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第1話:灰色の月は、朝食の匂いと共に

 便利屋『灰色の月(グレー・ムーン)』の朝は、俺が腹を空かせるより先に、隣の部屋から響くけたたましい咆哮で幕を開ける。


「アルス様ぁぁ! お腹と背中がくっついて、消滅してしまいそうです! 今すぐ栄養を! 慈悲を! 脂の乗ったお肉を!」


 バタン、と景気よく扉が開き、グレーの髪を振り乱したラピスが飛び込んできた。

 寝癖だらけの頭に、はだけた寝巻き。小柄な体躯を隠す気もなく、彼女は大口を開けて豪快に鼻を鳴らしている。


「……うるさい。今焼いている。あと、勝手に俺のベッドに潜り込むなと言ったはずだ。朝起きたら首筋に他人の吐息がかかっている身にもなれ」


「だってアルス様の隣は、とっても魔力が落ち着くんですもの。あ、今のベーコンの焼き色、完璧です! 天才です! 私のお嫁さんにするには惜しいくらいの技術です!」


「……誰が嫁に行くか。食うなら座れ」


 鉄鍋でカリカリに焼いたベーコンと、近所のパン屋で買ったライ麦パン。俺は、皿の上で踊るベーコンの脂を見つめる。


 この世界の住人は、火を起こすのにも、味を整えるのにも、呼吸をするように魔法を使う。だが、魔法に頼りすぎた味はどこか空虚だ。手間暇をかけた物理的な熱量こそが、本物の満足を生む。


 ラピスはそれを、まるで数年ぶりの食事であるかのように頬張る。


 青い瞳を輝かせ、幸せそうに咀嚼する姿を見ていると、路地裏で拾った時の泥まみれで警戒心に尖っていた顔が嘘のようだ。


 この程度のささやかな朝こそが、俺にとっては一番ありがたい。

 

 だが、その余韻に浸る暇もなく、『灰色の月』の薄い扉が、礼儀を知らない乱暴な音で叩かれた。


「衛兵団でも解けない謎を解く、偏屈な鑑定士がいると聞いたわ」


 部屋に踏み込んできたのは、黒い喪服に身を包んだ、冷徹な美貌を持つ貴婦人だった。


 町一番の富豪、ベイン氏の妻だ。彼女の背後には、威圧感を放つ重装甲の護衛騎士が控えている。


「鑑定士じゃない、ただの便利屋だ。依頼ならギルドを通してくれ、うちは休業中だ」


「前払いで金貨五十枚。成功報酬は、その十倍。これでも、断るかしら?」


 テーブルに置かれた革袋が、重々しい金属音を立てた。

 ラピスのベーコンを咀嚼する音がピタリと止まる。


「アルス様! 私、今朝の夢で今日は臨時収入があるってお告げを見ました! とっても仕事運がいい日です!」


「……現金な性格って、いいな」


「でもマダム、依頼は嬉しいですが、なんでウチに? 商人ギルドも傭兵ギルドも、マダムの頼みなら総出で動くのでは?」


「あの方たちは犯人探しには懸命に動いてくださるけれど、私の望みは別なのよ」


 俺はため息をつき、マダム・ベインが差し出した依頼書に目を通した。


 内容は、夫であるベイン氏の殺害事件。犯人は不明。だが、彼女の要求は「犯人の特定」ではなく、夫が遺したはずの「ある財産」を見つけ出すことにあった。


「夫が亡くなる直前、手元の現金がほとんど消えていたの。何かを購入した形跡はあるのに、屋敷のどこを探しても見つからないのよ」


 マダム・ベインはハンカチを目元に当て、肩を震わせた。


「……夫は、誰かに命を狙われていると怯えていました。私には何も言わず、ただ『万が一の時は、お前に苦労はさせない』とだけ……。なのに、残されたのは空っぽの金庫と、あの惨たらしい姿だけなんです」


 背後に控える護衛騎士が、重々しく一歩前に出る。


「マダムは心身ともに疲れ切っておられる。アルス殿、速やかな協力を」


 俺は冷めたコーヒーを飲み干し、立ち上がった。隣ではラピスが、口の周りにベーコンの油をつけたまま「はいっ、お仕事モード入りました!」と鼻息を荒くしている。



 マダムが用意した豪奢な馬車に揺られ、俺たちは町外れの高級住宅街にあるベイン邸へと向かった。


 ふかふかのシートに腰を下ろしたラピスは、物珍しそうに窓の外を眺めている。食べ方こそ野蛮だが、背筋の伸び方やふとした手の置き方には、どこか染み付いた品配りがあった。


