1ページ
人はきっと、
傷つくたびに少しずつ臆病になります。
信じること。
愛すること。
未来を期待すること。
それらを諦めてしまえば、
もう痛みは増えないのかもしれません。
けれど、
それでも誰かを求めてしまう瞬間があります。
雨の日に出会った二人は、
どちらも孤独を抱えていました。
終わりを恐れ、
幸せを諦めていた男女が、
もう一度“明日を欲しい”と願うまでの物語です。
静かな雨音のように、
この物語があなたの心へ残りますように。
『雨上がり、君の嘘に恋をした』
――1ページ目
「雨の夜のチェックイン」
雨の音が、ホテルのガラス窓を静かに叩いていた。
午後十時四十分。
ロビーには深夜特有の落ち着いた空気が流れている。間接照明の淡い光が大理石の床を照らし、フロント奥ではクラシックピアノのBGMが小さく流れていた。
桐谷紗月はカウンター越しに時計を見上げ、小さく息を吐く。
「……あと二十分」
今日も残業だった。
本来ならシフトは九時までだったが、海外からの団体客のトラブル対応で予定がずれ込み、気づけばこんな時間になっていた。
肩が重い。
けれど、その疲れを顔に出さないのが、彼女の仕事だった。
「桐谷さん、こちら本日の売上報告です」
若い男性スタッフが緊張気味にファイルを差し出す。
「ありがとう。確認しておくね」
紗月は柔らかく微笑み、ファイルを受け取った。
ホテルのフロントマネージャーとして三年。
どんな客にも丁寧に接し、クレームにも冷静に対応し、部下には穏やかに接する。
周囲からは「完璧な人」と思われていた。
だが実際は違う。
ただ感情を表に出す方法を、忘れてしまっただけだった。
ファイルに目を通していた時、自動ドアが静かに開いた。
夜風と共に、雨の匂いがロビーへ流れ込む。
紗月は反射的に顔を上げた。
一人の男が立っていた。
黒いコートは雨に濡れ、肩先から水滴が落ちている。少し長めの髪も湿っていて、旅の疲れをまとったような空気があった。
大きなキャリーケースを引きながら、男はロビーを見回す。
そして紗月と目が合うと、ふっと笑った。
「こんばんは。チェックイン、お願いできますか」
低く穏やかな声だった。
「はい。ご予約のお名前をお願いいたします」
「佐伯です。佐伯蓮」
その名前を聞き、紗月は予約一覧を確認する。
――佐伯蓮。三十五歳。長期滞在プラン。二週間。
「確認いたしました。ご到着をお待ちしておりました」
「助かります。飛行機が遅れてしまって」
そう言いながら、蓮は軽く肩をすくめた。
どこか気楽で、柔らかな雰囲気を持つ男だった。
けれど。
紗月は一瞬だけ違和感を覚える。
彼は笑っているのに、その目がひどく静かだった。
まるで感情の深い部分を、どこか遠くへ置いてきたような目。
「こちらにご記入をお願いいたします」
「はい」
ペンを受け取る指が長い。
節ばった手には、小さな傷がいくつもあった。
仕事柄だろうか。
紗月が何気なく視線を向けると、蓮が気づいたように笑う。
「写真撮ってると、結構ぶつけるんですよ」
「……写真家の方なんですか?」
「ええ。一応」
さらりと答える。
けれど、“一応”という言葉に、少しだけ影が落ちた気がした。
「世界をふらふらしてます」
「素敵なお仕事ですね」
「そうでもないですよ。ホテル暮らしばっかりですし」
冗談めかして言う蓮に、紗月は形式的な笑みを返した。
本当はこういう会話は苦手だった。
適度な距離感。
踏み込まず、踏み込ませない。
それが一番楽だった。
昔は違った。
もっと笑っていたし、人を疑うこともなかった。
――黒川亮介と出会うまでは。
名前を思い出した瞬間、胸の奥が鈍く痛む。
紗月は無意識に表情を引き締めた。
もう終わったこと。
そう思っていても、傷は消えない。
「……お疲れですか?」
不意に言われ、紗月は顔を上げた。
蓮がまっすぐこちらを見ていた。
「え?」
「いや、なんとなく」
「そんなことありません」
即答だった。
仕事中に弱さを見せるなど論外だ。
