐き、苦笑のような、困惑したような表情を浮かべ、眞一郎は頬杖をついた。少しだけ間を置いてから、晴太と視線を合わせる。
「……笑うなよ」
「はい」
「…………――編集」
ぽつりと呟かれ、晴太はきょとんとした。編集なんて普通の仕事ではないか。どうして笑うな、などと釘を刺したのだろう。
「雑誌か何かのですか?」
聞き返しながら、晴太はなるほどと納得する。なかなか似合いそうだ。男性向けや女性向けのファッション雑誌を担当していても、特に違和感を感じない。むしろ、私服姿がおしゃれなことを知っているから、ものすごく似合う。
「違うよ」
「あ、そうなんですか。じゃあ、一体……?」
「…………少女、漫画」
「え?」
少女漫画? 頭の中で、眞一郎の言葉を反芻した。この人が? 男らしい端正な顔をしてるのに? 切れ長の瞳や、骨ばった指、タバコを吸う姿は、女であればみんな見惚れてしまうほどカッコいいのに。
そんな人が、少女漫画。
瞬間晴太は、勢い良く吹き出していた。
「あ、て、てめっ、笑うなっつったろ!」
「だ、だって……」
笑いが止まらない。失礼だとは分かっているのだが、どうも目の前にいる眞一郎と、少女漫画という小物が似合わなくて、そのミスマッチさがツボに入った。
くすくすと晴太が笑っていると、眞一郎は晴太が笑い止まないと諦めたのか、顔を背け、そっぽを向く。
「まあいいよ。似合わねえことは分かってるし」
「いや……」
「さんざん笑っといて、今さら嘘つかなくていい」
眞一郎の言う通りである。今さら失礼なほど本人の前で笑っておいて、今さら何をフォローすればいいのか。
「うーん、でも」
「何?」
首を傾げつつ一度言葉を切ると、眞一郎は横目で晴太を見つめた。眞一郎の視線を受け止め、晴太は軽い笑みを唇に浮かべる。
「その仕事、好きなんでしょう?」
「え?」
「そんな風に好きなものがあるのは、羨ましいです」
心の底からの言葉だった。好きだからこそ彼はこの仕事をしているのだと、なんとなく確信を持っていた。だからこそ、好きなことを仕事にしている彼を羨ましいと思う。
なのに眞一郎は、何故か、驚いたような表情を、その顔に浮かべていた。
「?」
眞一郎が驚く理由が分からなくて、晴太はぱちぱちと目を瞬く。
「どうかしたんですか?」
「いや……。やっぱ、親子だなと思ってさ」
「え?」
「優人も、全く同じこと言ったからさ、昔。だから、驚いた」
当時のことを思い出すかのように、眞一郎は目を細めた。瞳に、柔らかな光が映っている。
「お待たせしました」
晴太がそんな眞一郎を見つめていると、不意に目の前に牛丼が運ばれてきた。店員に軽く会釈をし、晴太は意識をそちらに向ける。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
眞一郎から割りばしを受け取り、晴太は手を合わせる。いただきますと呟き、牛丼を口へと運んだ。
確かに眞一郎が言っていた通り、美味しい。咀嚼しながら、晴太はそう思う。少なくとも、自分が今まで食べてきた牛丼の中で、ここのものが一番美味しいと感じた。
「美味いだろ?」
「はい」
笑みながら言った眞一郎に笑顔で頷き、晴太はしばらくの間食事に集中する。互いに無言で、昼食を口へと運んだ。
そして不意に晴太は、ある疑問が湧いた。
「あの、橘さん」
「んー?」
「どうして義父さんと付き合うようになったんですか?」
素朴な疑問を口にしたつもりだった。だが眞一郎は、晴太のセリフを聞いた瞬間、ごほごほと咳き込んだ。気管に入りかけたのか、苦しそうに眉を寄せている。
「な、なんで?」
水を飲み、詰まりそうになったものを流し込んだ眞一郎は、生理的に浮かんだ涙目を晴太に向け、聞き返した。
「いや、気になったから」
晴太の知っている限り、優人はノーマルだ。母と結婚までしたのだから、それは間違いない。それが何故、今になって同じ男である眞一郎と付き合いだしたのか。
眞一郎は少しの間黙り込んだ。何かを考えるように視線を彷徨わせ、それから、小さく息を吐き出す。
「会ったのはオレが二十一だから……六年前、かな。初めて顔合わせたの」
「結構前なんですね」
「そうだな。確か大学の先輩と飲みに行ったときに、優人を紹介されて……。うん、そっからだ。仲良くなったの」
「へえ」
「ちなみに言っとくけど、オレも優人もノーマルだからな。大体、そんときあいつ結婚してたし」
「そうなんだ。あれ、でもじゃあどうして今の関係に?」
「あー……えっと……」
眞一郎は答えにくそうに頭を掻いた。そりゃあ、恋人の息子にそんな疑問を投げかけられて、すぐに答えられるはずもないだろう。そう分かっていたが、晴太は敢えて、大人しく眞一郎の答えを待った。
「……正直、よく分かんないんだよな」
そして眞一郎はぽつりと、口にした。
「互いにいつから、どこで好きになった、とか。同じ男なのに」