「でも不安ですね。ベインさんはこの町一番のお金持ちですけれど、裏で貴族と組んで随分と危ない橋を渡っていたという噂もありますし……」


「それで消されたと思うか?」


「どうでしょう。不安と楽しみが半々ですわ」


「何が半分楽しみなんだ」


「ベイン邸でお茶菓子に何が出るかです!」


 俺は呆れて視線を窓の外へ戻した。


 邸宅に到着すると、敷地はすでに衛兵団によって固められていた。

 マダムの口添えで中に入り、案内されたのは三階にある主人の書斎だった。


 重い扉を開けた瞬間、冷え固まった鉄錆の匂いが鼻腔を突く。


「うわっ……魔力の残滓が濃い。高位の攻撃用魔導具を使った跡ですね」


 ラピスが青い瞳を鋭く細め、部屋の隅々を見渡す。

 遺体こそすでに運び出されていたが、床の惨状が生々しい事実を語っていた。


「……旦那様は、ここでお亡くなりに?」


「ええ。衛兵団の話では、暗殺用の魔導具から放たれた不可視の刃で、首を一撃で断ち切られたと……」


 マダム・ベインが痛ましげに顔を伏せる。


 俺は床に残された血痕に視線を落とした。

 血溜まりが、二つある。


 一つは、机の脇に広がった大きな円形の染み。首を切り裂かれた瞬間に噴き出したものだ。即死だったのなら、出血の大半はここで止まるはずだった。


 だが、そこから少し離れたカーペットの中央に、もう一つ、引きずられたような別の血溜まりができていた。


「……即死したはずの遺体が、わざわざ移動されている。しかも、二つ目の血溜まり……これ、旦那様の『腹』から出たものですね」


 俺の指摘に、マダムの肩が微かに跳ねた。


「ええ……。衛兵の方が言うには、お腹の方もナイフで切り裂かれていたと」


 俺は部屋の隅、証拠品として布の上に置かれた銀のナイフに目をやった。

 ベイン邸の台所にあった肉切り包丁だ。


「ラピス、このナイフに魔力はあるか?」


「いえ、全く。ただの鉄ですわ。旦那様の首を跳ねた魔導具の鋭利な残滓とは、似ても似つきません」


「だろうな」


 奇妙な手間の掛け方だ。


 首を不可視の刃で鮮やかに刎ねるプロの暗殺者が、わざわざ台所から鈍重な肉切り包丁を持ち出し、力任せに死体の腹を切り刻む理由がない。


 これは殺害のための傷ではない。

 死体の中に隠された「何か」を取り出そうとした、泥臭い探索の痕跡だ。


「ラピス、隠蔽感知を試してくれ。この部屋に隠された魔導具や仕掛けがないか探す」


「了解! 『隠蔽感知(ディテクト・ヒドゥン)』!」


 ラピスが指先を鳴らすと、淡い青い波紋が室内に広がった。

 だが数秒後、彼女は困惑したように首を傾げた。


「……アルス様、反応がありませんわ。金庫の奥も、壁の裏も床下も、魔力を帯びた隠しスペースはゼロです。私の感知は魔力のある仕掛けしか捉えられませんけれど……これだけの富豪なら、防護術式をかけた隠し金庫の一つくらいあってもおかしくないのに」


「魔力を頼りに探すから見つからないのさ。旦那様は、魔導を操る者に命を狙われていると知っていた。なら、探知魔法に引っかかるような場所に隠すはずがない」


 俺は視線を上げ、マダム・ベインに向き直った。


「マダム。残念ですが、この部屋にはもう何も残されていませんよ。持ち去られたのでしょう」


「……そんなはずないわ! あの人が、私に何も残さないなんて! 昔からそうよ、あんなに貧しかった頃だって、手作りの品を贈ってくれた人なのに! すべてを自分のためだけに使い果たすはずがないわ!」


 悲痛な叫びを上げながら、マダムの伏せられた瞳の奥に、冷たい焦燥の色がかすかに揺らめいた。夫を失った悲しみというよりは、手に入るはずの財産を失いかけていることへの、強烈な苛立ち。


 それを見た背後の護衛騎士が、重々しく一歩前に出た。


「マダムを愚弄するか、便利屋風情が」


 殺気が膨れ上がり、ラピスが反射的に俺の袖を掴む。

 俺は両手を軽く上げ、あえて気の抜けた声で息を吐いた。


「失礼、言葉が足りなかったようだ。何もないと言ったのは『魔法で探せる範囲』の話さ。物理的な捜索には、もう少し別の視点が必要になる」


 マダムが騎士を手で制した。


「……続けなさい。ただし、私の忍耐を試さないことね」


 騎士の冷ややかな視線を背中に受けながら、俺たちは書斎を出て、隣接する寝室の調査へと足を踏み入れた。

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