放送室の外で
放送室の中では普通に話せるのに、外に出ると途端に距離が元に戻る。それが何を意味するのか、考えないようにしていた。
翌朝。教室に入ると、音羽が自分の席で本を読んでいた。いつもの光景だ。
俺の席は教室の中央寄り、音羽は窓際の後ろ。直線距離にして五メートルほど。その五メートルが、放送室のテーブルの幅よりずっと遠い。
昨日の傘のことが気になっていた。あのビニール傘に気づいただろうか。使っただろうか。それとも雨が止むまで待って、傘には触れずに帰っただろうか。
確認する方法はある。音羽に聞けばいい。だが「昨日、放送室の前に傘があったか」なんて聞いたら、自分が置いたと白状するようなものだ。
視線を前に戻す。気にしない。気にする必要がない。
「おっす」
前の席で瀬戸が振り返った。
「真白、昨日めっちゃ濡れて帰ったろ」
「……なぜ分かる」
「駅でばったり会った。走ってきたのが見えた」
「……そうか」
「傘持ってなかったの? 朝は持ってたよな」
「……途中で失くした」
「不注意だな」
嘘は下手だ。でも瀬戸はそれ以上追及しなかった。
「そういえば、お前のラジオ聴いてるやつ増えてるぞ。隣のクラスでも話題になってた」
「……本当か」
「『放課後のふたりごと』ってやつだろ。名前つけたんだな」
「音羽が決めた」
「へえ。音羽さんが」
瀬戸の目が一瞬だけ教室の奥に向いた。窓際の後ろの席。音羽の方向。
「あの子、放送だとちょっと喋るんだな。教室じゃ全然なのに」
「……少しだけな」
「声いいよな。小さいけど」
また、声の話だ。瀬戸は前にも音羽の声に言及していた。別に引っかかることじゃない。音羽の声がいいのは客観的事実だ。マイク乗りがいい。技術的な意味で。
「まあ、放送室だと話しやすいんだろう」
「場所が変わると変わるタイプか。分かるわ」
瀬戸は素直に頷いた。素直すぎて、逆に刺さる。
一限目が始まる。席についてノートを開く。
授業中、ふと後ろを振り返りたい衝動に駆られた。音羽の方を。理由は分からない。振り返ったところで教室の音羽は放送室の音羽とは違う。ガラスの壁を一枚挟んだ向こう側の人だ。
振り返らなかった。
昼休み。今日は放送のない水曜日だ。購買でパンを買って教室に戻ろうとしたとき、廊下で音羽とすれ違った。
正確には、すれ違いそうになった。
音羽が先に俺に気づいた。足が一瞬だけ止まる。俺も止まる。廊下の中央で、二人が向かい合う形になった。
周りには他の生徒が行き来している。放送室の防音壁はない。代わりに、無数の視線と足音と話し声がある。
「……」
「……」
何か言うべきだ。「よう」でも「お疲れ」でも何でもいい。放送室ではあれだけ会話しているのに、教室棟の廊下で顔を合わせた途端、喉が詰まったみたいに言葉が出ない。
音羽も同じだった。唇が微かに動いたが、声にはならなかった。
代わりに音羽がしたのは、小さく会釈をすることだった。ほんの一瞬だけ頭を下げて、そのまま俺の横を通り過ぎていった。
すれ違いざまに、音羽がとても小さな声で言った。
「……傘、ありがとうございました」
足が止まった。振り返ろうとして、やめた。
音羽の足音はもう遠ざかっている。追いかけて「あれは俺のじゃない」と言い訳するのもおかしい。そもそも忘れ物の傘を勝手に持ってきた時点で、俺が置いたと見破られるのは時間の問題だった。
……バレてたか。
パンの袋を持ったまま、俺は廊下に立ち尽くしていた。
放課後。放送室。
ドアを開ける。音羽がいる。いつもの席。いつもの文庫本。
俺もいつもの席に座る。鞄から本を取り出す。
「……」
「……」
廊下での一件には、互いに触れなかった。
放送室のこの空気は、何も変わっていない。防音の壁。西日。秒針。紙をめくる音が二つ。
だが、俺の中で何かが変わっていた。
昼休みの廊下で音羽とすれ違ったとき、声が出なかった。放送室では話せるのに、外では駄目だ。なぜだ。
答えは分かっている。放送室には「口実」がある。放送の準備、選曲の相談、お便りの整理。話す理由がある。だから話せる。
廊下には何もない。ただ、同じクラスの、ほとんど話したことのない相手と向かい合うだけだ。そこで声をかけるには、「話しかけたかったから」という動機が必要になる。
俺は音羽に話しかけたかったのか。
……考えるのをやめよう。
「音羽」
「……はい」
「来週のテーマ、何にするか決めたか」
「いくつか候補があります。メモ帳に」
「見せてくれ」
音羽がメモ帳を開く。候補が三つ書いてあった。「梅雨の日の過ごし方」「忘れられない言葉」「放課後にすること」。
三つ目を見て、少し迷った。俺たちの番組名が「放課後のふたりごと」だから、テーマとして自然ではある。だが「放課後にすること」と聞かれたら、俺の答えは「放送室で音羽と一緒にいること」になってしまう。それを放送で言うのは、さすがに。
「一つ目にしよう。梅雨っぽくていい」
「……はい。私もそれがいいと思ってました」
また被った。選曲の感覚に続いて、テーマの好みも近い。
偶然の一致だ。好みが似ている人間同士なんて、別に珍しくない。
……珍しくない、と思いたいのに、胸のどこかが勝手に反応している。うるさい。黙れ。
「あの、真白くん」
「何だ」
「今日の帰り……雨、降るみたいです」
「……知ってる。今日は傘を持ってきた」
「そうですか。……よかったです」
音羽の声。安心のトーン。声が柔らかくなって、テンポがゆっくりになる。
分かりたくなかった。でも分かってしまう。
俺が傘を持ってきたことに、音羽は安心している。昨日の二の舞にならないか、心配していたのだ。俺のことを。
……傘ごときで、何を感じているんだ。俺も、音羽も。
六時。帰り支度。
今日は音羽と同じタイミングで放送室を出た。いつもは音羽が先に帰るのだが、片づけが長引いて一緒になった。
廊下を並んで歩く。昼休みのすれ違いとは違って、二人とも同じ方向に向かっている。下駄箱で靴を履き替えて、校舎を出る。
雨だ。小雨。傘をさすかどうか迷う程度の。
音羽が傘を開いた。白い折り畳み傘。
俺も自分の傘を開いた。
「……じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
校門を出て、別々の方向に歩き出す。音羽は左、俺は右。
十歩ほど歩いてから、振り返った。
音羽の白い傘が、雨の中を遠ざかっていく。小さな背中。黒い髪。
視線を戻す。前を向く。歩く。
放送室の中と外。五メートルと、五十メートルと、もっと遠い距離。
あの部屋の中でなら普通に話せるのに、一歩外に出ると言葉が出なくなる。このギャップが何を意味しているのか、本当は薄々分かっている。
分かっていて、名前をつけずにいる。名前をつけたら、取り返しがつかない気がするから。
雨が少しだけ強くなった。傘を叩く音が、放送室の秒針の代わりに時間を刻んでいた。
放送室の中と外で態度が変わる。それは、あの部屋が特別だからか。それとも、あの部屋にいる人が特別だからか。