「それって、気付いたら好きだったってこと?」
「そう……なんのかな」
いつの間にか、二人の箸の動きは止まっていた。
晴太はじっと眞一郎を見つめ、眞一郎はといえば頬杖をついてそっぽを向いている。髪の間から微かに覗く耳が赤く染まっていることに気が付いて、晴太は彼が恥ずかしいのだと知った。
「あ、でも、付き合いだしたのは、ちゃんと……その、あれだ」
「うん、分かってる」
眞一郎の言いたいことを理解し、晴太は笑んだ。
分かっている。優人が浮気をするような人ではないということは。
「――ってかさ、こんな話聞いて楽しいか?」
頬杖のためにテーブルの上へ置いていた腕を退け、眞一郎は晴太に振り返った。え? と晴太は聞き返し、きょとんとした表情を彼に向ける。
「仮にも優人はお前の父親だろ」
父親と恋人、しかも男同士のそんな話を聞いて楽しいのか。苦渋に近い表情を浮かべる彼から、彼がそう言いたいのだということがありありと感じられた。
「えー、まあそれなりに。やっぱ気になるし」
分かってしまうからこそ、恥ずかしさを誤魔化そうとする眞一郎に、笑ってしまう。
そしてふと、思った。
眞一郎は多分、優人のことが本当に好きだ。優人のことを話す彼の瞳には、とても優しい光が宿っている。それはほんの一瞬のことだけれど、晴太はその光を見逃さなかった。
それに――。
赤く染まりかけた頬を隠すようにして横を向く眞一郎を、ちらりと見る。
眞一郎は未だに、自分とどう接していいのか分からないに違いない。雰囲気で分かった。もちろんそれは晴太も同じなのだが、自分と彼では置かれている状況に違いがある。それでも、どうにかして仲良くなろうと、自分を誘ってくれたのだ。その彼の思いに、くすぐったいようなむずがゆいような、不思議な気分になる。
大体、こんなところで、二人で食事をしていること自体がおかしいのだ。優人が知ったらなんと言うだろう。
そう考えたら笑えてきて、晴太の唇には無意識のうちに、微かな笑みが浮かんでいた。
「……晴太」
「何?」
「美味いのは分かった。けど、そろそろ昼休み終わるからさ」
「え?」
どうやら、晴太が笑っていた様子を見て、それが牛丼から来ているものだと勘違いしたらしい。
眞一郎のセリフにつられ、晴太は店内にある時計へと目をやった。見ればいつの間にか針が、結構いい時間を指している。晴太は休日で、多少ばかり時間が潰れるのは構わないが、仕事のある眞一郎はそう悠長にもしていられないのだろう。
ちらりと眞一郎の皿を見れば、彼の牛丼はほとんどなくなっている。それにつられ、晴太は少しばかり食べるスピードを速めた。
「ごちそうさまでした」
「ん」
手を合わせてそう呟くと、眞一郎は鞄を持って立ち上がった。慌てて晴太が追いかければ、彼は二人分の料金をレジで支払い、外へと出ていく。
「あ、た、橘さん!」
「何?」
「お、お金! 俺、自分の分は自分で払います」
眞一郎のあとに続きながら、晴太は慌てて鞄の中から財布を取り出した。そこから小銭を出そうとするが、その前に、眞一郎の声に遮られる。
「んなのいいって」
「で、でも……」
「ガキは大人に奢ってもらっとけばいいんだよ」
言いながら眞一郎は、携帯を取り出し、今の時間を確認した。予想以上に時間が迫ってきているのか、一瞬彼の眉が寄る。
「悪い、そろそろ戻るわ」
「あ、はい」
「悪かったな。いきなり誘って」
「いえ、奢ってもらっちゃったし……」
携帯を閉じ、眞一郎は足を止めると、晴太へと向き直る。つられて晴太も、歩くのを止めた。
「そっか」
そう言って眞一郎が笑う。同時に手の平が、晴太の頭にポンと乗った。軽く触れた手は、くしゃくしゃと晴太の頭を撫で、すぐに離れる。
「オレが言うのも変だけどさ」
「……」
思わず頭を押さえる晴太に、眞一郎は笑みを崩さない。にこりと笑むその表情は、男の自分でもカッコいいと思ってしまうくらい、整っている。
「オレのことは構わないから――優人のことは、嫌わないでくれよ」
それだけを言うと、眞一郎は優人に背を向け、人混みの中に消えていった。
「……なん、だよ、それ…………」
あんな笑顔、ずるいと思う。表情も、セリフも、立ち振る舞いも、タイミングも、何から何まで、まるで狙ったようにカッコいい。自分には絶対に真似できない。ずるい。
自分が優人のことを嫌いになるわけがないのに。しかも、オレのことはいいから、なんて――。
「…………カッコつけ」
悪態をつくように、小さく晴太は唇を開く。その声は小さすぎて、人混みの中へとすぐにかき消えた。
胸の内が、何やらくすぐったい。かきむしりたくなるような、でもそれでいて、案外心地は悪くないような、そんな感じ。
晴太はしばらくの間、その場から動けなかった。少なくとも、眞一郎の背中が見えなくなるまで、晴太は人混みの中、突っ立っていた。
* * *