しかし蓮は、それ以上追及せず小さく笑った。
「そっか」
その言い方が妙に優しかった。
まるで無理に隠さなくていいと言われた気がして、紗月は戸惑う。
「……こちら、カードキーになります。お部屋は十二階です」
「ありがとうございます」
鍵を受け取った蓮は、ふとロビーの外を見た。
雨はまだ降り続いている。
「雨、好きですか?」
唐突な質問だった。
「え?」
「俺、結構好きなんです。街の音が消えるから」
紗月は少し考えたあと、首を横に振った。
「嫌いです」
「即答ですね」
「雨の日は、嫌なことを思い出すので」
口にしてから、しまったと思った。
客にする話ではない。
だが蓮は笑わなかった。
「俺もですよ」
静かな声だった。
その一言に、紗月は思わず彼を見る。
蓮はロビーの照明を眺めながら続けた。
「雨の日って、過去が近くなる気がする」
その横顔は、ひどく寂しそうだった。
なぜだろう。
初対面のはずなのに。
彼の孤独だけが、不思議なくらい自然に伝わってきた。
紗月は小さく視線を逸らす。
「……お部屋までスタッフがお荷物をお運びします」
「大丈夫です。自分で行けますから」
蓮はキャリーケースを引き、軽く会釈した。
「じゃあ、これから二週間よろしくお願いします。桐谷さん」
名前を呼ばれ、紗月は一瞬だけ目を見開く。
ネームプレートを見ただけなのに。
なぜかその呼び方が、妙に耳に残った。
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
蓮は微笑み、そのままエレベーターへ向かう。
閉まる扉の直前。
彼はふいにこちらを振り返った。
そして。
どこか諦めたような笑顔を見せた。
その表情が、なぜか胸に引っかかった。
エレベーターの扉が閉まる。
静寂。
再び雨音だけがロビーを包んだ。
「桐谷さん?」
スタッフの声で、紗月は我に返る。
「どうしました?」
「……ううん。何でもない」
そう答えたものの、胸の奥が妙にざわついていた。
たった数分話しただけの相手。
もう二度と深く関わることもないかもしれない客。
なのに。
彼の目が忘れられなかった。
――あんな目を、知っている。
孤独を隠して笑う人間の目だ。
紗月は無意識に窓の外を見る。
雨はまだ止まない。
街の光は濡れた道路に滲み、まるで誰かの涙みたいだった。
その時。
フロント横に置かれた紗月のスマートフォンが、小さく震えた。
画面に表示された名前を見た瞬間、彼女の呼吸が止まる。
『黒川亮介』
――どうして今さら。
凍りつく指先。
嫌な記憶が、一気に蘇る。
あの夜。
信じていた言葉。
裏切り。
泣き崩れた自分。
全部。
全部、終わったはずなのに。
着信は鳴り続ける。
紗月はしばらく画面を見つめ、やがて電源ボタンを押した。
音が消える。
けれど胸のざわめきは消えなかった。
その頃。
十二階の部屋では、蓮が窓越しに雨の街を見下ろしていた。
テーブルには古いフィルムカメラ。
そして、一枚の診断書。
蓮はそれを静かに伏せる。
「……最悪だな」
誰にも聞こえない声で呟き、苦く笑った。
その目は、どこか壊れそうに揺れていた。
雨はまだ、止まない。
二人の孤独を隠すように、静かに降り続いていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、
「限られた時間の中でも、人は誰かを愛したいと思ってしまう」ということです。
恋は幸せだけではありません。
失う怖さも、
終わりへの不安も、
愛するほど大きくなっていきます。
それでも人は、
誰かと笑い合える時間を求めてしまう。
紗月と蓮も、
最初は未来を信じられない人間でした。
けれど、
「この人となら怖くても歩いていきたい」
そう願えた瞬間から、
二人の世界は少しずつ変わっていきます。
もしこの作品が、
あなたの心に小さな光を残せたなら幸せです。
雨はいつか止みます。
そして雨上がりの空は、
きっと思っているより優しい。
本当にありがとうございました。




