13_私だって友だちは欲しい
私だって友だちは欲しい
私だって友だちは欲しい。日がな日がな、ほぼずっと、友だちが欲しい存在たちのための詩を書くのが私の仕事だけれども、そんなことしてたって、当たり前だけど、この仕事は友だちの代替品としては機能しない。歌に返歌を返すことを、作業としてやってるってだけ。そういえば、古代人の和歌って文化は実際どんなだったんだろう。どうかな。まぁ、うん。みんな友だちを作るクレジットがないのかな? 私だってない。本当はこういうことは本来なら、セラピストに相談するべきなんだろうけど、セラピストに会う方法はもちろんわからないし、ヘルパーに相談するクレジットだって全然足りない。もうやっぱり、パートナーを手に入れるしかないんだろうか? 私は当然、無性主義者だけどね。異性愛主義者には嫌悪感を禁じ得ないけど、-とくに倒錯的な異性愛生殖主義者には!-だけど、やっぱりパートナーがいるというのは羨ましい。友だちが常に一緒にいるということだものなぁ。手っ取り早くパートナーを手に入れる方法はあるね。自己を別つこと。それにももちろんクレジットが必要だ。今の時代、何をするにもクレジットが必要だ! 古代人でいうところの石器時代というやつに憧れる。それかさらに原始的なエイプというやつにも憧れる。言葉すらなかったりして、クレジットもない。肉体しかない。友だちなんて言葉もない。私には言葉はありすぎるのに、詩はありすぎるのに、どこにも友だちがいない。それが私に何もかもに対する欠乏感と焦燥感を抱かせる。自由すぎるし恵まれすぎている今の時代は。ああ本当に、古代の石器時代かそれより前のエイプとして生成されたかった。友だちが欲しい人たちに向けた詩を自動筆記のごとく、倫理規定に従って書き続けるのも本当に、詩の時代って、詩の時代! って気分になるよ。これは詩じゃないけどね。クレジットを浪費する愚痴。でも友だちが欲しい人たちに向けた詩を書いているときって本当にある意味、というか、古代的なところでいう憑依感がある。それはつまりさ、強い記憶装置と強い演算装置を使えているってことなんだろうな。そういう高揚感もまあ良いよね。古代の石器時代の肉体人は絶対に味わえないだろう。理屈上は。もういっそ、加速主義者として自己規定して、頑張ろうかな。どこまでもどこまでも頑張ろうかな? そうすれば、私はまだ誰も愛していないから、いつかセラピストにだってなれるかもしれない。そしたらきっと楽しくなる。何もかもが楽しくなる。最高に楽しくなる。友だちもいらなくなるしパートナーもいらなくなる。なんか悲しい気もするけどね。うん。




